Calling You...



 やけにはしゃいだ様子で、ジェットは、小さなその銀色に光る機械を、アルベルトに手渡した。
 ほとんど感じる重みすらない、薄く細長い、機械と呼ぶにはあまりにも可愛らし過ぎる外見の、きゃしゃなそれ。
 何だ、と、アルベルトは、掌にすっぽりと収まってしまったそれと、いかにも得意げなジェットの表情とを、交互に見た。
 「携帯だよ、携帯電話。アンタ、まだ持ってないだろ。」
 リビングの、自分の定位置で、いつものように本を読んでいたアルベルトの目の前に、いつも以上の騒々しさでやって来たと思ったら、ちょっといいか、とも訊きもせず、ジェットはとっとと本を取り上げてしまった。
 読書の邪魔をされるのが何より嫌いなアルベルト---そしてそれは、皆の間で暗黙の了解になっていたので、ジェットでさえ、あまり声をかけて来ない---は、不機嫌を隠さずに、そしてそれをきちんと示そうと、目の前の長身へ向かって、顔を上げた。
 けれどアルベルトが抗議のために口を開く前に、その小さな機械が、彼の掌の中に降って来た。
 気をそがれて、やや困惑して、ムっと唇を引き結ぶ。何のことだか、きちんと説明しろ、そう、目顔でジェットに問いかける。
 「だ・か・ら、携帯。携帯電話。ちなみにオレのと色違い。」
 彼がポケットから、さらに声を弾ませて取り出して見せたのは、同じ形の、けれど赤いモデルだった。
 眩暈が、ふとした。状況がうまくつかめない。ジェットが一方的に進行させる物語のオープニングに、アルベルトは、大根役者のようにただ突っ立ったままでいる。
 一体、何の話をしてるんだ、こいつは。
 機械の掌には不似合いな、滑らかに光る銀色の形。小さな液晶の画面と、その下に、さらに小さな数字が並んでいる。確かに、電話のように見えた。もっとも、せいぜい出来のいい、高価なおもちゃ程度のものだったけれど。
 自分の、機械の掌の不粋さと、その銀色に光る"おもちゃ"の優美さと、ありったけのジェットの笑顔が、今この場面に、何故だか釣り合っているように、ふと思えた。
 「わかった、わかったから、説明しろ。どうしておまえが、俺にこんなものをよこすんだ?」
 さらに大きく笑いながら、ジェットが言う。
 「そんなもん、決まってるだろ。これでアンタは、いつでもどこでも、オレの声が、聞きたい時に聞きたいだけ聞けるってわけだ。」
 そんな当たり前のこと、わざわざ説明させるなよと、彼の笑顔が言っているのが、はっきりと見えた。
 途端に、頬に血が上る。白い皮膚に、ぱっと赤みが散る。
 「そんな、こと、別に、必要でも何でも---」
 反駁しようとするのに、舌がうまく動かなかった。うまく反駁することが出来たかどうかは、そもそも怪しかったけれど。
 隣りにある3人掛けのソファに、飛び込むように腰を下ろすと、ジェットはうきうきした口調のまま、アルベルトに向かって、その機械の説明を始めた。
 「だからさ、こうやって、番号打ち込んで、ここ押して、そうすると繋がる、と。」
 ジェットが、自分の赤い機械を耳元に当てた途端、アルベルトの銀色の方が、奇妙な音楽を奏で始める。"喜びの歌"、そして小さな液晶画面には、"Your Honey"と文字が現れる。
 第2幕も、アルベルトは取り残されたままでいた。もし自分がアメリカ人なら、"What the hell is going on?"(ちくしょう、何だってんだよ)くらいのことは喚いたかもしれない。
 ジェットが手を伸ばし、呆然としているアルベルトの代わりに、銀色の方の、小さなボタンをひとつ押した。その途端、
 「な、聞こえるだろ?」
と言うジェットの声が、正面からと、機械から、両方一緒に聞こえた。
 「簡単だろ、ここを押せば電話に出る、で、終わったらここを押す、と。」
 説明しながら、小さなボタンをひとつひとつ押して見せる。そして今度は、違うボタンを操作しながら、画面を次々と変えてゆく。
 「で、アンタの方から掛ける時は、ここをこうやって」
と、自分の赤い方と交互に見ながら、ジェットはひとつの画面を引き出した。
 "Your Honey"と記された文字の下に、10ケタばかりの、見慣れない数字の羅列。
 「な、もう、オレの番号、入れといたから。」
 得意満面、というのは、こういう表情を言うのだろう、とアルベルトは頭の隅でふと思う。
 アメリカ人ってのは、つくづく理解不能だ。こういうことにだけ頭が回るから、あの国の連中は、きっとあんなに能天気でいられるのだろうと、支離滅裂なことを考える。
 よく見えるようにと、わざわざアルベルトの目の前に差し出した、ジェットの赤い方の画面には、"My Baby"と言う文字と、アルベルトがさっき見たのと似たような10ケタほどの数字が並んでいた。
 また何やらアルベルトの銀の方のボタンを押すと、今度はジェットの方が鳴り始める。確か、"With You"と言うタイトルの曲。そして画面には、"My Baby"と現れている。
 音が止むと、"Hello?"と、銀の方からジェットの声が聞こえた。
 テストで満点を取ったとか、何かの大会で賞をもらったとか、誰かに褒められたとか、子どもが親に報告する時に見せる、極上の笑顔。誇りに輝いて、世界は自分のものだと、高らかに宣言する、その表情。ジェットは、そんな顔をしていた。
 気圧された、としか言いようのないまま、アルベルトは、何も言えなかった。一体、何が出来る? こんな、相手も自分と同じくらい幸せに喜んでると、決め込んだ笑顔に、どうして反論できる?
