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Bring Me To Life

 辺りに立ちこめる煙と、金属や化合物の焦げる臭い、生身の人間なら毒性のガスでひどく咳き込んで、そんなところには数分と立っていられないだろう。ハインリヒは人工肺で普通に呼吸をして、煤で黒く汚れた顔も手──マシンガンの右手は、触れればまだひどく熱い──も、拭おうともせず、破壊の現場に空ろな視線をさまよわせている。
 敵の、小規模ではあったけれど守りの固かった基地はもう跡形もなく、粉々のサイボーグやタンクの残骸がばらばらと散らばるだけで、気配と言えば、さあドルフィン号へ戻ろうとハインリヒへは背を向け始めている、他の仲間たちの足音だけだった。
 足音がひとつ、軽々と近づいて来る。跳びはねるようではないけれど、焦げた地面を、まるで石畳のように滑る、ダンスを思わせる足の運びだった。
 「戻ろうぜ、おれたちの仕事は終わりだ。」
 背中に声が掛かる。足音よりもさらに飄々とした、それでいて腹からきちんと通って来る、底に深い声。
 「ハインリヒ。」
 「ああ──。」
 名前まで呼ばれて、ハインリヒはやっと肩へあごをこすらせるように、声の主である007──グレートへわずかに振り返り、けれど唇の端は下がったままだった。
 ハインリヒはそこから動かず、また正面へ顔の向きを戻し、向こうへ体半分ひねったグレートを無視した素振りで、風の流れを追うように、それにさらわれてゆく黒煙の名残りを視線の先に見やり続けている。
 「004──。」
 ナンバーで呼ぶ時は、少しだけハインリヒを諌めるような、あるいは慰めるような、ようはグレートの大人の分別とやらが現れる時で、ここを縦横無尽に走り抜け、まさしく死の翼を翻してすべてを素早く見事に破壊したハインリヒの、その行いを今反芻している心の内へ向かって、グレートが見えない指先を伸ばそうとしていた。
 「今度は何だ? おれたちの手は汚れっ放しだが、きれいなままの手でおれたちを好きに操ろうって連中のことか? それともきれいな手でおまんまを食いながら、誰のおかげで平和な食卓が囲めるのか、考えもしない連中のことか?」
 毒を含んだ言い方なのに、唄うような調子のせいかどうか、冗談めいて聞こえるのはいつものことだ。
 ハインリヒは瞳だけ動かして、斜め後ろのグレートをちらりと見る。
 「別に、そんなことじゃない。」
 「だったら行こうぜ。もう他のみんな、先に行っちまった。」
 親指で自分の後ろを指しながら、グレートがブーツの爪先も同じ方向へ向けようとした。
 「また死に損ねたと、思ってただけだ。」
 グレートが自分に背を向け、黄色いマフラーがはためいたところで、空(くう)に向かってハインリヒがつぶやく。声の半ばと端が、黒煙の最後の切れ目へ紛れて、風の中へひどい臭いと一緒にさらわれてゆく。
 自分の声の行方を追って、ハインリヒの唇が冷笑の形にはっきりと歪んだ。
 「まだ、おれたちの番じゃないらしいな。」
 ハインリヒの物言いを揶揄するような、そのくせ自嘲を含んだような、どちらとも悟らせ切らないグレートの声音に、ハインリヒは何のためと特に示さずに軽く首を振り、
 「俺たちの番なんか、永久に来るもんか。」
 その場へ吐き出すように言って、やっとグレートの方を向いた。
 まだ熱の残る右の掌を上へ向けて、グレートへ突き出すようにしながら、低めた声に凄みを込めて、
 「"俺の手は、広大な海を血の色で染め、海の緑を赤一色にするだろう。" (マクベス)」
 グレートがちょっと目を丸くする。それから、十八番を取られて困ったように後ろ頭へ手をやり、何かもっと気の利いたことを言い返そうと少しの間考えていた。
 「・・・"明かりを消せ。"」
 静かにそう言った後で、ちょっと胸を反らすようにして、舞台の上の所作をそこへたぐり寄せ、グレートはハインリヒの目の前で、汚れた防護服のままたちまち役者の貌(かお)になる。
 「"俺の暗黒の野望にひかりを当てるな。" (マクベス)」
 台詞の続きは、ハインリヒのそれとは比べ物にならないほど重々しく、ハインリヒは圧倒されて知らず踵を後ろに引いていた。
 ねじれていた唇はいつの間にか元の形に戻り、ハインリヒが毒気を抜かれてしまったのを確かめると、グレートは自分の台詞の余韻を数秒味わってから、ひょいといつもの表情に帰る。
 「我輩相手にシェイクスピアなぞ、百年早いぞ死神どの。」
 「あんた相手じゃ、百年あったって足りそうにないな。」
 ドイツ語訛りのシェイクスピアでは、そもそも話にもならない。素直に負けたと表情に刷いて、ハインリヒはだらりと両腕を体の脇へ下ろした。
