24祭り参加 - intro by Moonlyさま

Crosswalk

 あいつはひょろりと細い体で真っ直ぐに立っていた。相も変わらず重力に逆らった赤い髪。火のついたマッチを連想させて少しおかしい。こちらを見つけてやけに嬉しそうな顔をしているのがはっきりと見えた。
 空気が乾燥すると、星空がきれいに見える。大気中の不純物がなくなって視界がクリアになるからだそうだ。街中のイルミネーションが増えるのもそのせいだろうかと呟くと、あいつは小さく笑った。
 何でもかたく考えすぎだと言いながら、レザージャケットのポケットに手を突っ込む。ぎゅっと竦めた薄い肩がとても寒そうに見えるから、だから、つい放っておけない気になった。


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 「どんどん煙草吸えるところは減ってるんだぜ。」
 ちょっと茶化すように言う。
 歩きながら吸う煙草に向いて来る視線が、確かにここ1年ひどく冷たいものになっているのには、ハインリヒも当然気づいていたから、まだどこへも向かおうとはせずに、ふたり一緒に会ったまま立ち止まって、ジェットはハインリヒが煙草を吸い終わるのを待っている。
 「どこも同じだな。ドイツでも、田舎に行けば別だが、街中ではもうどこも喫煙ご法度だ。」
 「アンタ、これを機会にやめちまえばいい。」
 元不良少年──本人が語ったというフランソワーズの話によれば、一応はそれなりのグループを率いて、ライバルグループと喧嘩三昧だったらしい──のくせに、煙草は吸わないジェットが、細くて形のいいあごをハインリヒの口元に向かってしゃくる。
 ハインリヒもそこそこ長身だけれど、それよりも数センチ高いジェットの、淡い緑の瞳の位置に自分の視線を合わせる時に、ハインリヒは何とも言えない気持ちを味わう。
 今は、口から吐く息の白さと煙草の煙に隔てられて、ジェットの瞳がいっそう淡く見えると同じほど、自分の、きっと隠しきれないうれしさに揺れている、さらに色の淡い水色の瞳がうまく隠れていることを期待しながら、ハインリヒはまるでため息のように、大きく胸を張って煙を吐き出した。
 「生身じゃあるまいし、体に悪いって理由がなけりゃやめる理由がない。」
 今ではもう、さらりと口にできる、普通ではないというその言い方に、ジェットがすっと瞳を動かして、ハインリヒの右手の革手袋を見た。すっかり、まるで皮膚のように馴染んでいる使い古しのその革手袋の、指の間に挟まれた煙草の先が燃えながらじじっと音を立て、ジェットの自分に対する──そして、ジェット自身に対する──屈託を素早く読み取ったハインリヒは、少しばかりせわしない仕草で煙草を口元へ運んだ。
 そんな所作に、ハインリヒの心の動きを読み取って、ジェットがちょっと肩をすくめる。
 あまり詳しくは語らなくても、そう頻繁に一緒にいるわけではなくても、今では、かすかな眉の端の上げ下げに、相手の心の機微が理解できる。そんな風に、いつの間にか親(ちか)しくなっているふたりだ。
 もう一度、深く煙を胸の中に吸い込んで、今ではただの刺激でしかないニコチンの作用に、ハインリヒは今だけ酔った振りをした。
 「まだ寒いな。」
 「当たり前だろ、まだ2月だぜ。」
 「日本なら、もうそろそろ春がどうの言い出す頃じゃないか。」
 「あそこは別だろ。1年中どの花がいつ咲くのどうの、川の水の温度がどうのこうの、薬の売人が殺し合いばっかりしてるこことじゃ別世界だ。アンタのところだって、年がら年中スキンヘッドと移民がいがみ合ってるとか何とか、そんなニュースばっかりじゃねえか。」
 「・・・殺伐としてるのは世界中どこでも同じだな。」
 「そういうこった。オレたちが呼ばれないだけマシってことさ。」
 確かにそうだ、ここ数年、そんなお呼びはとんと掛からない。
 だからわざわざ、ハインリヒがこうしてジェットの元へやって来る羽目になった。
 ドイツでは何度か会っている。主には、何の前触れもなくジェットが突然現れて、何の計画も立てずにやって来るから、当然なしくずしにハインリヒの狭いアパートメントで数日一緒に過ごすことになる。
 だから今回は、きちんとそれなりの計画を立てて、ハインリヒがジェットに会いにやって来ることにした。2月の半ば、恋人たちや夫婦が少しばかりさんざめくこんな時期になったことには、さして深い意味はない。それでも、世界のあちこちで、大っぴらに愛だの恋だのとささやける日にジェットと一緒にいられるということには、何の思惑もないにせよ、何かしらの、ふたりが意図しない意味があるのだろう。
 ハインリヒは、煙草を足元に落として、革靴の爪先で丹念に踏み潰した。
 ジェットが、それにかがんで手を伸ばす。
 どこから持って来たのか、ポケットから取り出した紙ナプキンに吸殻を包み、そのままポケットに入れてしまう。
 「罰金食らいそうになっても、アンタは外国人で通用するけど。」
 ただそれだけの動作が、ジェットがしていることだからなのか、ハインリヒの目に、ひどく美しく映る。
 「オレはここらのおまわりには顔覚えられちまってるからな。」
 そう言って笑うジェットは、確かにこの街の風景の中に、しっくりと溶け込んでいる。
 どこか雑然とした、冷たい空気は季節のせいだけではなく、それでもなぜかジェットの周囲だけは、その逆立った髪の赤さのせいなのかどうか、ほのかなあたたかさに包まれているような気がする。
