恋の春



 おまえさんが、そばにいてくれればいいのさ。そう、ぽつりとグレートが言った。
 誕生日を、喜んで祝うほど、子どもではないから、ついでだというふうを装って、電話のいつもの会話の間に、するりと、言葉を滑り込ませた。
 何か、欲しいものは? 何か、したいことは?
 少し照れて、そう尋いたハインリヒに、グレートは、あちら側で小さく苦笑をこぼして、ふっと数瞬黙り込んだ。
 心をのぞき込んでいるのだとわかる沈黙に、ハインリヒは、胸の内が、暖かくなるのを感じる。
 コロンは、この間、お気に入りを自分で買ったばかりだ。ネクタイは売るほどある。スーツは、新しいものを着るよりも、少しばかり着古したのを、身に馴染ませて着るのが好みでね。近頃は、いい音楽も少ないし、オペラなら、今度ウィーンまで足を伸ばすつもりだ。酒は、少々控えてる時でね。さて、欲しいものと言われても。
 そう、語尾が、苦笑まじりに消えた。
 誕生日を祝おうとしているハインリヒのために、グレートが、必死に、慣れない、ねだるという行為をしようとしている。ものを欲しがらないわけではなく、ものを欲しがることの空しさと、手に入れて失うことへの恐れと、そんなものに心を飛ばせるだけ、長い人生を歩んでしまった男は、それでも、年下の、少しばかり遠くにいる友人---と言うには、もう少し親密な---の好意を、無下にはしないために、少し困惑しながら、頭を悩ませている。
 それから、ようやく、ためらいの、意味もない音の後に、おまえさんがいればいいと、そんなようなことを、ぼそりと言った。
 それは、言うまでもないことだったのだけれど---プレゼントだけを、小包で送るなんて、そんな不粋を、ハインリヒがグレートに対して、許すわけがない---、そう、改めて言われれば、うれしくないはずもなく、それなら、とハインリヒは、穏やかに言葉を紡いだ。
 俺が好きに、何か選ぶ。あんたのところまで、自分で運ぼう。
 もちろん、他の誰にも、大事なプレゼントを手渡すという仕事を、やらせるつもりは毛頭なかった。
 何か、誰かに贈るものを選ぶというのは、その間は、その誰かに、心を占められているということだったから、いつだって、ハインリヒの頭の中は、グレートのことでいっぱいだけれど、いつも以上に、グレートへの想いに、心を満たせる瞬間が、待ち遠しくてならなかった。


 何も、特に、変わったことはしなかった。
 空港についてから、グレートのアパートメントへ直行し、そこでお茶で一服してから、外へ出る。大きくはなくても、品のいい、素晴らしく趣味の良いレストランで、少しばかりの酒に、舌をゆるめて、食事を楽しむ。
 食事が終われば、次は、バーに繰り出して、もう少し大きな声で話をしながら、グラスを傾ける。
 バーを3軒回って、少し足元が怪しくなった頃、久しぶりに飲んだなと、繰り返しつぶやくグレートに肩を貸して、あまりもう、寒くはなくなった、春先の夜の道を、グレートのアパートメントへ、ふらふらと歩いて帰る。
 暗がりで、素早く盗むキスを、何度も繰り返して、急な階段を、部屋に向かって上がりながら、さり気なく、互いの服を、乱す。グレートは、そんなハインリヒをとがめもせず、好きにさせていた。
 人に見られていたらと、そんなことは埒の外で、ふたりとも、酔っ払っていた---ハインリヒは、そうでもなかったけれど---し、何しろ、粋にふざけることが大好きな、グレートの誕生日だから、見咎められれば、冗談と言って、するりと切り抜けてくれると、そう思う。
 やっとたどり着き、ドアを開け、閉めながら、グレートを正面に抱き寄せて、唇を奪う。
 もう、遠慮もなく、互いに服を脱がし合う。
 よろける体を、互いに支え合い、腕を引き、奥の、ベッドルームのベッドへ、無事に倒れ込むまでに、何度も何度も床に転ぶ。じたばたと靴を脱いで、ふたりで、シャツだけは、ベッドの中まで、脱がずにいた。
 グレートを押し倒して、その、新しいシャツの上から、体に触れる。グレートも、その仕草を真似るように、ハインリヒの、同じように新しいシャツに、掌を滑らせる。
 おそろいだって、いいだろう。
 渡しながら、ほんの少し、そう言う声に、照れがまじった。
 淡いピンクの、ほんとうに、赤ん坊の皮膚の色のような、柔らかな淡いピンクの、ぴんと襟の立った、ワイシャツ。目の前でハインリヒが着ているのと、同じものだと気づいたグレートが、その、シャツの色と同じほど、ほんのりと頬を染めて、ハインリヒを上目に見上げた。
 その色は、グレートの、少し乾いて、薄く、溶けたバターのような色の滲んだ肌色にはよく映えたけれど、青いほど白いハインリヒの膚の上では、少しだけ、彼を幼く見せる。
 それを承知で、どうしても、同じものを身に着けたくて、グレートのためと、自分自身のために、違うサイズで、手に入れてしまった。
 それを着て、一緒に出掛けよう。グレートへの、誕生日の贈りものではあったけれど、実のところ、それは、ハインリヒ自身のための、ささやかな自己満足だった。
 そのシャツを、互いに脱がし合い、ベッドの外へ投げる。それから、ようやく裸になった胸を重ねる。
 くすくすと笑いながら、酒の匂いに、少しだけ閉口しながら---それだって、楽しい---、何度も何度も、口づけを交わす。
 上になり、下になり、自分よりも、昇りつめるのに手間のかかる、グレートのために、存分に時間をかけて、唇を滑らせる。
 先を急ぐことはなく、忍び笑いに、湿った吐息を混ぜて、ただ体温を重ねるだけで、親密さは、もう少し先へ、楽しみに取っておく。
 グレートの体温が、かすかに残るベッドの中で、じゃれ合うように、手足を絡め、指先を絡めて、また、唇と舌を絡める。
 そうして、ようやく、もう少し親密な形に、重なり合って、もっと奥深くで、体温を繋げる。
 グレートの、薄い肩を受け止めながら、ベッドのきしみと自分の呼吸を、数えながら同調させる。
 死神どの、と、頬に口づけながら、グレートがささやいた。
 こんな場には、ふさわしくないはずのその呼びかけが、耳に、溶けるほど甘く、響く。
 グレートだけが形作ることのできる、その、優しさに満ちた呼びかけを、首筋の後ろに染み込ませながら、ハインリヒは、もっと近く、グレートを引き寄せた。