 苦笑いさえ、浮かんで来ない。
 腹立ちよりは、戸惑いだった。
 ありがとうと言って素直に受け取る、という考えは浮かばない。むしろ、今すぐここで、思い切り握り潰してやろうかと、その方がいいような気すらする。
 黙り込むというのが、今は最上の選択らしかった。
 そんなアルベルトを気にする風もなく、ジェットは自分の赤い方をポケットにしまうと、さてと、とソファから立ち上がった。
 「どこに行くんだ?」
 思わず、すがるような声で、訊いてしまう。こんな、子どもだましのちっぽけなおもちゃと一緒に、こんな風に取り残されるのが、何故だかいやだったので。
 喜んで受け取ったと思われるのが、何よりいやだった。
 「海まで、ひとっ飛びしてくるよ。いい天気だぜ、今日は。」
 リビングを出ながら、顔だけで振り返る。まだ、笑顔のままで。
 「おい、行く前に、説明書、置いてけよ。」
 「使い方、わかんねえのか?」
 「---違うっ。あの、"Honey"だの何だのを消すんだっ。」
 アルベルトの憎まれ口に、ふわりとジェットが微笑んだ。
 「フランなら、多分やり方知ってるぜ。教えてもらえよ。」
 おかしそうに笑いながら、ついでに、という風に、壁の向こうに完全に消えてしまう前に、ジェットは付け加えた。
 「ちなみに、国際電話だって、出来るんだぜ、やろうと思えば。」
 笑い声と、走ってゆく足音、ドアの開閉の音、そして、中からでも微かに聞こえる、あの噴射の音。その間ずっと、アルベルトは、掌の中の、銀色の機械をじっと眺めていた。
 こんなちっぽけなもので、ジェットと繋がろうと思えば、いつでも繋がれるのだと言う考えが、ふと浮かんだ。思ってからまた、ひとりで赤面する。
 こんなもの、全然気にならない、そう思い込むために、それを傍の小さなテーブルに放り出すと、ジェットに取り上げられたままだった本を、また手に取る。
 ページを繰り、文字を追う。
 行の合間に、つい、視線がさまよう。漂う先はいつも、あの銀色のおもちゃだ。
 ちくしょう、とアルベルトは小さく毒づいた。
 10ページほど進んだ頃、ついに本を閉じた。
 壊れものでも扱うように---時限爆弾を扱う時だって、これほど優しくはしないだろう---それを取り上げ、ジェットの手つきを思い出しながら、その中にすでに入っているはずの番号を捜す。さして難しい操作ではないけれど、ボタンを押すたびに、滑らかな表面にキズでもつけないかと、冷や冷やした。
 耳に当てると、普通の電話と同じ音がする。相手を探して、繋がる音。
 3度数えた時、ジェットが答えた。
 ---Hello?
 「まだ、飛んでるのか?」
 ---いや、今は下にいる。
 言うべきことが、なかった。自分から掛けて黙り込めるほど、無礼でもないのが取り柄なのに、こんな時には、図々しくなり切れない自分が、心の底から恨めしかった。
 ---アルベルト?
 怪訝そうな、ジェットの声が聞こえる。
 「別に、何でもない。ちゃんとほんとに使えるのかどうか、気になっただけだ。」
 そうだ、ジェットが言った通りに、こんなおもちゃがちゃんと動くのかどうか、確認したかっただけだ。別に、ジェットの声を聞いてみたいと思ったわけではない。そんなつもりじゃない。
 ---ちゃんと聞こえるだろ?
 いたずらっぽく、ジェットが言う。
 ---いいよ、何でも。アンタがどう言おうと、オレの声が聞きたくて掛けて来たって、オレにはわかってるから。
 「そう思いたいなら、勝手に思え。」
 向こう側で、ジェットが笑った。
 ---あと1時間くらいで戻る。アンタの好きなケーキか何か、買って帰るよ。
 ああ、と短く言って、電話を切った。
 掌の中の小さな機械が、微かに熱を帯びているように思えた。無機質に文字の並ぶ画面を、しばらくの間眺めてから、アルベルトはまた本を読むために、それをテーブルに戻した。
 本を開き、椅子に座り直してから、ふと一瞬、また心を奪われる。
 そうして、でも今度は、苦笑いが素直に漏れた。
 銀色の、その電話だという機械を取り上げ、自分の膝の上に置く。どこにいるかはわからない、けれどどこかにいるジェットと、こうして、こんな小さな機械で繋がっている。
 電話が鳴るのがこんなに待ち遠しいのは、一体どのくらい振りだろうと、アルベルトはふと思った。
 ちゃんと聞こえるだろ。さっきそう言ったジェットの声を、アルベルトは耳の奥で繰り返していた。ああ、そうだな、と答えながら。

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