終わりよければすべてよし



 朝帰りなぞ、珍しくもない。
 今日は戻らないからと、言い残して出て来たから、ジェットは心置きなく夜遊びを楽しんだ。
 外で吸ってと、フランソワーズに怒られることもなく、存分に煙草を吸い、飲み過ぎだと、ハインリヒに叱られることもなく、存分に飲んだ。
 それから。
 柔らかな、生身の人間の女の子の、唇。
 まだ、うっすらと夜の気配の残る道を、バイクで飛ばしながら、ジェットは、抱きしめた女の子の、肩の細さを反芻する。
 あのまま口説いても、良かったのだ。
 おそらく断られることなく、彼女はむしろ、喜んでジェットと寝てくれたろう。それでも、ふと思い出した自分の人工皮膚の硬さが、ジェットをためらわせた。
 それに、と思う。
 やっぱ、惚れてる奴とやんなきゃ、つまんねえ。
 体の欲求と、心が求めるものが一致しないことに、かすかな苛立ちを感じながら、ジェットは、スピードを落として、ギルモア邸の敷地に滑り込む。
 それでも楽しい夜だったと思いながら、ジェットはバイクをガレージに入れようとして、そのガレージの前に、珍しい車が駐められているのに気づいた。
 「グレートの車じゃんか。」
 濃い緑の、ボルボ。
 張々湖が、みなに食事を振る舞いに来たのだろうかと思いながら、それにしても、ふたり---グレートと張々湖---がここに泊まって行くのは、珍しいことだった。
 第一、フランソワーズとジョーは、イワンを連れて、ギルモア博士の学会のお供をしているし、ハインリヒとジェロニモしかいないここで、張々湖がふるう腕もないだろうと、ジェットは怪訝に思う。
 ガレージの中にバイクを入れ、ジェットはヘルメットを脱いで、ようやく人心地がついたように、大きく息を吐き出した。
 Home Sweet Home、そんなことをつぶやいて、静かに玄関に向かう。
 もう、朝の気配に包まれた家の中は、明るく、けれどしんとしていて、ジェットは足音を忍ばせて、自分の部屋---ハインリヒと、ふたりでシェアしている---へ行った。
 ドアをそっと開け、眠っているはずのハインリヒを起こさないように、中をうかがってから、体を滑り込ませる。
 夜は必ず、ハインリヒが引いてからベッドへ行くはずのカーテンが、開いたままで、部屋の中はもう、すっかり明るかった。
 並んだベッドの空の方は、もちろんジェットのベッドで、もうひとつの方には、何故か、人の形がふたつ盛り上がっていた。
 ドアからベッドまでの床には、脱ぎ散らかした服が点々と落ちていて、ジェットは、ベッドに近づきながらそれをひとつひとつ拾い、軽くたたんでから、ハインリヒのベッドの足元に、そっと置いた。
 その時、不意に、ベッドが動いて、頭髪のない頭が、おはよう、と言った。
 「よう、グレート、あんた、ここで寝てたのか。起こしちまったかな。」
 目元しか今は見えない、自分よりずいぶん年上のその男が、何故か、はにかんだように、ジェットを見ている。
 ジェットは、もう起きているなら気遣い無用とばかり、いつもの足取りで自分のベッドに近づくと、どさりと腰を下ろして、靴を脱ぎ始めた。
 「早かったんだな。」
 グレートが、首だけ持ち上げて、そう言った。
 「ああ、口説こうと思った女の子が、なんかのらなくて、やめちまった。またどこかで、別の子でも探すさ。」
 「残念だったな、そりゃ。」
 「いいさ、別に。真剣に惚れててフラれたわけじゃなし、ちょっといいなと思っただけなら、別に口説けなかったからって、くやしがることもないだろ。」
 これから眠るために、服を脱ぎながら、ジェットはいつもの調子で、べらべらとしゃべり続けた。
 「あんた、また飲み明かしたのか、ハインリヒと?」