 やっと、引き剥がすように、躯を外して、そのままそろって眠りに落ち、喉の渇きに目を覚ましたのも、ほとんど同時だった。
 一体何時だろうかと、闇の中でも見える目を凝らそうとして、グレートが、傍にいないことに気づく。
 まだ暖かい、かすかに人の形に乱れたシーツに手を伸ばして、それから、ドアのすき間からもれる明かりと物音に、グレートが、あちらで何かやっているらしいと、合点が行った。
 ベッドを降りて、床に脱ぎ落とした、あのシャツを拾い、ドアへ向かう。
 ドアを開けると、そこだけ明かりをつけたキッチンに、シャツだけの、グレートの後姿が見えた。
 一歩踏み出して、シャツに、腕を通して、肩に羽織ってから、それが、自分のものでないことに気づく。
 足音に、グレートが振り返り、照れくさそうに、笑った。
 「起こしちまったかな。」
 グレートが着ているのは、ハインリヒのシャツで、ハインリヒが今羽織っているのは、グレートのシャツだった。
 シャツの前を合わせ、袖の短さに、少し唇を突き出して見せる。
 グレートの方はと言えば、体の脇に垂らした腕は、袖からちょこんと、指先がのぞいているだけだった。
 「・・・袖が長いなと、思ったんだ。」
 目覚めたばかりで、頭の焦点が合わず、そんな勘違いにも、気がつかなかったのかもしれない。
 明らかに、少々小さすぎるサイズの、自分のシャツを羽織ったハインリヒを見て、グレートが、口元をゆるめた。
 互いに、その勘違いに微笑みながら、ハインリヒは、キッチンのシンクの前に立っているグレートの、その隣に足を運んだ。
 シャツの下から伸びる素足は、グレートのそれは、骨張って、膝下が、少々貧相に見える。ハインリヒのそれは、人工皮膚がなく、足の形をした、機械が、剥き出しになっている。
 その、4本の足を並べ、ふたりは、渇いた喉を潤すために、同じグラスから、水を分け合って飲んだ。
 「いいシャツだ。」
 胸に、あごを埋めるようにして、シャツ---実はハインリヒの---の胸元を眺めて、グレートが、不意に言った。
 グレートの手から、グラスを取り上げて、また、冷たい水を飲む。それから、首を伸ばして、濡れた唇のまま、グレートに接吻する。
 「誕生日、おめでとう。」
 このシャツを渡した時に、言ったけれど、もう一度、もっと心を込めて、言ってみた。
 グレートが、ひどくかわいらしく、微笑み返してきた。
 「おまえさんのシャツは、おれには、少し大きすぎる。」
 照れ隠しか、はぐらかすように、突然そう言って、グレートが、肩をすくめた。
 「心配しなくても、帰る時には、間違えずに持って帰るさ。」
 グラスを、キッチンのカウンターに置いて、そのまま、ふたりは、肩を並べて見つめ合った。
 「間違えて、あんたのを持って帰ったら、また、届けに戻って来る。」
 右足を、少し伸ばして、グレートの、左足の爪先に、乗せる。くすぐるように、小さな爪の光る、生身に見えるその足指を、滑らかに動く、爪先の形をした機械の足で、触る。
 そうして戯れながら、また、唇を重ねる。
 互いを抱き寄せながら、ハインリヒの肩から、シャツを滑り落とそうとしたグレートの手を、止めた。
 「・・・このままでいい。あんたも、脱がないでくれ。」
 グレートには長すぎる裾から、両手を滑り込ませながら、ハインリヒは、ささやいた。
 ゆるい首回りと、線の落ちた肩と、ハインリヒのシャツの中で、グレートは、少しばかり滑稽なくらい、愛らしい。
 グレートの匂いを染みつかせて、このシャツを明日、着て帰ろうと、ハインリヒは心に決めた。
 夜明けまで、まだ間があった。また、始めるために、掌を、相手の体に押しつけて、ふたりは、互いの肩口に、顔を埋めた。
 誕生日おめでとうと、もう一度言うと、死に損ないも悪くないと、グレートが、細い声で言った。
 死神どの、と、またささやきが、シャツに吸い込まれてゆく。


戻る