きれいな穢れ



 酔っ払っていた。いつものことだ。珍しいことでもなんでもない。
 酔っ払っていない時のことを考えようとして、最後に素面だったのは、一体いつだったか、思い出せずに少し困った。
 困ってから、何を困る必要があったのかなと、考えた。
 酔ってるな、と思った。
 体は、ふわふわと浮いていたけれど、今は、水をすった綿のように、惨めにだらりくたりと、床に横たわっている。手足を動かすのに、ひどく時間がかかる。
 冷たい床に縫いつけられたように、まるでそこで、溺れてでもいるかのように、ひくりひくりと体を震わせる。
 溺れているのは、確かだ。酸素が足りない。酒も足りない。あがいて、もがいて、何とかしようとしている。
 でも、とグレートは思った。
 何とかしようって、何を?
 どうして?
 何とかする必要が、あるんだろうか。このままだって、いいじゃないか。
 酔っ払い結構、負け犬結構、人生なんて、しょせん現の夢さ。
 "人の一生は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎない"(マクベス)。
 夢を紡いで、人生を演じる。3流役者に、いかにも相応しい役じゃないか。負け犬に酔っ払い。おまけに今は、くたばりかけてるときてる。
 酒が悪いんだって、言い訳する気はないよ。飲み続けたのはワガハイさ。自分で選んだことだ、責任は取るよ。
 酔っ払いの戯れ言だ、とまた思う。
 責任? 何の責任だ? どうやって償うつもりだ?
 誰を、どれほど傷つけたのだろう。始終酔っ払っていて、人と酒びんを、何度間違えた?
 ひどいことも言った、ひどいこともした。
 素面では舞台にも立てずに、酒臭い息を吐きながら、何度相手役をはらはらさせた? ひどいアドリブで、舞台をだいなしにしたのは、あれはどの芝居だったか。
 ワガハイは負け犬だ。もう、ひとりで立ち上がることさえ、できない。
 酒が、指先にまで染み込んで、触れたものすべてが、酒臭くなる。
 汚染、とグレートは思った。
 それとも、アル中ってのも、感染するのかね。
 我ながら、おかしな冗談だと思って、唇の端をほんの少し上げて、笑った。つもりだった。
 最初は、どんなふうに始まったんだか。
 酒を飲むのは、もともときらいじゃなかった。
 夕食前の一杯、夕食後の二杯、寝る前にもう一杯。それが、じきに一杯ずつ増えて、昼食にも酒がつくようになった。もう少ししたら、朝食と昼食の間に何杯か飲むようになり、それから、朝起き抜けに、一杯ひっかけないと、目が覚めなくなった。
 煙草吸いの連中が、吸えないと手が震えるように、グレートの手も、酒を飲まないと、震えるようになった。震えを止めるために、また一杯、次の震えが始まる前に、また一杯、そうやって、少しずつ酔いを深めてゆく。
 酔いを醒まさないために、また一杯。そうやって酔いに溺れて、一日が始まって、終わる。
 そんなことを、もうどれほど長く、繰り返してきたのだろう。
 酔いつぶれてばかりいると、素面に戻るのが怖くなる。素面の自分が、ほんとうの自分とは思えず、その恐怖に耐え切れずに、また酒に手を伸ばす。
 酔いの膜がなければ、人とも話せず、演技もできない。酒の羊水に包まれて、酔いの子宮の中にうずくまり、生まれることを拒否したまま、今まさに、くたばる寸前だった。
 悪くない人生だった。少なくとも、途中までは。
 うつ伏せになった床の上で、息苦しくなって、じたばたとあがくように、ようやく体の向きを変えた。
 それだけのことに、骨がばらばらなるほどの疲れを覚える。
 呼吸が止まる感覚に、思わず胸に両手を重ねた。
 左肩が、しびれ始め、ぴりぴりとした痛みが、左胸から、広がり始める。
 ああ、と、声がもれた。
 心臓が、動きを止め始めている。筋肉の動きの間隔が、少しずつ大きくなる。
 そうか、ついにくたばるのか。
 左側の痛みに耐えながら、必死で、両手を胸の前に組んだ。
 ひげも剃っていない、最後にシャワーを浴びたのは、一体いつだったから、まるで浮浪者のようななりで、こうして死ぬのかと、少しだけ、罪悪感を覚えた。
 酔っ払いの死に様。よくあることの、ひとつ。名もない死体。誰も、グレートがこの世に存在しないことなど、気にもかけないまま、明日という日が過ぎる。そうして、忘れられてゆく。ただ、それだけのこと。
 神さま。つぶやきが、音もなく、青冷めた唇からもれる。
 死ぬ瞬間に、うまく目を閉じることができるだろうかと、思った。
 染みだらけの天井の、模様ともつかない波状の色や形が、ゆっくりと滲んでゆく。
 泣いているのだと気づいて、けれどもう、指を伸ばして、それを拭う力さえない。
 どくんと、心臓が大きく、一度打った。
 せめて、と思った。
 今度生まれ変わる時には、死に目を看取ってもらえる誰かが、傍にいてほしい・・・涙を拭って、魂の抜けた体を、抱きしめて泣いてくれる誰かと、一緒にいられるように、どうか、神さま。こんなふうにひとりで死ぬのは---仕方ないさ、そりゃな---、少しばかり、惨めすぎる。どうか、次の時は---次が、もしあるなら---、ひとりで逝かせないで下さい。どうか、神さま。
 目を閉じた。
 それから、誰かが、額に触れた。
 驚いて、最期の力を振り絞って、目を開ける。
 光が、あふれていた。
 「本意じゃないんだが、あんたを連れてゆくために、ここに来た。」
 銀色に輝く天使が、どうしてか、黒い長いコートをまとって、そこにいた。
 「・・・・・・天使のお迎えってことは、ワガハイは天国へ行けるってことかい?」
 いつもの軽口を返すと、天使は、ちょっと戸惑った顔をする。
 「・・・・・・天使?」
 天使が、軽く首を振る。
 グレートは、天使が差し出した手を握りながら、微笑んだ。
 「俺が天使に見えるなら、そろそろギルモア博士に、目を見てもらった方がいい。」
 天使が、苦笑しながら言う。
 ギルモア博士?
 「ああ、そうだ、死神どの。天使だ、我が死神どの。おまえさんのいるところが、ワガハイの天国だ。」
 光に包まれて、天使に手を取られて、グレートはゆっくりと息を止めた。