 グレートの方を、見もせずにそんなことを訊くと、まあなと、歯切れ悪くグレートが答える。
 言葉がようやく途切れたのを、待っていたように、グレートが、静かに、抑えた声でジェットに言った。
 「ジェット、悪いんだが、そこのセーターを、取ってくれないか。」
 目線で示された、さっきジェットがそこに置いた黒のセーターに、これか、と言いながら、ジェットは素直に腕を伸ばす。
 ハインリヒの、黒のタートルネックの、薄いセーターだった。
 ほらよ、と手渡すと、グレートは、ありがとうと小さく言ってから、となりに寝ているハインリヒに、毛布の下でそのセーターを渡した。
 なんだ、ハインリヒも起きてたのか。
 さっきから、身じろぎもせず、こちらに声を掛けることもしなかったので、てっきりまだ寝ていると思っていたのに。
 毛布の下で、ハインリヒがごそごそと、渡されたセーターを無言で着ているのが、毛布の動きではっきりわかる。
 その時、不意に、ジェットは、あることに気づいて、ベッドの上で動きを止め、ひとりで絶句した。
 ハインリヒの方を見ていたグレートが、またジェットに振り返る。
 ジェットは、申し訳なさそうに、薄く笑って見せたグレートに、思わず頬を赤らめ、自分の滑稽さにようやく気づいて、考えるより先に、脱いだばかりの服をまた身に着けると、
 「ごめん!」
と、叫ぶように言って、部屋を走って出て行った。
 後ろ手にドアを閉め、もうジェロニモが、まだ隣りの部屋で寝ているだろうことなどお構いなしに、ジェットは、リビングまでの廊下をばたばたと走った。
 走りながら、また、考える。
 なんで、ハインリヒのセーターを、グレートが受け取って、渡してやんなきゃらないんだよ。なんでそのセーターを、ベッドの中で着なきゃなんないんだよ。
 つまりは、そういうことだと、徹夜明けの、回転の鈍い頭のすみで、ようやく思う。
 ひとりになりたくて、走って来たリビングには、ジェロニモがいた。
 毛布と枕を、大きい方のソファに置いて、明らかに、ここで夜明かししたらしかった。
 お帰り、と先に言われ、ジェットは、真っ赤な頬を隠すように、ごしごしとシャツの袖で拭って、ただいま、とようやく返事をする。
 「なんで、ここで寝てるんだよ?」
 ジェロニモが、いつもの、まるきり感情の現れない表情で、静かに答えた。
 「007、004の部屋にいる。俺の部屋、となり、邪魔する、悪い。」
 当然の気遣いじゃないかと、言わんばかりに、今のジェットには聞こえた。
 何も知らずに部屋に入り、おまけに、床から服まで拾い上げた自分の迂闊さが、ますます滑稽に思える。
 どうして、オレだけ、知らないんだ。
 そう、叫んでやりたかったけれど、ジェロニモに八つ当たりしてもしょうがないと、一切れ残った理性がつぶやくのが聞こえた。
 その時、玄関の方で、ドアの開閉の音が小さくし、ふたりが一緒にその方へ首を回すと、照れくさそうに、口元をへの字に結んだハインリヒが、リビングの方へやって来た。
 ジェットの肩を軽く叩いて、いつもの彼らしくもなく、どこか和んだ顔つきで、
 「悪かったな。」
と、短く言った。
 ジェロニモは、それを見て、毛布と枕を腕に抱えて立ち上がると、
 「007、帰ったのか?」
 そう、また無表情なままハインリヒに尋ねる。
 ああ、とハインリヒがうなずくと、
 「俺、部屋、戻る。」
 何事にも動じない彼らしく、大きな体を静かに運んで、するりとハインリヒのそばをすり抜けた。
 ハインリヒは、それに軽くあごを引いて、ジェロニモを見送ると、また、ジェットの方へ振り向いた。
 「おまえが、こんなに早く帰って来るとは、思わなかったんだ。」
 「ああ、どうせオレは、場の空気の読めない、鈍感なガキだよ。」