 ようやくグレートと肩を並べるようにして、前へ滑り出したハインリヒの爪先へ向かって、グレートが不意に小さくつぶやきをこぼす。
 「──百年は、ちぃっと長いな。」
 低いその声に、ハインリヒはまた足を止めた。
 まだ残る黒煙は、けれど吹く風にほとんどないも同然に薄められ、その風にふたりのマフラーがはためていている。偶然、マフラーの端は絡み合うように触れ合っていた。
 風の吹く方向へわずかに瞳を動かして、グレートが唇の端を少しだけ上げる。
 「"真実の恋がすんなり叶ったためしはない" (真夏の夜の夢)──が、まさか百年もおれを待たせる気か死神どの。」
 「おい、グレート。」
 いたずらっぽく言うグレートの、それが冗談めかした本音なのだと気づいて、ハインリヒは少し慌てた。仲間たちはずっと先に行っている。ふたりの声の聞こえる心配はなかったけれど、破壊されたばかりの敵の基地跡は、それには少々場違いと思えた。
 みぞおちの辺りへ手を添え、恭しい仕草──こんな芝居がかったやり方が、グレートには良く似合う──で、かすかに頭を傾けているのがチャーミングにさえ見えた。
 グレートの立つその場だけ、まさに舞台の上のように、今はグレートの次の台詞を待って、そこにだけ架空の照明が当たっている。
 「百年は長いが、おまえさんとならそれもよかろう。吾輩と一緒に、灰になるかね死神どの。」
 「おれたちは、灰じゃなくて錆びて朽ちて終わるんじゃないのか。土にも戻れず、果てた後も何にもなれない。」
 「──それでもいいさ、おまえさんと一緒なら、赤錆まみれの鉄くずだって上等だ。」
 俺はごめんだねと、グレートの笑顔へ応えて、ハインリヒは誘われたようにグレートへ向かって左手を差し出している。
 鉄くずではなく、もう少し何か違うものと、そう思った時、グレートの掌が輪郭を崩し、再び元に戻った時にはそこに銀色の小さな輪が乗っていた。
 ボルトをなめらかにしたようなそれは、確かに指輪に見えた。ハインリヒはグレートへ伸ばした手をそこではっと止めて、自分を上目に見ているグレートの視線をとらえた。
 「おまえさんが、受け取ってくれるとは思ってないさ。それでも真似事くらいは許してくれ。」
 言葉と同じスピードで、その銀色の輪はグレートの掌へ溶け込み、跡形もなく消え失せる。それに触れられなかったことを残念に思った自分に、ハインリヒはわずかの間驚いた。
 「──受け取ってもいいぜ・・・って言ったらどうする。」
 考えて迷う間に、勝手に口が動いている。
 「これはこれは死神どの、一体どういう心境の変化だ。」
 わざとらしく目を丸くして見せ、いっそう芝居がかった言い方で、同じように大仰な仕草で指を、数でも数えるように掌の方へひらひらさせると、再び銀色の輪がそこへ現れる。
 手を振ると宙へ浮いたそれを、グレートは指先に受け止めた。ハインリヒの眼前へ差し出しながら、
 「そうだな、結婚は人生の墓場だそうだ、それなら死神にふさわしい。吾輩も生き埋めにしてもらうとするか。おまえさんと一緒に土の下だ。誰の邪魔も入らんよ。幽霊も歩く死人(しにびと)も、何も恐れぬ我らには邪魔にはならん。」
 「棺桶の中で、一緒に鉄くずになるのか。」
 「おまえさんと一緒なら願ってもない。おまえさんはどうだ死神どの。」
 グレートがそこへ膝を折る。指輪を差し上げたまま、焼け焦げた地面で、防護服の膝が汚れても気づきもしない風に、グレートはハインリヒを見上げている。口元も頬も、いつものすべてが冗談の表情をたたえて、けれど瞳の色だけは真摯に、グレートは指輪越しにハインリヒを見つめていた。
 そんなはずもないのに、ここが青々とした芝生か、人の足に削られてつるつるになった石畳の上のように思えて来る。グレートの赤い防護服はいつの間にか白いタキシードに変わり、こんな風に指輪と誓いを交わして、ふたりの名前を並べて書いた書類が、今時は法的にも受け入れられるのだと、ハインリヒはもうどこまでが冗談でどこまでが本気なのか、自分でも分からずに考えている。
 ふたりが並んで入る棺桶の朽ちる方が、恐らく早い。ひとの形を失わないまま、赤錆だらけの部品やコードが湿った土にまみれ、彼らを見た後(のち)の人たちは、彼らをひと組のそれなのだと見分けるだろうか。
 この指輪は、そこで最後まで輝きを失わずに残るだろうか。
 "今ここで死ねたら、この上ない仕合せだ。"(オセロー)
 ハインリヒは、心の中でだけつぶやいて、鉛色の右手の指先を、ゆっくりとその指輪へ向かって伸ばした。
 ──おい、ふたりともどこにいるんだ!?
