Forgotten



 もうすでに、ゲームは終わったと、誰もが思っていた。
 2対0で、もう10分足らずしか、時間は残っていなかった。
 テレビに映る大量の笑顔と、絶望の色をたたえた瞳の、コントラスト。
 それでもあきらめていないふりをして、ボールを追い続ける、白いユニフォーム。
 4年に一度行われる、世界中を巻き込むお祭り騒ぎ。言うなれば、ある種の擬似戦争とも言えた。自国の名を背負って、たったひとつのボールを追って、皆が走り回る。興奮と驚喜、希望と夢、落胆と絶望、ボールは、そんなものの象徴なのかもしれなかった。
 そのお祭り騒ぎも、もうすぐ終わる。


 声を上げたのは、ジェットの方だった。
 ブラジルが、主力選手のふたりを、残り時間10分足らずでベンチに下げた時に、ちくしょう、ナメやがって、と呟いたのも、彼だった。
 試合が終わり、ブラジルチームが、国旗を持ってフィールドを走り回り始める。彼らのとっては、5度目の快挙。世界中のあちこちで、この勝利を喜ぶ声が上がっているに違いなかった。
 アルベルトは、静かに微笑むと、テレビに向かって小さく拍手をした。この日のために、さまざまな形でさまざまなものを犠牲にして来た、選手たちのために。違う大陸からやって来て、言葉も肌の色も違えて、けれど同じ目的に向かって走り続けた彼らのために、アルベルトは敬意を込めて、掌を合わせた。
 ジェットが、まだ悔しそうに舌打ちしている。
 「なんで、オレがこんなに悔しがって、自分の国が負けたアンタが、そんな涼しい顔してんだよ。」
 拍手を止めて、隣りで、悔しさに歯ぎしりしているジェットに、ふと笑いかける。
 テレビはまだ、フィールドを映し続けていた。
 選手の、表情が見える。喜びの涙と、悔しさの眼差しと、もう4年後に心を馳せる笑顔と、もう次はないことに絶望する肩と。
 まだソファから立ち上がることもせず、ふたりは肩を並べたまま、テレビの画面に見入っていた。
 熱狂の後の余韻は、たとえそこに直接いなくても、歓喜と失望を両方交えて、確かに伝わってくる。
 ジェットが、あごをしゃくった。
 「カーンだ。」
 ゴールに、ひとり肩を落としてたたずむ、ドイツチームのゴールキーパー。ドイツの堅い守りを、さらに鉄壁のように支えた彼は、ブラジルに奪われた2点の重みを、その肩に背負って、沈痛な面持ちで、静かにたたずんでいた。
 ゴールポストにもたれたまま、近寄って、言葉をかけようとする誰もを、完全に拒んでいる。
 フィールドに倒れ込んで、明らかに泣いているチームメイトとは対照的に、彼の気配は、あくまで静かだった。恐ろしいほど。
 「あの選手、アンタに似てるよ。」
 またあごをしゃくって、ジェットは言った。
 それに、怪訝そうに顔を向け、アルベルトは少しばかり眉を寄せた。
 「難しい顔して、チームの責任背負って、今だって、負けたの全部、自分のせいにしてるぜ、きっと。」
 ひとりきり、失望に耐えようとしている男の横顔は、自分に対する怒りに満ちて、色素の薄い肌に、一層白みを増している。
 泣きたいほど、悔しい。けれど泣けばもっと負けてしまう。サッカーの試合にではなく、自分自身に。不甲斐ない、惨めな自分を認めて、負けてしまう。だから、泣かずに、耐えようとしている。ひとりきりで。自分が明け渡してしまった、ゴールの前で。ひとりで敗北の苦さを噛みしめるのが、自分の責任なのだと、彼の、微かに震える唇が、語っていた。
 ジェットの腕が、肩に回った。逆らわずにいると、引き寄せられ、彼の胸の中に抱きしめられた。
 「アンタに、そっくりだ。怒らすと、怖そうだしさ。」
 体の重みを預けて、アルベルトは黙ってジェットの腕の中に、もっと彼に近く寄った。
 一月も続いた興奮の後の、けだるげな余韻が、どこからともなく、ふたりを包み込んでくる。
 言葉は、いらないだけでなく、疎ましい気さえする。
 自分の髪に触れる、ジェットのあごを感じて、ふと喉を伸ばし、まるで猫のように、彼に肩をすり寄せる。
 ブラジルチームの面々を長々と映した後、騒々しいコマーシャルが、せっかくの静けさを破りに来る。
 我に帰ったように、ジェットが言った。
 「何、考えてんだよ。」
 呼吸の気配さえないほど、沈黙の中にひたり込んでいる、自分の腕の中の愛しい存在が、ジェットにはふと遠かった。こんなに近くに抱き寄せているのに、彼が沈み込んでしまっている思考の縁にさえ、ジェットは近寄ることも出来ない。
 胸の前に回ったジェットの腕に、アルベルトは掌を添えてくる。
 「別に。ただ、次のワールドカップに、出れない連中もいるんだなって、そう思ってるだけだ。」
 ジェットは、言葉の代わりに、両腕に、もう少し力を込めた。
 あの、孤独に敗北の苦さを味わおうとしていた男は、恐らくもう、ワールドカップの晴れ舞台へ、再び誇らしく登場してくることはないのだろう。別の、彼の小さな弟ほどの選手たちが、今度は、希望に頬を紅潮させて、フィールドへ踊り出してくる。それが、時間の流れの中に身を置くということだ。
 機械に体を持つ者には許されない、無常という掟。
 時は流れるからこそ、一瞬の輝きに、ふと幻惑される。
 その時の流れを、アルベルトはほんのひと時、恋しいと思った。もう、許されないからこそ。
 なあ、とジェットが言った。
 「今度のドイツは、一緒に行こうぜ。オレもドイツのこと、応援してやるよ。」
 ことさら無邪気な、軽い口調。黙り込んでしまったアルベルトの気を、引き立てるための。
 「おまえの応援が必要なほどやわなチームじゃない。」
 「わかるもんか、4年も先だぜ。アメリカチームだって、その頃にはひょっとして------」
 ジェットの大口を塞ごうと、体をねじって、腕を伸ばす。そうさせまいと、ジェットがもがく。
 ふたりで、ソファの上でそうしてじゃれ合いながら、こんな風に、不意に繋がってしまった普通の世界のことを、自分たちの異質さゆえに、思わず深刻に恋焦がれてしまうのを、ごまかそうとしてみる。
 互いがいればいい。そう、言葉に出しては言わずに、ふたりは確認し合っていた。
 また、どちらからでもなく、体を寄せ合い、アルベルトはジェットの腕の中におさまった。
 ジェットの頬が、頬に当たる。赤い髪が、視界の端に入った。
 「また、一緒に見ような、ワールドカップ。」
 言葉遊びをしないジェットの、精一杯の婉曲な、これからもずっと一緒だいう、メッセージ。世界がどんなに変わっても、オレたちは変わらないから。そう、アルベルトは聞き取った。
 す、と、体の力を脱いて、すっかり体重を預けてしまうと、まるで眠るように、アルベルトは目を閉じた。
 愛しい男の腕の中で、ああ、そうだな、と静かに呟いた。


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