Happy Birthday, Jet
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 大きさの足らないソファの上で、明け方まで眠れなかったジェットがようやく目を覚ましたのは、とっくに午後を過ぎた頃で、キッチンでハインリヒが、コーヒーをいれるために立てていた物音に、疲れの取れない眠りを覚まされた。
 この、ひとりには充分でも、ふたりには少し窮屈な気のするアパートメントに、ハインリヒの姿があるというのは、何となく奇妙で、ソファの上から、すでにきっちりと身支度を整えたハインリヒの背中を見ながら、ジェットはひとりで照れていた。
 夕べ、そうなっていたら、冗談混じりに、一緒に暮らそうぜと言えたのだろうかと、ふとそんなことを思う。
 ハインリヒが、黙って差し出してくれたコーヒーを受け取って、ずずっと一口すする。
 自分がいれたのではなく---とは言え、ただのインスタントのコーヒーなのだけれど---、他の誰かがいれてくれたコーヒーは、どうしていつもよりうまいのだろうかと、ハインリヒを上目に見た。
 アンタが作ってくれる料理を、毎日食いたい。
 頭の中では、架空のハインリヒを相手に、そんなこともさらりと言えるのに、実際に本人を目の前にすれば、そんな舌の浮くような台詞など、口に出来るはずもなかった。
 ここで、こんなふうに、ふたりで黙り込んで、気まずさと照れくささを分け合って過ごす気には、とてもなれない。
 外へ出ようと、ジェットは思った。


 もう、何度もニューヨークへは来ているハインリヒに、目新しいものなどあまりない。そもそも、観光でぶらつくような男でもなかった。
 走るように、路上を流れてゆく人込みの中を、ことさらゆっくりと歩きながら、ジェットは、最近お気に入りの場所のひとつになった、大きな本屋へ、ハインリヒを連れて行った。
 店自体の大きさはもちろん、並んでいる本の種類も数も豊富で、けれどこの店のいちばんの魅力は、本を探すのには邪魔にならない位置に、ぽつりぽつりと置かれた、坐り心地のいい椅子---小さなソファさえ、ある---と、店の中にある、小さなカフェだった。
 本屋ではあるけれど、ここで人たちは、軽い飲食の許された、ちょっと豪華な図書館か、少し騒がしいサロンにいるような、そんな気分を味わえる。
 分厚い、買うのにはためらう以外ない、手の切れそうな、つるつるの紙のページの本を、棚から抜き取り、椅子に坐り、膝で広げて、片手には、買ったばかりのコーヒーの大きな紙カップ。
 小さなカフェでは、サンドイッチや小さなケーキも買えた。
 店に入って、高い天井を見上げてから、ハインリヒが、息を飲んだ音が聞こえた。
 「・・・おまえが、こんなところに、来るのか。」
 軽い疑問符のくっついた、つぶやき、というところだった。
 先に立って、店の中に入ってゆくジェットの後ろで、きょろきょろと、通り過ぎる本棚の、ずらりと並んだ本のタイトルに、すばやく目を走らせているのが、見なくてもわかる。
 「アンタのところほどじゃないだろうけど、ここのコーヒーも、けっこうイケるぜ。」
 入り口から、左手の奥の方を示して、指の先に、小さなそのカフェがあることを知らせてやる。
 思った通り、ところどころに置かれた椅子に坐って、飲み物の紙カップを片手に本を読んでいる人々を見つけて、ハインリヒは、その淡い水色の瞳を、驚きに見開いた。
 「ずいぶんと、太っ腹な店だな。」
 「オレも最初はそう思った。でも、こういうふうにした方が、意外に、本を汚されることもないってさ。みんな行儀良くしてるって。」
 ふうんと、首を回しながら、ハインリヒが応える。
 「本選んで、どっか坐ってろよ。コーヒー買って来るから。」
 用があったら呼べ、という意味で、頭の横を、指でつついて見せる。通信装置を使え、という意味だった。
 くるりと体を回して、カフェの方へ行こうとしたジェットを、ハインリヒが止めた。
 「コーヒーじゃなくて、紅茶にしてくれ。」
 顔だけ振り向いて、軽い足取りは、止めなかった。
 「いちばんでかいサイズに、ミルクたっぷり。砂糖とかクリームが入ってたら、"殺してやる"。」
 ハインリヒの好みを覚えるまでに、何度か繰り返した失敗のゆえの、ハインリヒの物騒なコメントを、彼の声音を真似て言うと、ジェットは、ハインリヒの返事を待たずに、カフェの方へ行った。
 ここの人込みは、なぜか優しい気がする。
 本の好きな、比較的礼儀正しい人間ばかりが集まっているせいなのか、肩が触れたと言って、つかみ合いのけんかになることを、心配しなくてもいい、この店が、ジェットは好きだった。
 本を好きなわけではないけれど、それでも、分厚い、つやつやと光る表紙の本を見るたび、思い出すのはいつもハインリヒのことだった。
 本の好きな、本さえあれば、他には何もいらなさそうな、そんな彼の、世界のほんの一端に、触れているような、そんな気分になる。
 こんな本は好きだろうか、あんな本を読んでいるのだろうかと、自分では読まない本を手に取って、そんなことを考える。
 ジェットが見つけた、ハインリヒのための世界に、今は、ハインリヒがいる。
 悪くない誕生日だと、思った。
 自分のためには、コーヒーを、ハインリヒのためには紅茶を、どちらもいちばん大きなサイズで。
 熱い紙カップを両手に抱えて、来た場所へ戻ると、手近な椅子に、すでに腰を下ろしているハインリヒの姿があった。
 ひざが隠れるほど大きな、白いページが眩しいほど光る本。画集が写真集か、その類いと知れる。
 「ほら、紅茶。」
 横から差し出すと、ダンケ、とハインリヒが、少し熱っぽい視線で、上を向いた。
 「なんだよ、それ。」
 まだ熱いコーヒーを、舌を焼くのを承知で、一口すする。大きなカップで、少しだけ嫉妬している自分の口元を、隠してしまいたかったので。
 「メキシコ人の、画家だ。女性で・・・」
 そう言って、またいとしそうな視線を、ほんに戻す。
 ページいっぱいに印刷された、傷ついた鹿の絵は、鹿の顔の部分が、男か女か、一見しただけではわからない、眉の太く濃い、明らかにラテン系の顔に変えられていた。
 意志の強そうな、そのくせ、どこか苦痛をたたえた、目元と口元の表情。
 生きることに、苦しんでいる人間の貌だと思ってから、ジェットは、視線を、ハインリヒの横顔にずらした。
 アンタも、そうだ。
 紙カップを口元に運んで、肩を回しながら、立ち去るために、足を引く。
 「オレ、雑誌のとこにいるからさ。」
 ひとりのハインリヒを、邪魔したくなかった。