 まるで、ひとりだけのけ者にされて、すねてしまった子どものように、ジェットは、遠慮もなく唇をとがらせる。
 「・・・いつ、そんなことになったんだよ、アンタら。」
 ハインリヒが、額に手を当て、少しばかり困ったように、指の間からジェットを見やった。
 数秒、黙った後で、
 「紅茶でも、飲むか?」
 眠気はとっくに消えていて、しばらく眠れそうにもない。
 ジェットは、ああ、と短く答えた。
 キッチンで、湯を沸かすハインリヒの後ろ姿を、まるで観察するように眺める。
 黒のタートルネックのセーターは、さっき、ジェットが床から拾ったものだった。
 あの、流れるようにしゃべる、年上の男が、一体どんなふうにハインリヒに触れたのだろうかと、ふと想像して、ジェットはまたひとりで頬を赤らめる。
 そんな自分を、下世話な奴だと思いながら、それでも、そんな気配すら見せなかったふたり---もちろん、気づいていなかったのは、ジェットだけかもしれないけれど---の間のことを、必死に探ろうとする。
 ハインリヒが、女の話に乗って来ないのは、昔、人間だった頃、死んだ恋人のせいだと、細かい部分は知らなくても、それだけは知っている。グレートとは、そんな話をする間柄でもなかった。
 ジェットが知らないところで、ふたりが魅かれ合い、そんなところまで進んでいたのが---それを知らなかったということが---、ジェットにはショックだった。
 部屋を共有して、一緒に過ごす時間がどれほどあっても、自分に見せない部分がそんなにあったのかと、ジェットは、相変わらずのハインリヒの水臭さに、少しだけ腹を立てている。
 ハインリヒがいれた紅茶を抱えて、ふたりは、黙ったまま、キッチンのテーブルに、角を挟むようにして坐った。
 「で、いつ、そんなことになったんだよ、アンタら。」
 同じ問いを繰り返すと、また、ハインリヒが困ったように、あごの辺りをしきりに撫でる。
 頬を赤くして、それでも、誰かに話したくて仕方なかったと、唇の辺りが正直に示していた。
 「・・・3人で飲んで、おまえが先に酔いつぶれた時があったろう。」
 テーブルに頬杖をつき、ジェットは、瞳を上に押し上げて、いつだったっけと、その日のことを思いだそうとしてみた。
 ジンだったろうか、大量のボトルを並べて、飲み比べをした。ボトル1本空けただけで、ジェットはすっかり酔いつぶれ、ジェロニモに抱きかかえられて、部屋に戻った。
 翌日、ジェットはひどい二日酔いで、残った酒を全部飲み干したハインリヒとグレートは、涼しい顔で、昼食のテーブルに現れた。
 あの日か、と思い当たって、ジェットはまた、話の続きを促した。
 「おまえが部屋に戻った後、どうしてだか、そんな話になった。」
 「そんな話って、今度やろうぜって?」
 下品な言い方で、皮肉を込めたつもりだったのに、ハインリヒは、そんなことには一向に気づく様子もなく、素直にああとうなずいた。
 これはつまり、のろけ話を聞かされるのだと悟って、それでも、自分だけつまはじきにされていたことを思えば、今、こうしてハインリヒが、少なくとも、こんな個人的なことを、自分相手に話したがっているのなら、それはそれで、友人としては喜ばしいことなのだろうと、ほんの数秒の間に、自分を納得させる。
 ジェットはまた、先を促した。
 「で、どうだったんだよ?」
 ハインリヒが、ふっと頬を赤らめ、口ごもった。
 その仕草の初々しさに、ジェットは思わず、自分の方が赤くなる。


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 今夜は、酒は一滴も飲まず、ひどく神聖な気分で、ふたりは思わず手を繋いだ。
 ジェットが、今夜は戻って来ない。
