じゃじゃ馬ならし
シャツとネクタイ。ふらりと入った、小さな、けれど趣味のいい店で見つけた、それ。
自分のためにネクタイを選んだ後、ふと視線をさまよわせて、それを見つけた。店主の趣味で合わせられ、飾られたそのシャツとネクタイは、沈み込むような色彩の店の中で、さらに沈み込みながら、けれど鈍い輝きを放っていた。
黒の中にも、様々な黒があるように---甘い黒、鈍い黒、輝く黒、重い黒---、沈んだ色彩にも、様々な色合いはある。
そのシャツとネクタイは、言うなら、地味に輝いていた。まるで、メッキの金の中に紛れ込んだ、純粋な銀のように。
薄い、ごく薄い、深い緑の色。それに合わせてあるのは、ほとんど黒と見間違うほど深く濃く暗い翠に、まるで砕いたルビーの破片を微かに散らしたかのような、そんな色合いのネクタイ。
真っ先に思い出したのは、ハインリヒの、色素の薄い膚色だった。あの、血の色のない---サイボーグに、そんなものはもちろんないけれど---、青白い薄い皮膚。掌にひんやりと冷たい、あの膚。
ほとんど衝動的に、とりあえず、サイズだけは確認するのはようやく忘れずに、自分のネクタイとは別に、包ませてしまった。
中年の男が、明らかに自分のものではないシャツを、慌てた様子で買ったのを、店の女がどう思ったか、包みを抱えて店を出てから、グレートはこっそり自分の後ろを振り返った。
どう思ったのだろう、一体。
そんな必要もないのに、髪の毛のない額に、うっすらと汗が浮いていた。
そんな季節でも、ないのに。
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素っ気もない、茶色い包みは、それでも触れれば、上等な類いの紙だと知れる。ある種の、静かに誇り高い店だけに許される無愛想さをその包装紙の上に確認して、それがまた、なぜかハインリヒを連想させる。
ふん、とグレートは思った。
別に説明もなく差し出せば、あちらも無言のまま、包みを受け取る。
紙の手触りに、おや、という表情が口元に浮かんだのを、もちろんグレートは見逃さない。
外側の上等さが、中身の質を予感させ、ハインリヒの瞳に、意外そうな色が浮いた。
外側を、向きを変えてあちこち眺め回した---まるで、戦闘中に、爆弾らしい包みを受け取った時と、ほとんど変わらない---後、掌で表面を撫でてから、ハインリヒはようやく、包みを開きにかかる。
静かに、紙を破らないように、ゆっくりと、丁寧に包みを開ける。
現れたシャツとネクタイに、ふと、ハインリヒの眉が、両方上がる。
気に入ったのだと、すぐにわかる。
気に入らなければ、たちまち大きな笑顔を見せて、大げさにありがとうと言う。気に入れば、眉をひそめ、無言で、観察するように、贈られたものと、贈った相手を、じっと見つめる。
ハインリヒは、包みの中身とグレートを、交互に眺めた。
「何か、祝いごとでもあったかな。」
わかっていて、それでも一応確認はしておこう、というような口調で、ハインリヒは、不機嫌とも取れるほど、色のない声で訊いた。
「別に。おまえさんに似合うと思ったからさ。」
負けないほど素っ気なく、返す。
ふん、とハインリヒが、口元を少し歪めた。
たたまれたシャツを開き、目の前に広げる。
薄い、質のいい緑。包まれていた紙に負けず、手触りのいい、布の感触。薄く、軽く、柔らかい。
立ち上がって、胸の前に当て、ハインリヒは、グレートの方へ向いた。
「大きさは、合うかな。」
少しだけ、自分らしい下心を含めて、グレートは言ってみた。
ふふ、っと死神が、笑う。
シャツを椅子の上に置くと、くるりと背を向け、それから、今着ている黒のタートルネックのすそに、手をかける。するりと、まるで皮でもむくように、グレートの目の前に、彼の裸が現れる。
