阿呆ばかりの世



 言葉が、通じないわけではない。
 頭に埋め込まれた、自動翻訳機がなくても、英語を使うくらい、不自由はない。ドイツ語のアクセントがまじるにせよ、話す時の発音も、そう悪くはないのだと、自分で知っている。単語の使い方も、表現の仕方も、もちろん、英語で生まれ育った人間にはかなわなくても、不満もないレベルだった。
 それでも、時として、自分が、英語で生まれ育った人間ではないことを、ひどく残念に思うことがある。
 シェイクスピアの引用を、グレートがやらかすたび、ハインリヒは、その、耳に心地良い響きを、残念ながら、響きそのままに理解はできない自分に、歯噛みする。
 響きを受け取って、言葉の連なりに直して、それを受け取り、理解する。
 もし、ハインリヒが、英語で生まれ育っていれば、響きは、受け取った瞬間に、理解へ繋がるはずだった。理解だと、自覚する間もなく、その響きの一音一音は、脳のひだへ染み通り、そこから直に、心があるはずの胸へ、するりと流れ込んでゆくはずだった。
 伝えられる言葉を、音楽のように聞きながら---なぜならそれは、音楽そのもののようだから---、しかし心はしっかりと、言葉が伝えようとする意味を、その美しい音楽の流れの中に、しっかりと聞き取っている。
 求められているのは、理解ではなく、体感と、そこに生まれる恍惚に、素直に屈服することだった。
 けれど、ドイツ人として、ドイツ語を母国語として生まれ育ったハインリヒには、グレートが、その恍惚に浸るようには、シェイクスピアを感じることはできない。
 それを、悔しいと思う。悔しいと思ったところで、何も変わるわけではないから、もちろんあきらめてはいるけれど、それでも、グレートが見ている世界を、グレートが感じるように、見るように、味わうように、感じることも、見ることも、味わうこともできないというのは、ハインリヒを、ほんの少しだけ傷つける。
 空を飛ぶ鳥の気持ちが、海に住む魚にはわかるはずもない。そういうことなのだとわかっていて、それでも、自分が、理不尽に損をしているような気になる。
 そこからもっと、悔しい気分が強くなれば、自分が不当に、踏みつけられて、貶められているような気分を、苦く味わう羽目になる。
 そんな気分を、自分だけが味あわなければならないのを、ハインリヒは、ずるいと思った。