 そう、電話を入れた数時間後には、グレートは、照れくさそうな、けれどひどく優しい表情で、ギルモア邸の玄関に立っていた。
 ハインリヒは、何が起こるのかを知っていて、けれどそれに、流されてみたいと思った。
 人と交わることを避け、拒んで来たふたりにとっては、ひどく久しぶりの、他人との触れ合いだった。
 隠すつもりはなかったけれど、かと言って、わざわざ周りに知らせるようなことをした覚えもないのに、グレートの訪れに、ジェロニモは即座に、
 「俺、今夜、寝ない。することある。」
 そう言って、3人で食事をすませ、夜も更けた頃、地下室の方へ引きこもってしまった。
 聡い彼の行動に、感謝しながらも照れ、それでもふたりは、そそくさと部屋へ引き上げた。
 ドアを閉めた途端、グレートに抱きついたのは、ハインリヒの方だった。
 ゆるめただけのネクタイを、自分の方へ引っ張り、唇を重ねる。
 手の中のネクタイと同じに、柔らかな感触の、グレートの膚だった。
 ベッドへ移動しながら、服を脱ぎ捨て、まるで、100年も逢わなかった恋人同士のように、ハインリヒは、グレートの体にむしゃぶりついて行った。
 そんなハインリヒをなだめて、グレートの手が、穏やかに触れる。
 いつの間にそうなったのか、グレートの下で、ハインリヒは、もれる声を、必死に殺していた。
 自分のそれよりも、薄い体。明らかに、年を重ねた、膚の触感。それでも、柔らかくさざ波の立ち始めた---もちろん、それきり、彼の時間は止まってしまっている---皮膚の下には、まだ硬い筋肉の感触があって、ハインリヒは、自分をあやすように抱きしめる、年上の男の大きさを、ふとそんなところに感じた。
 明るい灯の下で、体を晒す気になれないのはお互いさまで、真っ暗な部屋の中で、それでも闇に慣れた目に、そっと、互いの輪郭が映る。
 人間らしいグレートの裸体に比べれば、ハインリヒの、金属に覆われた体は、いかにも無骨で不粋だった。
 それを言うと、グレートはこの上なく優しく微笑んで、
 「じゃあ、おれも、ロボットか何かに化けようか?」
 ハインリヒは、思わず、その胸に、額をこすりつけた。
 「惚れちまえば、それが真実だ。誰に弁明する必要もない。」
 死神どの、と、グレートが、柔らかく耳元に囁きをこぼした。
 体が、重なる。
 肩と胸と腹と脚と、首筋と頬と腕と、それから・・・。
 人の体の重みを、ひどく懐かしく感じていた。
 両腕で計った、確かな体の、存在。
 何度も、唇を重ねる。重ねるたび、深く、長く、ゆるく。
 小さく、灯がともる。グレートが触れた、膚の上に、ゆっくりとぬくもりが広がる。
 「あんた、あったかいな。」
 息を吐いたついでのように、思わずそう言った。
 「おまえさんだって、あったかいさ、死神どの。」
 柔らかく、唇に噛みつかれた。
 せわしなく始めたのは、ハインリヒの方だったけれど、今はグレートが、ひどくゆっくりと、時間の流れを変えてしまっている。
 不安になるほどゆるやかに、まるで、ハインリヒの全身を、すっかり飲み込むように、ハインリヒを包み込んでいた。
 声をもらせば、ハインリヒが大きく喘ぐまで、そこにじっとしている。焦れて、思わず肩を揺すると、苦笑いをこぼして、別のところへ唇を押し当てる。
 長い長い時間だった。
 ふと感じた、グレートへのいとしさに突き動かされて、ハインリヒは、思わず下肢に手を伸ばした。
 膚の熱さにも関わらず、指先に触れたそこは、あまり反応も示さずに、おとなしくハインリヒの手の中におさまっしまう。
 「あんた、大丈夫か?」
 ふっと、照れくさそうな苦笑いを、グレートがもらす。
 やんわりと、ハインリヒの手を払いながら、その指先に口づけて、グレートは、その手をシーツの上に縫いつけてしまった。