 ガラスのはまった部分が、少し突き出た形のその窓は、明らかに、そこに坐るためにデザインされたものだった。
 ガラスに背中を当て、雑誌を膝に広げている間に、ついうとうとと眠ってしまったらしい。
 やっぱり夕べはよく眠れなかったのだと、夢の中で思っていた。
 ハッピーバースディと、ハインリヒが何度も繰り返した。
 アンタは、オレなんかより、本とか紅茶の方がいいんだよな。
 つい、そんなことを言うと、困った表情で苦笑いを刷いたハインリヒが、肩に手を伸ばして来た。
 ハインリヒのそれより、ほんの少しだけ高い、ジェットの肩の線に置かれた、鉛色の掌。
 それに、唇を寄せようとしたことだけは、覚えている。


 満足そうな表情で、ハインリヒがジェットを探しにやって来た時には、もう外は真っ暗で、食事をして、その後でバーに寄って軽く酔い、ジェットのアパートメントにふたりが戻って来た時には、もう、真夜中に近かった。
 「おまえ、今夜もソファで寝る気か?」
 キッチンのテーブルに向かい合って、酔い覚ましに買って来た、コーヒーと紅茶を飲みながら、ぽつりとハインリヒが尋いた。
 答えて欲しいのか、欲しくないのか、ジェットから視線を反らし、テーブルに頬杖をついて、部屋の中を、見るともなしに眺めている。
 その横顔に、見慣れた色が浮かんでいて、ジェットは見えないように苦笑した。
 話のきっかけを待っているのだとわかるから、ジェットは何も言わずに、ただ微笑んで、その横顔を見ていることにした。
 「・・・とっくに諦めてるつもりで、時々、失くしたものが、強烈に恋しくなる。」
 ジェットの、珍しい沈黙に、焦れたように、促されたように、ようやくハインリヒが唇を開いた。
 「ホームシックみたいなもんだ。時間が経てば、治るし、忘れる。そうわかってても、その間は、苦しい。」
 そうだろうなと、あいづちを返した。
 「手の中にあるものまで、失うような、そんな気分になる。失わないことを、どんな手段でもいいから、確かめたくなる。」
 その先は、わざわざ言われなくてもわかる。けれどわかっていると、知らせるために、はっきりと見える言葉が必要だった。
 「だからアンタ、オレに会いに来たんだろ?」
 会いたいと思って、それなのに、誕生日という口実がなければ、素直にそうとさえ言えない、その頑固さと不器用さを、ジェットはいつにも増して、いとしいと思った。
 うなずかないハインリヒの瞳が、それでも、その通りだと、ジェットに伝えてくる。
 あきらめたもの、とジェットは思った。
 手に入らないもの、けれどそれは、今は目の前に、手を伸ばせば届くそこにある。
 手を伸ばしてくれと、そう、声もなく叫んでいるのが、聞こえた気がした。
 今夜また、眠れないかもしれないと、ジェットは思った。
 音を立てないように立ち上がって、ハインリヒの傍へ行った。
 ひょろ高い体を折り曲げて、目を閉じる前に、自分に向かって伸びて来る、ハインリヒの首筋が見えた。