鉛色の金属に、大半を覆われた、上半身。午後の柔らかな日差しの中で、鈍く輝いて見えた。
背中を向けたまま、シャツを取り上げ、羽織り、腕を通す。たちまち、機械の体は遠くへ去ってしまう。
ボタンをとめながら、またこちらへ振り返り、どうだ、と問いかけるように、微笑んで首をかしげる。
グレートは、ハインリヒの傍へ、ゆっくりと歩み寄った。
袖の長さも、裾の長さも、申し分ない。肩と腕に触れ、その厚みに添っていることも、自分の掌に確認する。
それから、どうしても隠せない愛しさを込めて、グレートはハインリヒを見上げた。
首のボタンをとめてやるために、奇妙に鋭い輪郭の首元に、ゆっくりと両腕を伸ばす。
すと、ハインリヒが、グレートの指先のために、首を反らして、喉を伸ばす。
まるで、背の高い誰かと、接吻をする時のようだと、グレートは、ふと思った。
ボタンをとめ終わると、今度はネクタイを取り上げ、それも首に回して結んでやる。
ハインリヒは、何も言わず、おとなしくグレートの仕事が終わるのを、待っている。
「あんたは、何を買ったんだ?」
ハインリヒが、結んでもらったネクタイを、シャツの上に落ち着かせながら、訊いた。
「おれもネクタイを買ったよ。」
「見せろよ。」
のんびりとグレートが答えたのに、かぶさるように、ハインリヒが言った。
部屋のすみに、ちょこんと置いた自分の、小さな包みを取り上げ、グレートはわざと音を立てて、包みを破った。
ネクタイを手渡すと、ハインリヒが、うっすらと笑った。
「フランスものか、あんたらしいな、グレート。」
「そっちはイタリアだ。ネクタイはシルクに限る。」
ハインリヒの胸元を指差して、グレートは言った。
深い黒。よく見れば、さまざまな模様が織り込まれているのがわかる。光の加減で、その織りのせいで、一色のはずの黒が、数限りない表情で、表面に浮き上がる。
掌に乗せて、感触を存分に楽しんだ後、ハインリヒは、グレートの首から、今しているネクタイを解いて外した。
「いい趣味だ。」
短くそれだけ言って、新しいネクタイを、グレートの胸の前に結ぶ。
ハインリヒの手の動きを下目に見ながら、グレートは、わざと不機嫌な表情をつくった。
「このシャツには合わないぜ。」
「結んだところを、俺が見たいんだ。」
グレートの目の前に、濃く深い翠の、ハインリヒのネクタイが見える。その翠に、点々と、小さく散った緋の色が、ふと血の色を連想させる。
苦笑いして、グレートは軽く頭を振った。
「いい色だな。」
結び終わって、グレートの肩に手を乗せて、ハインリヒは、うれしそうに言った。
「今度、オペラでも一緒に見に行く時に。」
このシャツとネクタイを着けようと、そこまではすべて言わず、ハインリヒはまた、グレートに向かって微笑んだ。
グレートはふと、頬を赤らめて、含羞を見せながら、そっとハインリヒに手を伸ばした。
頬に手を添え、首を伸ばす。少しばかりの背伸びが必要な、触れるだけの接吻。
ハインリヒがゆっくりと目を閉じるのが、最後の瞬間に見えた。
微風がなぶるように、その、薄い唇に触れる。
ハインリヒの右腕が、力を込めずに背中に回る。
「服を送るのは、脱がせたいからだってのは、古典だと思ったがね。」
結んでやったハインリヒのネクタイを、するりと解きながら、グレートは言った。
首の小さなボタンを外し、それから、なだめるような手つきで、みぞおちの辺りまでのボタンを、ゆっくりと開けた。
同時にハインリヒが、器用な手つきで、グレートのネクタイを外す。
「じゃあ、今度あんたのシャツのサイズと好みを、正確に教えといてくれよ。」
触れ合う胸が冷たい。
まだ明るい午後の部屋の中で、新しいネクタイをそれぞれの手の中に、ふたりは静かに抱き合っていた。
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