 ピュンマの声が、突然ふたりの頭の中へ大音響で入り込んで来る。
 脳内通信機が、距離のせいかどうかかすかな雑音を交えて、すでにドルフィン号へ乗り込んでいるらしい仲間の声を運んで来て、ふたりは一瞬で現実へ引き戻された。
 グレートの気取った仕草はたちまち消えて、すくっとそこへ立ち上がると、もう指輪の消え失せた掌で照れたように後ろ頭を撫でて、やれやれと言いたげに唇の端を下げて見せる。
 ──まさかまだ敵が残ってるわけじゃないんだろう? 無事なのかふたりとも?
 矢継ぎ早にピュンマの問いが飛んで来る。
 ──今向かってる途中だ。すぐ着く。
 ハインリヒができるだけ平たい声で答えて、ふたりはもう肩を並べて歩き出していた。
 ──早くしてくれ、フランソワーズがおかんむりだ。
 ぷつりとピュンマの声が途切れ、ハインリヒは隣りのグレートへ向かって肩をすくめて見せて、足早にドルフィン号へ向かいながら、しばらく無言でいた。
 足は止めずに、爪先の出る同じリズムで、ぼそりとグレートが言う。
 「・・・冗談で言ったわけでもないんだぜ。」
 さっき指輪を持っていた方の手をひらひらとハインリヒに振って見せて、手品のような仕草で人差し指の先を輪に変化させる。ぐにゃぐにゃと歩くのと一緒に揺れるその輪は指輪にはとても見えず、けれどハインリヒがそう頼めば、グレートはそれを即座に指輪に変えてくれるのだろう。
 「俺たちには、そんなもの必要ないだろう。」
 「おれは割りと形にこだわる方でね。」
 「だったら尚のことだ。俺とあんたの名前で、一緒の墓でも買うさ。イギリスとドイツと、どっちがいい? それともスペインかギリシャの小島か、いっそ月の裏にでも行くか。」
 「月に死神が住んでるなんておとぎ話は、聞いたこともないな。」
 「・・・あんたが書いて、芝居にでもすればいいさ。」
 グレートがすぐには答えずに、軽口の応酬がそこで途切れた。先を急ぐはずの歩みは、いつの間にか速度を落としていた。
 ほとんど足を止め掛けて、グレートは輪を作っていた指を掌の中に握り込んで、
 「おまえさんが、その死神を演ってくれるってんなら、喜んで書くぜ。」
 もう、その物語を頭の中に思い描きながら、指輪を差し出した時とまったく同じ声音で言う。
 月に住む、死神と道化の話だ。道化の魂しか奪うものがないのに、それを奪ってしまえばひとりぼっちになる死神と、死神に魂を奪われたいと願って、けれどそうなればもう死神と一緒にはいられないと思い煩う道化の──そこまで考えてから、そうではない、道化はもうとっくに心ごと、魂すべてを死神に奪われているのだと思った。
 「俺が舞台立つなんて、それこそ百年どころか千年掛かるぜグレート。」
 苦笑に軽く首を振るハインリヒに、グレートは見惚れている。
 贈っても、指輪の方が先に朽ちるだろう。今までこうして続いた想いは、きっとこれからも同じように続いてゆく。千年と言う時の長さを、グレートは驚きもせずに受け止めて、あらゆるものが朽ち果てた後に、それでもそこに確かに在り続ける自分たちの、形のない心と言うものを想像した。
 焼け焦げた土の上だろうと墓場だろうと埋められた棺桶の中だろうと月の裏だろうと、ふたりでいられればそこはたちまち天国に変わるのだと、グレートは思った。たとえそこへ自分を導くのが、ほんものの死神だとしても。
 おれは、救いようのないアホウだ。
 そして幸せものだ。続けて、胸の中でひとりごちて、グレートはぐいとハインリヒの肩を引き寄せる。一瞬ためらった後で、ハインリヒもグレートの肩へ掌を乗せて来た。
 肩を組んで歩く素振りで、額を寄せ合う。互いに近づく目元は鼻先の線が照れ臭くて、くくっと笑い合ったそこに、またピュンマの声が飛んで来た。
 ──置いて行くぞふたりとも!!
 額の触れ合いそうな近さは変えないまま、ふたりはそれでも少しだけ慌てて、もうすぐだと上の空の返事を送った。
 どうせ何とかなると言うだけではなくて、置いて行かれるならそれでもいいと、ふたり一緒に、別々に、同時に思う。
 ピュンマの声がふたりを追い立てて、ふたりはそれに素直に従って足を早めながら、組んだ肩はまだほどかない。背中で揺れるマフラーが、時折触れ合っていることをふたりは知らない。
 マフラーの輪郭を飲み込んだふたり分の影も、ふたりと見分けのつかないひと塊まりの線をそこに表して、今は前だけを見ているふたりにそれは見えないままだった。

☆ 元ネタっぽいのはこちら
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