別れていた時は



 古ぼけたアパートメントの鍵をつけておくには、そのキーホルダーは、少々りっぱすぎる代物だった。
 掌にずしりと重いそれは、アルミか何かのように見える銀色で、けれど重さが、何か別の種類の金属なのだと伝えてくる。
 白っぽい銀色は、一枚紗のかかったように、鈍く、手触りも、つやつやつるつるではなく、ざらりとしていた。
 近道に通り抜けようとした、大きなデパートメントストアの、男物の並んだ辺りで見つけて、思わず足を止めたことを思い出す。
 ブランドの名前に興味はないし、気に入れば、何十万もするスーツも、ただ同然のセーターも、グレートにとっては価値は同じだ。キーホルダーに凝る趣味はないから、それもまた、いくつかの鍵を、ポケットの中にまとめて収めてくれるという機能さえきちんと果たしてくれるなら、安全ピンだってかまわないと思っている。
 それなのにその時、ぱたりと、先を急ぐはずの足が、止まった。
 小さな箱の中の、深い青の、つやつやとした布の上に、気取りを装って乗せられていたそのキーホルダーは、縦に長い楕円の形をしていて、中央部分が、四角くくり抜かれていたり、それが名札のように、小さな輪で、外円に止められていたり、普段なら、下らない装飾だなと、横目で一瞥をくれるだけのはずだった。
 それなのに、どうして足が止まったのか、引き寄せられるように、体の向きを変え、どこかおずおずと、箱に向かって手を伸ばした。
 眺めて、それからようやく、鍵に触れて、指の腹に触れるその感触に、ふっと、気の遠くなるような、頭の後ろが空白になるような、一瞬、目を閉じて、記憶を、掌の中に、たぐり寄せた。
 ああそうかと、後は何も考えずに、箱を手に、急いでいた用も忘れてしまっていた。
 元々、大金を持ち歩く主義ではないにせよ、財布が、その場で空になりそうな値段だったことだけは、よく覚えている。
 あまり重いものをポケットに入れておくと、ズボンが傷むのだけれど、そのキーホルダーだけは例外にして、いつもそこに手を差し込んで、暇さえあれば、触っている。
 掌におさめ、親指の腹で、飽きもせずに、そのざらりとした表面を撫でる。
 部分部分が繋がれた、小さな輪や、鎖の部分の金具や、そのなめらかな凹凸を、グレートの指はもう、すっかり覚えてしまっている。
 グレートの体温を吸って、冷たいはずの表面が暖かくぬくまり、そのせいで、柔らかささえ感じそうな、そんな錯覚すらあった。
 ポケットから出して、握りしめる。片手だけではなく、両手を添えて、顔の高さに持ち上げて、時折、唇を、そっと寄せてみる。
 それは、彼に似ていた。
 隠しようもなく、サイボーグなのだと知れる、マシンガンの右腕は、ちょうど、そんな色と感触で、触れれば冷たく、けれどじきに、グレートの体温に同化し始める。
 まるで、ほんものの生身の腕のように、動く。触れて、抱きしめて、唇を滑らせて、それが、武器なのだとわかっていて、指先の部分を口に含んで、弾の飛び出すそこを、舌でなぞる。
 生身ではない、奇妙な凹凸と、生身ではありえない、金属の舌触り。けれど、だからこそ愛しいのだと言えば、彼は、横顔を見せて、頬を染める。
 含羞で、血の上る思いをするのは、グレートも同じことなのだけれど、いつまでもどこか、馴れ合うということのできないふたりだった。
 若すぎはしない、住む国も違うふたりは、会えない時間が多いのに、一緒に暮らそうとは、どちらも言い出さない。永遠に近く続く時間の中で、そう焦ることのないと思うと同時に、近づきすぎて、幻滅することや、別れを想像することに、耐えられなかったので。
 会うということが、必ずしも躯を繋ぐことに結びつかないとは言え、それでも、会えない間に思うことは、膚---人工の---のぬくもりや、手足の重さだったりした。
 手足を伸ばせば、はみ出しかねない狭いベッドで、相手を気にしながら、肩を寄せ合って眠った翌日は、同じベッドが、奇妙に広く感じられる。
 自分以外の、足音も物音もない部屋で、がらんとした空間の中に、相手の気配のかすかな残骸を、視界の端に引っ掛けて、ああ、ひとりなのだと、痛烈に思う。
 ふたりでいる時間のために、もう少し広い場所に引っ越すことも、ベッドのサイズを替えることも、不可能ではないと知っていて、けれど実行はしないふたりだった。
 自分の住み処なのだと、そのスタンスは決して譲らずに、それを頑固さのせいにしながら、実のところ、ふたりは一緒に、そして別々に、相手を、自分の領域に踏み込ませることを、ずっとためらい続けている。
 それは、臆病と卑屈のせいだと知っていて、けれど、背中を向け合いながら、時折、触れる肩に照れた笑いをこぼしながら、これを恋だと---他に一体、何だと言うのだろう---名づけられずにいる。
 恥も分別もある大人であるふたりは、もう、恋の痛みも、別離のつらさも、どれほど骨身にこたえるかと、想像しただけで、身をすくませてしまう。
 それでも、会いたいと、思う気持ちは止められない。
 会えば、伏せ目に互いをうかがって、一瞬の動きも見逃すまいと、そうして、大切に覚えておいて、次に会える時まで、鮮やかに記憶を、掌の中に呼び起こせるように、まるで刻み込むように、動く空気に、耳を寄せる。
 空気の端々に、相手の気配を感じながら、だからあの日、グレートは、こんな小さな、他愛もない、ただ、銀の色をしていて、重みのある金属だというだけで、愛しい人を思い出して、手に入れずにはいられなかった。
 握りしめて、抱きしめている彼を、想像する。
 自分の胸に、重い体を寄り添わせてくる、愛しい人を、思い出す。
 その内側の熱さに、胸を焦がして、また、会いたいと、思う。
 恋しさに、涙をこぼしたのは、一体いつ以来なのだろうかと、もう、人ではなくなってからの年月を、そっと数える。
 涙を流せる、その、自分に残された人間らしさに感謝しながら、機械の体を恥じる彼の、悲しそうな、薄青い瞳を思う。
 掌に、鈍い銀のキーホルダーが、やけに重かった。
 全身の空気が抜けるように、重く、大きく、ため息をふりこぼし、グレートは、もう一度、銀のキーホルダーに口づけた。鍵が揺れて、ちゃらりと音を立て、よけいにせつなさを誘う。
 そろいのキーホルダーを渡したら、笑われるだろうかと、思いながら、涙が一粒、頬にこぼれた。
 ハインリヒと、声に出してつぶやいて、顔を前に上げたまま、キーホルダーを、静かにポケットに戻した。


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