 「あんた、ドイツ語を習うべきだ。」
 突っかかるように言うと、きょとんと、大きな目をいっそう大きく見開いて、グレートが、何事かと、ソファに坐ったまま、ハインリヒを軽く見上げた。
 読んでいた本---もちろん、シェイクスピアだ---を閉じ、それを、自分のすぐ傍に置いて、グレートは膝の上に、両手を乗せた。
 「ドイツ語訳のシェイクスピアには、あまり興味がないな。第一、習わなくても、自動翻訳機があれば、別に不自由はない。」
 怪訝そうにそう言い返したグレートの反応は、まったく想像した通りで、穏やかに頑固なグレートを説得するために、ありったけの語彙を駆使して、自分の気持ちをわからせてやると、ハインリヒは、心の中で、拳を握りしめた。
 「俺を好きなら、俺の言葉で、俺のことを理解したいと、思ってくれてもいいだろう。」
 グレートは、ソファの背にもたれかかると、腹の上に、ゆったりと両手を組んだ。
 いかにも余裕のある、そんな仕草が、いつもよりも、ハインリヒの神経に触る。
 あしらわれていると感じて、ハインリヒはいっそう強く、決意を固めた。
 「俺は、英語を使える。英語は、あんたの母国語だ。あんたは、俺の母国語のドイツ語は、翻訳機なしじゃ使えない。ずるいと思わないか。」
 表情を、ちらとも変えず、ただじっと自分を見返しているグレートが、反論もせず、それ以外のこともまだ一言も発しないのに焦れて、ハインリヒは、さらにむきになった。
 「それともそれは、あんたが、その程度にしか、俺を大事に思ってくれてないってことなのか。」
 もちろん、そんなはずはない。これは単なる、ハインリヒの言いがかりだ。わかっていて、それでも、自分の悔しさをわからせたくて、そんな言い方をした。
 グレートが、どれほど自分を大切に想っているか知っていて、それなのにそんな言い方をして、グレートを挑発しようとする。
 つまりは、年上の、人生の酸いも甘いも噛み分けた、常に粋であることを信条として、洒落た言い回しで、軽妙にすべてを表現できるこの男に、ハインリヒは、甘えているだけだった。
 こんな、まるで子どもが駄々をこねるような不粋を、グレートが好まないと知っていて、それでも、グレートの気持ちを試さずにはいられない。試して、愛されていることを確認する。愛されていることがわかれば、今度は、ではどのくらいと、次の問いが控えている。
 崇拝にも近く愛されているのだと知りながら、そんなふうには愛し返せない、自分の底の浅さを棚上げして、ハインリヒは、グレートの懐の深さに、かすかな嫉妬を感じている。
 そうなりたい、けれど、そうはなれない。そうなるには、ハインリヒはあまりにも、子どもすぎるので。
 そして、その子どもらしさのまま、実はグレートは、ハインリヒにとって、世界で一番身近なヒーローなのだと認めてしまうには、ハインリヒは、大人らしく、少々ひねくれすぎていた。
 グレートは、組んでいた手を外し、横を向くと、さっき置いた傍の本に、そっと触れた。
 ハインリヒに横顔を見せたまま、口元が、少し、苦笑に歪む。
 「おまえさんが、どうしてもドイツ語を習えって言うんなら、そうするさ。でも、そうなったら、おまえさんの、ドイツ語なまりの英語が聞けなくなる。おまえさんの、かわいらしい、おれの大好きなドイツ語なまりが、聞けなくなる。」
 顔が、笑みを刷いたまま、ゆっくりと正面を向いた。
 斜めにハインリヒを見上げ、グレートはまだ苦笑に近い微笑みを消さず、からかうような視線を、ハインリヒに当てた。
 「そいつは、至極残念だ。」
 流れるように、グレートが、そう言った。
 ぱっと、頬に朱が散った。
 うろたえて、不様に、口元を右の掌で覆った。唇に触れてから、それが、機械の方の手だと気づき、慌てて、左手に変える。
 そんなハインリヒの、意味もない狼狽の仕草を、グレートは、まるで見守るように、ひどく優しい表情で眺めていた。
 ゆっくりとソファから立ち上がり、ハインリヒの目の前に来ると、グレートは、にっこりと微笑んで、ハインリヒの頬に手を伸ばした。
 「死神どの、どこでもいいから、体の部分を、英語で言ってくれ。」
 いきなりそう言われ、眉を寄せて、ハインリヒは、怪訝な表情を隠しもしない。
 それでも、素直に、少し考えてから、乞われた通りに、短い単語を口にした。
 「カタ。」
 グレートが、左肩に手を添え、そこに、そっと唇を押し当てた。
 ほんの少しだけ、驚いて、いきなり速くなる動機を抑えながら、次の単語を滑り落とす。
 「クビ。」
 思った通り、グレートの唇が、首筋に触れる。
 ゲームの行き先を悟って、ハインリヒは、ゆっくりと、思いつく言葉を、思いつくままに、舌の上に乗せた。
 ホホ、ミミ、ユビ、ツメ、テクビ、ムネ、ミゾオチ、ワキバラ、モモ。
 そこまで言ってから、ハインリヒは、下から見上げてくるグレートに、にっこりと笑いかけた。
 「クチビル。」
 唇に、唇が触れた。他の場所の時よりも、ほんの少しだけ、長い間。
 目を開きながら、唇が離れ始めた時、ハインリヒは、両腕を伸ばして、グレートを軽く抱き寄せた。
 それから、肩がほとんど触れ合いそうな近さで、グレートの耳に、次の単語を流し込んだ。
 「・・・ずいぶんと、勉強家だな。そんな言葉をご存知とは。」
 ふふっと、グレートが笑う。笑って、ハインリヒの腰に、そっと触れた。
 グレートがまた、ゆっくりと、床に向かって膝を折る。折って、目を細めながら、ハインリヒが口にした単語に、唇を触れるために、細い指を繊細に動かした。
 息を止める。目を閉じ、喉を反らして、いきなり与えられた暖かさに、体中の皮膚をざわめかせた。
 それから、ふたりきりの時に、グレートがささやく英語のひとつびとつの、体中を溶かすほどの親密な響きが、グレートにこうされるのと同じほど好きなのだと、唐突に気づいた。


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