とかく恋というものは



 思わず、あ、と声を立てた。
 指を止め、少し悔しそうに、下を見る。シャツのボタンが、爪先の先に、落ちていた。
 「どうした、ハインリヒ?」
 グレートが、部屋の向こう側で、鏡に向かってネクタイを結んでいた。その鏡越しに、動きを止めたハインリヒを、怪訝そうに見ている。
 「ボタンが、飛んじまった。」
 右手の指を、忌々しそうに見る。おそらくもう、弱っていた糸を、接ぎ目の辺りのどこかに引っ掛けて、切ってしまったのだ。
 せっかく、こんな明るい日に、部屋の中に閉じこもっているのも何だし、お茶でもしにゆこう。
 グレートが、誘ってくれたのに。
 My Dearと、ふたりきりの時に、ほんとうに、そんな気分になった時にだけ彼が使う、特別な呼び方をされて、すっかり上機嫌になっていたのに。
 出掛ける矢先に、験の悪い。
 聞こえるほど大きく、舌を打つ。
 お気に入りの、シャツでもあった。
 体を折って、小さな、ほとんど透明な、そのボタンを拾い上げる。
 掌に乗せて、なぜか少し悲しい気分で、そのボタンを眺めていた。
 いつの間にか、ネクタイを締め終わったグレートが傍に来ていて、まるで慰めるように、肩に手を置く。
 「シャツを替えるか?」
 一拍置いて、首を振った。
 ボタンの取れてしまったシャツが、なぜか、修理のきく、半機械の体の自分たちと重なって、使い捨てなんてかわいそうだと、そんな埒もないことを考えた。
 ボタンがないから、使えない。壊れたら、動けなくなる、俺たちみたいじゃないか、まるで。
 無視するつもりではなく、それでも、ボタンから目が離せなくて、ハインリヒは、差し出す形にした掌の上に乗った、それだけでは、機能すらしない、ボタンと呼ばれる小さな部品を、まるで、自分を眺めるように、見つめ続けている。
 グレートの、優しい指先が、そのボタンをつまみ上げた。
 「じゃあ、つけ直そう。」
 にっこりと、笑う。
 戸惑いを眉の間に刷いたハインリヒには、それ以上説明することもせず、グレートは、つかつかと部屋のすみに足を運ぶと、そこにあった戸棚の引き出しを音もなく開け、がさごそと小さな物音を立てて、それから、また優雅に、ハインリヒの方へ振り向いた。
 まるで、魔法か手品のように、滑らかな手つきと足つきで、ハインリヒの目の前に戻って来て、シャツの前を少し持ち上げる。
 音もなく、グレートは動いた。
 ボタンを、あるべき位置に置き、指で押さえ、布に、糸のついた針を通す。
 しゅっと、繊維のこすれる音が、背骨の真ん中を、くすぐった。
 両手を体のわきに落とし、少しあごを引いて、うつむいて、ボタンをつけるグレートを見ている。
 少し突き出た、広い額と、ほとんど色のない眉が、見える。頬骨と、鼻筋を視線でなぞって、時折見える唇の線に、ハインリヒは、思わず自分の唇を舐めた。
 指が動く。目の前で。
 まるで踊るように、指が、舞う。
 手の仕草が、甘やかな、ふたりだけの時間を、ハインリヒに思い起こさせた。
 シャツを軽くつかんでいる、指先。針を軽くつまんだ、指先。優しげに丸まっている、掌。 
 その手が動くたびに、目の前の空気が、ゆるりと揺れた。
 ふっと、息を吐く。ゆるゆると、体中がしびれるような、緊張を、解くために。
 指の表情が、膚の上に甦る。鋼鉄の体を、熱くさせる、グレートの、優雅な指先。
 ああ、そうか、と不意に気づく。
 このシャツは、グレートの掌に似ているのだ。膚に触れる感触が。
 そっと、目を閉じた。まぶたの裏の薄闇に、グレートが運んできたきわまりの瞬間の記憶を、手繰り寄せようとした。