 ここはジェットの住む街だ。ジェットの呼吸する空気で呼吸しながら、異質な自分の、周囲から浮き上がっている輪郭を自覚して、けれど今はそれがそれほどは気にならない。
 歩き出そうとするジェットの隣りに、ハインリヒはゆるみそうになる口元を引き締めながら足並みを揃えて行った。
 「で、どこに行くんだ。」
 「とりあえずどこかであったまろうぜ。」
 うっかり、ハインリヒは足を止めた。
 1歩先へ進んでしまったジェットが、慌てて肩をこちらに向ける。
 「おい! 勘違いすんなよアンタ! コーヒーでも飲もうぜって言ってるだけだぜ。」
 ジェットが高く上げた声に、通り過ぎた黒人の若い男が、一体何事かと振り返ってゆく。その男へ一瞬視線を滑らせてから、ハインリヒはようやく自分の勘違いに頬を染めた。
 ジェットが、手招きしながらハインリヒの傍へやって来て、肩の近くへほとんどあごを乗せそうに顔を近づけて来た。
 「・・・それとも、今すぐどこかでふたりであったまるか?」
 「右手で殴ってやってもいいぞ。」
 右手はもう、言った通りに拳の形に握り締められていた。おっと、とジェットがまたおどけた仕草でハインリヒから半歩離れる。そうやって、まるで子どものようにじゃれ合って、またわずかに揃わない肩が並ぶ。
 忙しく車と人の行き交う通りを、ジェットの細くて長い足が、惚れ惚れするような動きで進んでゆく。自分の体の動きが重いのは、武器庫用に丈夫に造ってあるからだと心の中で言い訳しながら、ハインリヒはジェットの足運びを見つめていた。
 「ちょっとめかしたところにでも、アンタのこと連れて行こうかと思ってたけど。」
 ジェットがそこで一度言葉を切った。歩き出せば切る風のせいで、ふたりともまるで生身のように頬や鼻の先が赤くなる。ジェットの吐く息の方向を眺めて、ハインリヒは先を促すために肩をすくめて見せた。
 「ちょっと歩くけど、アンタ寒いのは平気だろう。」
 「不幸中の幸いにな。」
 ハインリヒの皮肉な口調には取り合わず、ジェットが先を続けた。
 「オレのアパートメントのちょっと先に、新しいコーヒーショップができたんだ。そこは前はピザ屋で、半年経たずに潰れちまってさ、ソースはまあまあだったけど、ペパロニがちょっとアレでさ。その後に開いたのがそのコーヒーショップで、経営者が中国人なんだよ。」
 「中国人?」
 「わりと珍しいだろ? 普通はレストランにしちまうもんだけどな。」
 グレートをこき使う張大人を思い出したのは、もちろんふたり同時にだった。
 「別にどうってことない普通のコーヒーショップなんだけど、メニューにワンタンスープがあるんだぜ。朝メシも、ちょっと日本みたいでさ、皿がいくつも出て来てきれいに盛りつけてあるんだ。」
 ギルモア邸での食事の様子が、ありありと目の前に浮かぶ。いつの間にか日本式に馴染んでしまったフランソワーズの、国籍不明の食事の風景だ。手伝いのジョーの笑顔と、皿を洗うピュンマやジェロニモの後姿も、ハインリヒは一緒に思い出していた。
 「そこに行くのか?」
 確かめるために訊くと、ああ、となぜか照れたような笑顔で、ジェットがうなずいた。
 「気取ったところは明日にしようぜ。」
 「うまけりゃどこでもいい。」
 ハインリヒがわざと語尾を投げ捨てるように言うと、ジェットがいっそう微笑みを深くする。
 「アンタと一緒なら、どんなメシでも美味いさ。」
 ジェットの真っ直ぐな物言いに、ハインリヒは少しの間心を打たれて、それから、小さくかすかに喉の奥で、そうだなとつぶやいた。
 ジェットが普段行く店にゆく。そこへ足を踏み入れて、ジェットの普段の姿を覗き見る。ジェットが食べるものを食べ、ジェットが声を掛ける人たちに挨拶をし、自分のいないところでジェットが築いた世界の一部を垣間見る。そうやってまた、ほんの少しジェットに近づいてゆく。
 不意に、仲間たちが恋しくなった。
 自分の知らないジェットがいるという当たり前のことを目の当たりにして、自分の良く知るジェットを見たくなって、張大人の大盤振る舞いに舌鼓を打つギルモア邸の食事の風景を、手近に引き寄せたくなる。
 ここが路上で、ジェットの住む街で、今肩を並べて一緒に歩いているのに、ジェットに触れられないことを、ハインリヒはひどく残念に思う。
 さっきの自分の勘違いを、訂正させずに押し通せばよかった。そんなことさえ思って、ひっきりなしに喋りながら、自分に向かって笑顔を振りまくジェットを軽く見上げて、いつの間にかハインリヒも、すっかり頬の線をゆるめていた。
 数メートル前の横断歩道が、ちょうど青に変わる。
 「お、渡っちまおうぜ。」
 走り出そうとする前に、ジェットの手が、ごく自然にハインリヒの右腕を取った。
 腕を取り返すことはせず、ジェットと一緒に走り出す。人の波の間をふたりで一緒にすり抜けながら、舗道を蹴って軽く飛び上がる体と一緒に、ひどく明るい気分が沸き上がって来た。
 次のメンテナンスは、一緒に日本に行かないか。
 浮き立つ心の中に不意に飛び出して来たその考えが、まるで胸から飛び出してこぼれ落ちてしまうのを防ぐように、ハインリヒは左手で胸元を押さえ、先に横断歩道を渡り切ったジェットが半歩先でこちらへ振り向くのに向かって、ぽんと大きく、そのまま空に飛び上がれそうな勢いで、舗装された地面を蹴った。

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