尺には尺を



 ほんの、いたずら心だった。
 フランソワーズが置き忘れて行った口紅を手に取って、唇に塗ってみたいと思ったのは、一瞬の気の迷いだった。
 それでも、それを、グレートに見せて、子どもっぽく笑って見せた時には、もう、気の迷いではすまなくなってしまっていた。
 「どうやって塗るんだ、これ?」
 華奢な、黒と金の容器は、思ったよりも持ち重りがして、小さいくせに、掌の中で自己主張する。
 キャップを取って、見よう見まねで、下の方をひねり、赤い中身を出す。
 「ほう、ストロベリーレッドかな。」
 微かに、含まれているらしい香料が匂った。
 グレートが、微笑んで、無骨な機械の指に握られたその口紅に顔を近づけ、鼻先で匂いを嗅ぐ。
 ふと、不意に近づいた鼻先のせいで、ハインリヒは思わず、そうとわからないようにそっと肩を引いた。
 「ほんとうは、小さな紅筆で、唇の輪郭を先に描くんだ。それから、唇に、塗る。」
 両手で、その仕草をして見せる。
 さすが元役者だけあって、化粧のことは詳しい。手つきも、まるでパントマイムのように、空の手の中に、はっきりと化粧の小道具が見えるようだった。
 「でも、フランは、そんな小さな筆なんか、使ってなかったぞ。」
 「めんどくさいからな、そんなもの、いちいち。念入りに化粧する時以外、たいていの女は、そんなものは使わんさ。」
 「さすがに、詳しいな。」
 揶揄を、鼻先で笑い飛ばされた。
 「どれ、塗ってみるか?」
 グレートが、ハインリヒに負けずに、子どもっぽく笑う。まるで、少年のように。
 ふと、ハインリヒは、頬を赤らめた。
 鮮やかな赤を、ハインリヒは、恐る恐る唇に近づけた。
 かすかに冷たい。湿ったクレヨンのようだと、思わず眉間にしわが寄る。
 不器用な手つきで、上唇の右と左に、緋い先を滑らせた。
 「ほらほら、はみ出す、はみ出す。」
 グレートが顔の前で手を振り、ハインリヒの手を止めさせる。
 「まったくおまえさんと来たら、ピアノは上手く弾くくせに、こういうこととなると、からきしだな。」
 「口紅を塗るのが上手い男なんて、そうそういるもんか。」
 掌をつかまれて、口紅を取り上げられ、ハインリヒは、ムっと、半分だけ色の乗った唇を突き出した。
 グレートは、それでも笑みを絶やさず、数瞬、口紅とハインリヒの唇を検分した後、そっと、花びらのひとひらに触れでもするように、指先で、優雅にハインリヒのあごを持ち上げる。
 上向くと、まだ突き出たままの唇に、またひんやりと赤が乗る。
 グレートの手と指の動きが、別の想像を運んできて、ハインリヒは思わず目を閉じた。
 押しつけられ、軽く引っ張られ、時折、指先が唇の輪郭をなぞる。
 よし、と声がして、あごから指先は離れた。
 ゆっくりと目を開けると、グレートが腕を引いた。
 「バスルームの鏡で見るといい。」
 グレートが破顔しているのは、よほどおかしなことになっているせいだろうかと思いながら、ハインリヒは、うっすらと水の膜が張ったような唇に、ふと指先を伸ばした。
 その手を、素早くグレートが払う。
 触るなと、無言で言われ、ハインリヒは、おとなしく引かれた腕に従って、バスルームへ足を運んだ。
 洗面台の上についている、壁一面の鏡の中に、銀髪の、色素のほとんどない、今は薄い唇だけが鮮やかに緋いハインリヒと顔と、つるりと頭髪のない頭で、目と口ばかりが大きなグレートの顔が、仲良くふたつ並ぶ。
 「ふん、まるでピエロだな。」
 似合うとは言い難い、真っ赤な唇の色に、ハインリヒは、いつも以上に、口をへの字に曲げた。
 「そうでもないさ。おまえさんは、色が白いからな。真っ黒な唇よりはマシだろう、死神どの。」
 「やめてくれ、ジェットがハロウィンで塗った、青い唇と同じくらい趣味が悪い。」
 ジェットの仮装を思い出して、ふと背筋に寒気が走る。
 考え込む顔つきになってから、グレートが言った。
 「どちらかと言えば、死神よりも吸血鬼だな。ドラキュラだ。」