 「自分のことだけ、考えてりゃいい。おれは、おまえさんにこうしてさわってるだけで充分だ。」
 「そんなことって、ないだろう。」
 思わず、体を浮かして、抗議しかけたハインリヒの唇を、またグレートが塞いだ。
 唇と舌の動きに、また我を忘れて、ハインリヒは、すっかり抵抗する気力を奪われた。
 それでも、ようやく唇が解放されると、素早く体を起こして、さっさと体の位置を入れ換える。
 グレートがまた、困ったように、薄く笑う。
 ハインリヒは、戸惑いながら、グレートの上に体を落とした。
 そうされたように、グレートの膚の上に唇を滑らせ、平らな体のすみずみを撫でる。
 グレートに比べれば、いかにも不器用で、稚拙な動きなのだろうと思いながらも、それでもいとしさだけは存分に込めて、ハインリヒはグレートに触れた。
 すっかり形を変えてしまっている自分のそれに比べれば、グレートの方には一向に変化も起こらず、男と女では、やり方も変えるべきなのだろうかと、数少ない、女との経験を思い出しながら、ハインリヒは、少しばかり悔しさを感じる。
 恥ずかしいという感情を、今だけは忘れることにして、ハインリヒは、グレートに接吻した。
 唇を開き、まるで、共食いのように、舌を絡める。
 濡れて、生暖かいグレートの頬の裏に舌先が触れると、それだけで躯が震えた。
 どうしてこんなに長い間、人に触れずにいられたのだろう。
 剥き出しにした皮膚を重ねて、体液を絡める。互いの奥深くを、探り合う。即物的な、動物的な仕草。けれど、ひどく人間くさい行為。
 まるで、空白の時間を埋めるように、ハインリヒは、グレートの中に溺れ込もうとしていた。
 誰かをいとしく思うというのは、こういうことなのだろうかと、ハインリヒは、グレートの膝に手を掛けながら思う。
 開いた膝の間に、するりと体を割り込ませて、グレートが止めるより先に、顔を落とした。
 こんなことは、数時間前まで、想像すらしたことがない。
 グレートが、もう観念したように、ハインリヒの肩を押し戻そうとするのを止めた。
 濡れた舌を、絡めた。
 どうしていいのかわからず、それでも、こうして触れていれば、まるで包まれているように、暖かいのだろうかと思う。
 わからないまま、舌を動かし、喉を、できる限り大きく開いた。
 歯を当てないように、それだけは気をつけながら、今、自分が取っている姿勢のことは、必死で忘れようとする。
 グレートが、優しく髪を撫でた。
 奇妙な、柔らかな肉のぶつかり合う音が、耳の奥に響く。唾液の絡まる音が、それに重なる。
 どれほど必死になっても、グレートの反応は、悲しいほど薄かった。
 ようやく諦めて、ハインリヒは、口元を拭いながら体を起こした。
 「人間でいる時に、修行が、足らなかったらしいな。」
 ハインリヒは、なるべく深刻には聞こえないように、声のトーンを選んでそう言った。
 グレートの手が、頬に伸びる。
 「おまえさんのせいじゃないさ。どうやら、緊張しすぎらしい。」
 悲しそうに微笑んで、グレートが静かに言った。
 「まさか、かなうと思わなかった長年の想いが、やっとかなってみれば、このていたらくだ。」
 ハインリヒは、ゆっくりと、グレートを抱きしめた。
 「俺が下手くそなせいだって、はっきり言ってくれても、いいんだぜ。」
 はははと、軽く声を立てて、グレートが笑った。
 「"今ここで死ねたら、この上ない仕合せだ。それというのも、これ以上の喜びは行く先知れずの運命ではもう二度とやって来ないような気がするからだ"(オセロー)。」
 いきなり、芝居の声でそう言ったグレートを、ハインリヒは、思わず泣き出すかと思うほど、潤んだ瞳で見つめる。
 声を、少し高くして、首を傾げて、ハインリヒは、グレートの引用にお返しをした。