 肩を揺すぶられ、夢の中から突然引き上げられる。
 目を開けて、まだ夢と現実の区別もつかないまま、目の前にいるハインリヒに、ぼやけた視線を向けた。
 「ああ・・・おまえさんか。」
 「酔っ払って、こんなところで寝たら、風邪を引く。」
 頭を振って、もう、すっかり酔いも醒めて、それでもふらふらと、まだ体を揺らしながらソファから立ち上がる。
 ハインリヒが、腕をつかんで、それを支えた。
 リビングの明かりをすっかり消して、ふたりで一緒に、グレートの部屋の方へ向かう。
 「夢を、見てたよ。」
 ぼそりと、グレートは、ハインリヒの肩に寄りかかったまま、言った。
 「酔っ払ったまま、死にかけてた。おまえさんが現れて、天国に連れて行ってくれるところだった。」
 「天国? 死神が連れてゆくのは、地獄じゃないのか?」
 「・・・おまえさんも、夢の中で、同じようなことを、言ったような、気がする。」
 「覚えてないのか?」
 いや、とグレートは首を振った。
 あれは天使だった。他のことは覚えていなくても、それだけは確かだ。
 ハインリヒの肩に、額を寄せて、重すぎないように気をつけながら体の重みを預けて、少しばかり甘えたい気分になる。
 少なくとも、夢の中で願った気のすることは、かなえられたらしい。長生きするのも---たとえ、半機械のサイボーグとしても---、そう悪くはない。こうして、酔っ払うたびに、死神の姿をした天使に、介抱してもらえるのなら。 
 神さま。聞こえないように、グレートは口の中でつぶやいた。
 部屋に向かう、暗い廊下が、いつまでも続けばいいのにと、グレートは思った。


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