 あごに人指し指を当て、まるで、絵でも鑑賞するような口調で言う。 
 「死神に吸血鬼か。どちらにせよ、生への息吹とは縁がないな。」
 「そんなことはない。吸血鬼だ、永遠の若さと美貌。人々、等しく皆、切望するもの。たとえ、悪魔に魂を売り渡しても。」
 芝居がかった調子で、大げさに両手を開いたグレートに、ハインリヒは唇を歪めて見せた。
 「じゃあ、あんたも、ドラキュラになれよ。」
 言いざま、シャツの襟をぐいとつかんで、引き寄せた。
 歯の当たりそうに、不様に、唇を重ねる。接吻のためではなく、緋い色を、移すために。
 はみ出した紅が、こすれて、皮膚の上に赤い染みを作る。グレートの唇の上には、ハインリヒの唇の形に、紅が移った。
 「ほら、これであんたも吸血鬼だ。永遠の若さと美貌。」
 茶化すように言うと、憮然と、グレートが唇を指でこすった。
 「ワガハイは、口紅など、好みではない。」
 「俺には塗らせたくせに。」
 ここまで持って来た口紅を、掌に乗せ、ハインリヒは、くいとグレートのあごを持ち上げた。
 「たとえ、永遠の若さと美貌が手に入っても、ひとりの永遠は、淋しいと思わないか。」
 自分のよりも、ふっくらと盛り上がった唇に、紅を差す。いつもなら、舌先でそうするように、輪郭をなぞる。
 柔らかな、あごの下の皮膚と肉を指先に楽しみながら、ハインリヒは、グレートの唇に、たっぷりとその緋を乗せた。
 「ほら、これであんたも吸血鬼だ。」
 お世辞にも、手際のよい仕事とは言えなかったけれど、グレートの、真っ赤になった唇に満足して、ハインリヒは思い切り笑った。
 「ワガハイの方こそ、ピエロだな。」
 男がふたり、鏡の中で、赤い唇を並べている。
 それから、どちらからともなく、唇を重ねた。
 互いに、皮膚の上に、赤い跡を残す。頬に、額に、髪の生え際に、眉間に、目元に、まぶたの上に、耳たぶに、あごに、喉に・・・・・・もう少し下へ下がろうとして、ハインリヒは、不意に体の動きを止めた。
 「グレート、あんた、そのシャツ、脱がないか。」
 白いシャツを指して言うと、グレートが、きょとんとした顔をする。
 「・・・・・・口紅は、落ちにくいんだろう?」
 「そういう魂胆だったのか、死神どの。」
 「違う・・・・・・が、今はそうだ。」
 グレートが、苦笑しながら、自分でシャツを脱いだ。
 あらわになった胸元に、額をこすりつけて、それから、また赤い唇を寄せる。
 くすぐったそうに、グレートが身をよじった。
 「・・・・・・永遠のひとりなら、ふたり一緒の死の方がいい。」
 ハインリヒ、と耳元で、囁かれた。
 耳から唇が滑り、首筋に止まる。それから、グレートが、そこにゆっくりと歯を立てた。
 いつもとは違う湿りが、唇から首の膚に移る。
 ぎりぎりと食い込む歯列に、ハインリヒは、苦痛ではなく、いとしさを感じた。
 「血を、すすり合えないのが、残念だな。」
 グレートの呼吸が、並んだ歯の跡を、なぞった。
 「代わりに、あんたの体の、いたるところに、口紅の跡を残してやる。」
 「全部に?」
 「全部に。」
 互いに、べたべたと口紅の跡の残った顔を突き合わせ、笑い合う。
 ハインリニの頬を撫でて、グレートが、おごそかに言った。
 「よろしい。では、どこから始めようか、死神どの。」
 「・・・・・・ここから。」
 にやりと笑って、するりと手を、下へ滑らせる。
 ゆっくりと、床の上に膝をついて、上を見上げて、またにっと笑った。
 グレートが、喉を反らしたのを見て、ゆっくりと目を閉じる。
 「フランソワーズに、新しい口紅を買って来た方が良さそうだ。」
 ハインリヒの髪を撫でながら、グレートがそう言ったけれど、ハインリヒはもう、言葉に出して答えることも、うなずくことも出来なかった。
 赤い唇で、グレートの形をなぞりながら、ぺろりと舐めた口紅は、甘いいちごの味がした。


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