 意識が遠のくように思った時、空気が大きく揺れて、また、目を開ける。
 胸元に、触れるほど近く、グレートが唇を寄せていた。
 何かと、怯えたように、体を引こうとした時、きれいに並んだ歯の間に、グレートが、細い糸をはさんだ。
 きちりと、硬い細い音がして、ぷつんと糸が切れる。
 少し歪めた唇の線を見て、ハインリヒは、グレートの歯に触れた糸に、嫉妬する。
 その唇の間にいたいのは、他の何でもなく、他の誰でもなく。
 俺だ、と心の中で、ひとりごちた。
 シャツの前を押さえ、ボタンがしっかりとついたことを確かめると、グレートは、3度ほど視線を上下させて、仕事の仕上がりに満足する仕立て屋のような表情をして、ふむ、とうなずく。
 それから、つけたばかりのボタンを、また優雅な手つきでとめた。
 「さて、ワガハイの腕も、まんざらでもない。」
 たかがボタンひとつのことで、また芝居がかった言い方をする。
 ハインリヒは、思わずさっきの不機嫌も忘れて、破願した。
 針と糸を元に戻すためか、半分体をねじったグレートのネクタイを、ハインリヒは、しっかりとつかんで、自分の方へ引き寄せた。
 「ハインリヒ?」
 怪訝な顔をするグレートに、それ以上は何も言わせず、少し行儀の悪い接吻をした。
 その歯と唇に触れた、糸の気配に、自分の唇を重ねて、忘れさせてしまいたかった。
 俺だけだろう? そうだろう?
 舌先で、唇の線をなぞった。
 「My Dear、たかがボタンつけの礼にしては、少々熱烈過ぎはしないかな。」
 笑顔を消して、グレートが言う。
 「礼なんかじゃない。」
 短く言って、また唇を盗む。
 呼吸の触れる近さのまま、続けて言った。
 「・・・・・・お茶に出掛けるのは、もう少し後にしてくれ。着替えに、少し時間がかかる。」
 肩に手を掛け、体重にものを言わせて、床に押し倒した。
 明るい部屋の中、まだ手の中にある針を気にしながら、グレートが、ハインリヒの下で戸惑っている。
 ネクタイを少しゆるめ、ひとつふたつ、ボタンを外した。
 「しわだらけのシャツで、お茶に出掛けるわけにはいかないだろう?」
 からかうように、謎かけのように、ハインリヒは言った。
 シャツの胸を重ね、胸を押さえるボタンの感触に、ハインリヒは目を閉じた。
 「ボタンが取れたら、今度はおまえさんがつけてくれるのか、My Dear?」
 下から、グレートが苦笑する。
 そそのかされたように、ハインリヒは、少しだけ強く、グレートのシャツの前を開こうとした。ボタンは、外さずに。
 糸の裂き切れる音がして、そこからボタンが、ひとつ飛んだ。
 かすかに音を立てて、床に落ちる。
 白っぽい色のそのボタンは、床の上で、部屋の中の光を集めて、銀色に輝いて見えた。
 ふふっと笑って、ハインリヒは、グレートのシャツの前に唇を寄せる。ボタンをひとつ、かちりと音を立てて、噛んだ。




 ご存じの通り、ウチではキリリクは普段はやってませんが、今回、ボタンつけネタで盛り上がってた(?)、ミドリさま@such a nightから、 74474を踏んじゃったよん☆とメッセージがありまして・・・そういうわけで、意味もなく、単なるこいつの気分で、ミドリさまに捧げさせていただきます。迷惑ですいません。
 心の荒んだ管理人、マジで日本帰国を毎日夢に見ております。夢で逢えたら、っつーか、みなさんに、勝手にお逢いしておりますです。幽体離脱してるかも。あんまりシャレにならんぞー。


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