 「"ああ、不思議なこと!ここにはなんて素敵な人達がいるんでしょう。人間はなんて美しいんでしょう。素晴らしい新世界。こんな人々が住んでいるんですもの!"(あらし)」
 グレートは、くつくつと笑って、ハインリヒの頬を優しく撫でた。
 「また、別の機会がある。俺たちには、時間だけが、許されてる。そうだろう、グレート。」
 頬をずらし、触れた掌に口づけながら、ハインリヒは言った。
 ハインリヒを抱き寄せ、グレートは、すっかり冷えたシーツの上に、体を横たえた。
 ハインリヒを上に乗せて、そのまま目を閉じる。
 「重いぜ。」
 みぞおちの辺りから顔を上げて言うと、グレートのあごが、ゆっくりと動いた。
 「いいさ、人の重みなんて、久しぶりだ。」
 グレートの上で、体をずり上げ、ハインリヒは、もう一度、唇を触れ合わせるだけの接吻を落とした。
 「ほんとうに、久しぶりだ。」
 深い、染み通る声で、グレートがまた言った。
 その言葉を、ゆっくりと胸のすみずみまで行き渡らせながら、今夜のことは、おそらく一生---サイボーグに、そんなものが許されていれば---忘れることがないだろうと思いながら、ハインリヒは、グレートの胸に頬をすりつけてから、ひっそりと目を閉じた。


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 ジェットは、拍子抜けした表情で、すっかり冷めてしまった紅茶を、一口飲んだ。
 「じゃあ、最後までやらなかったわけか。」
 「別に、しなきゃいけないわけでもないだろう。」
 さすがに、むっとしたように、ハインリヒが言う。
 肩をすくめて、ジェットが、おかしそうに笑う。
 「今度ん時は、頼むから、事前に言っといてくれよ。そしたらオレ、昼まで帰って来ないからさ。」
 ああ、と、言われていることのきわどさにも気づかず、ハインリヒが素直にうなずいた。
 ジェットは、そんなハインリヒの反応に、ひとりで顔を赤くして、照れ隠しに、唇で指先を遊ばせる。
 「グレートが、アンタのセーター取ってくれって言わなきゃ、オレ、全然気づかずに、あのまま、自分のベッドで寝ちまったんだろうな。」
 ふと、そんなことを言ってみた。
 ハインリヒが、肩を引くようにして、眉を寄せた。
 「・・・部屋に入って来た時に、わかってたと思ってたんだが・・・」
 「・・・ふたりで酒でも飲んで、一緒に酔いつぶれたくらいにしか、思ってなかった。」
 ハインリヒが、不意に顔を伏せ、目元を、機械の方の掌で覆った。
 前髪の影から、真っ赤になった頬が見えた。
 「かかなくていい恥を、かいたわけか。」
 「恥くらいなんだ。アンタはひとりで幸せにひたってろよ。オレは夕べフラれたんだぜ。」
 「そいつは気の毒だったな。」
 申し訳なさそうな声で、ハインリヒが言った。
 「アンタ、皮肉も通じないのな。」
 いつもと、少しばかり勝手の違うハインリヒに、ジェットは、ふと、風の通り抜けるような、そんな感じを覚えた。
 少しばかり、大事な友人が遠くへ行ってしまったような、ようやく幸せそうに見えて、うれしいと感じながらも、一抹の寂しさを拭えない。
 それでも、きっとグレートなら、他の誰もできないやり方で、ハインリヒを支えることができるのかもしれないと思う。
 自分の思いが、正しいことを望みながら、ジェットは、まだ頬の赤い、どこかやわらかな表情の、長年の友人の顔を、そっと盗み見る。
 昨日、口説き損ねてしまった女の子の、もらった電話番号のメモのことを思い出して、電話してみようかなと、ふとジェットは思った。


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