 ベッドの中でも、ハインリヒはあまりおしゃべりではなく、ほとんど声も立てずに、ジェットの下でじっとしていた。
 最初から明かりはつけないまま、毛布の下で、ゆっくりと服を脱がした。
 皮膚の部分に触れるのはかまわないくせに、機械部分が剥き出しになったところに掌を這わすと、避けるように体をよじる。
 唇を重ねるふりをして、ジェットは、自分の体の下に、ハインリヒを敷き込んだ。
 本気になれば、いくらでも撥ねのけられるはずの、ジェットの、背が高いばかりの薄い体---空を飛ぶために、ハインリヒに比べべれば、羽毛のように軽い---の下で、それでもハインリヒは、覚悟を決めたように、そっと腕を伸ばしてくる。
 好きな誰かと寝るというのは、こんな感じだったのだと、ジェットは、そうしなくてもいたわりのこもる指先で、ハインリヒの、皮膚の感触のない脚に触れた。
 自分の中が、満たされてゆく、感覚。
 行き場もないのに、止めることも出来ずに、生まれ続けていた熱が、穏やかに、少しずつ、相手の膚に注がれてゆく。冷えかけた自分の内側に、相手の熱が、穏やかに流れ込む。
 交わしてゆく、ぬくもり。
 ほら、とハインリヒの右手を取った。
 「アンタのことが、好きだって、わかるか・・・?」
 逃げずに、ハインリヒが、包み込んでくる。
 冷たいはずのその掌すら、熱い気がした。
 機械の体と、生身の心。だからこそ、もっと傷つきやすく、傷つくことを恐れて。
 柔らかく、脆い心に届くために、その鉛色の殻を、溶かさなければならなくて。
 だから、熱を注ぐ。休まずに、止まらずに、あきらめずに、注ぎ続ける。
 いつか、溶けると信じて、いつか、届くと信じて。
 そうしながら、相手が見ている先を、見つけては嫉妬する。自分だけを、見つめているわけではないから。自分だけが、見つめてもらえないから。
 人の形をした機械、残された心、心は、知らずに、人間らしさを必死で求める。人間らしさの残骸に、時には浅ましくすがろうとする。
 だから、とジェットは思った。
 アンタだけが、みっともないわけじゃない。
 オレも、アンタも、みんなも、みじめでみっともない。
 だから、とジェットは思った。
 アンタが、自分だけが醜いと、恥じる必要はないんだ。
 闇でも見える目を、ハインリヒが、固く閉じている。
 それを見下ろして、ゆっくりと、ハインリヒの中に入り込んだ。


 「アンタ、動けるか?」
 シャワーを浴びるのを、手伝うべきかどうか迷いながら、ジェットが尋いた。
 「うるさい。よけいな心配はしなくていい。」
 枕に顔を埋めたまま、毛布の下にきっちりと体を隠して、ハインリヒが、腹立ちよりも照れくささの滲む声を出す。
 うつ伏せになったその背に胸を重ねて、ジェットはうなじに口づけた。
 「次ん時は、もうちょっと良くなるから。」
 言った途端に、首に血が上がる。
 ハインリヒの、見たこともないほど素直な様を見て、ジェットは思わずぎょっとする。
 驚いてから、ついでだとばかりに、そのまま胸を重ね、脇から前に、両手を差し込んだ。
 肩に頬をすりつけ、ハインリヒの素直にそそのかされたように、いつもよりももっと素直になっている舌を、かまわずに滑らせた。
 「春に、アンタに会いに、ドイツに行くよ。」
 沈黙が、さらに胸の下で黙り込む。
 不思議と、返事がないことに、傷ついたとは思わなかった。
 そのまま、肩に顔を伏せていると、ずいぶん経ってから、ハインリヒが、無愛想に言った。
 「・・・ちゃんと、連絡してから来いよ。俺のベッドは、もっと狭いからな。」
 「・・・じゃあ、オレが行った時に、もっとでかいベッドに替えようぜ。」
 「つけ上がるな、バカ。」
 ハインリヒの背中の上で、体を揺らして笑った。
 肩が持ち上がり、ハインリヒが、ジェットの下で、体をねじった。
 肩越しの視線が、真っ直ぐに当たる。
 ジェットは思わず、頬を赤らめた。
 「・・・・・・ハッピー・バースディ。」
 消え入りそうな声で、ハインリヒが言った。
 泣きそうになったのは、うれしさのせいだったのか、それとも、ハインリヒの横顔の、今日、あの本屋で見つけたのと同じいとしさの、浮かんだ表情のせいだったのか。
 サンクス、と口の中で言いながら、ジェットは、もう一度口づけるために、首を伸ばす。


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