夏の夜の夢



 誕生日だと言われて、初めてカレンダーを見上げた。9月19日。もう、そんなものはとっくに関係のない身だというのに。
 苦笑して、電話の向こうの声に、とりあえずの感謝を告げると、声の主は、オペラを見に行こうと、低い声で言った。
 あの、シャツとネクタイを着けてくれるんだろう。
 控え目に、そう付け加える。
 ああ、とハインリヒは思った。
 似合うと思ったからと贈られて、着て見せた時に、オペラに行く時にでもと、そう言ったのだ。
 ちょうど、あのシャツに合うジャケットもある。ふん、とハインリヒは思った。
 そうだな、ロンドンで見るオペラも、悪くはないな。
 わざと、けなすように言うと、向こうが笑った。
 9月19日、ともう一度繰り返して、電話は切れた。


 ロンドンの、そう大きくはない劇場に、ジェシー・ノーマンが来ていた。
 フォーマルが一応の前提だけれど、劇場の格がやや落ちるせいなのか、若い観客が多く、ほとんどが、とりあえずネクタイさえしていればいいだろうと、言わんばかりの格好だった。
 大きな、いや、男なら、巨漢と言われるだろう体格の、黒人の女性。
 ジェロニモよりは背は低いけれど、体の大きさは、そう変わらないかもしれない。その体から声をほとばしらせて、歌う。声質のせいか、オペラというよりも、ジャズの歌い方に近い。
 声が、ホールの全体を叩き、そして、そこから降り落ちて来る。豊かな、力強い声に包まれ、一時、現の世を忘れる。
 ふと気づくと、グレートが、そっと手を伸ばし、ハインリヒの右手に、自分の掌を重ねていた。暖かな手。今日は人工皮膚に包まれている、機械のその手を愛おしむように、グレートの指先が、優しく指の間を撫でた。
 もっと暗ければ、その肩に、ふと頬を寄せることもできるのにと、ハインリヒはうっすらと考える。
 彼女の声は、ひたすらに強く、そして、優しい。甘さはない。けれど、暖かく、穏やかだ。それはまるで、母親の胸に抱かれている赤ん坊のような、そんな気分。 
 ハインリヒは目を閉じ、グレートの手の暖かさに、気持ちを集中させた。全身に、声と、掌の暖かさを、染み込ませるかのように。もう、2度と体温を取り戻すことのない、彼の体だったので。
 彼女の歌が終わる一瞬前、グレートが、ぎゅっと、ハインリヒの手を握りしめた。


 「驚いたな、あんな小さなホールで、彼女を見れるなんて。」
 彼女の歌にほろ酔い気分で、劇場から歩いて帰る途中のパブで、今度は本物の酒を少しばかり、それからまた、気持ちの良い夜風に頬を撫でられながら、ふたりは肩を並べて、グレートのアパートメントに戻って来た。
 「そう思って、おまえさんを誘ったのさ。」
 グレートは、脱いだ上着を、ソファの背に放りながら、小さなウィンクを、茶目っ気たっぷりにハインリヒに送って見せた。
 「ドイツじゃ、まず信じられない話だな。」
 「我がロンドンも、まだまだ捨てたもんじゃないってことさな。」
 ソファに坐る前に、ハインリヒは上着を脱いで、グレートが脱いだ上着の傍に、自分のそれを並べて置いた。
 腰を下ろすより先に、不意に、グレートの両腕が、胸の前に絡みついてくる。
 軽く振り返って、自分の肩に鼻先をすりつけているグレートを、下目に見た。
 首の後ろに、ゆっくりと唇が触れる。
 自分のそれよりも、やや厚めの、ふっくりとした、暖かな唇。色は薄いけれど、輪郭ははっきりしている。何度も、自分の唇で確かめた、その、紅い皮膚の感触。
 首の後ろから、耳の後ろへ、ずれてゆく。
 あごを胸元に埋めてから、そして、首を反らした。
 グレートの肩に、後ろ頭を預け、目を閉じる。
 金属まみれの体の重みを、すっかり預けてしまうわけにはいかないけれど、肩と腕の力を脱いて、ハインリヒは、酒と、偉大なオペラ歌手の声と、大事な誰かの腕の酔いに、身を任せた。
 繊細な手つきで、ネクタイがとかれ、シャツのボタンが外されてゆく。柔らかく動く、ひどく優しい指先が、するりと中へ入り込んできた。
 反った喉から鎖骨へ、それから、もっと下へ、なだめるような仕草で、指が膚を滑ってゆく。
 ソファは、ふたりの選択ではなかった。
 若過ぎないふたりは、オーソドックスにベッドに倒れ込むことを選び、けれどグレートは、服を脱ごうとしたハインリヒの手を止めた。
 「脱がないでくれ。そのシャツを着たままの、おまえさんと・・・・・・」
 カフスボタンだけは、それでも外してサイドテーブルに置き、ハインリヒは、しわだらけになるぜと、笑いながら、グレートの腰を引き寄せた。
 ふたりとも、服は脱がずに、あちこちのボタンだけを外して、ところどころの皮膚だけ剥き出しにして、遅い時間の流れの中に飛び込んでゆく。
 急いで愛し合う必要は、どこにもなかった。
 そんなことが魅力的なほど、もうふたりとも子どもでもない。
 前をすっかり開けた、グレートのシャツの中に両手を差し込んで、背中を抱く。自分のよりも、やや小柄な、薄い体。老いの現れる、数瞬前のまま、彼の体もまた、時間を止めてしまっている。
 ハインリヒは、引き寄せたグレートの首筋に、接吻した。
 体温のない、金属だらけの体。人間よりも、機械により近い、からだ。
 どうしてグレートが、こんなからだに触れたがるのか、今も時々疑問に思う。訊けば、悲しそうな瞳で、おまえさんに惚れてるからさと、静かに言われるのはわかっていたけれど。
 グレートの手が、あちこちに触れる。そして、身にまとったままの服が、また奇妙に気分を煽る。まるで、別の手に触れられているような、そんな錯覚を呼ぶ。
 少しばかりごそごそと、何とかやりよいようにと考えた後で、グレートはあきらめたように、ハインリヒのズボンを脱がせた。
 突然晒された冷たい空気に、ふと、ハインリヒは体を硬張らせた。
 また、接吻を繰り返す。まるで、互いに唇を重ねるのではなく、舐め合うように、そんな仕草で接吻する。
 強く抱きしめることも、せっかちに咬みつくようにキスすることも、まるでさかりのついた動物のように躯を繋げることも、グレートとハインリヒの間には、ない。
 すべてが穏やかで、優しかった。抱擁も接吻もインターコースも、すべて、気が遠くなるほど時間をかけて、ゆっくりと先へ進む。
 グレートがようやく、ハインリヒの脚を開き、躯を繋げに来た。
 息を飲んで、躯の力は抜きながら、喉を反らす。押し込まれる感触に、体が微かに動く。
 抱きしめられて、ハインリヒは、グレートに合わせて、少しだけ腰を持ち上げた。
 ふたつの躯の間の、ひとつの律動。強く、優しく。ゆるやかに、速く。穏やかに、激しく。
 耳の奥に、彼女の歌声が聞こえた。その声の力強さに煽られたように、ハインリヒは声を上げ、まるで、歌い上げるためのように、反らした喉を思い切り開き、声を放った。


 くしゃくしゃになったシャツと、剥き出しの下半身には靴下だけ、という、奇妙な格好で、ハインリヒは脱力したまま、仰向けになって、暗い天井を眺めていた。
 グレートも、だらしなくシャツの前は開けたまま、ベッドのヘッドボートに寄りかかって、ハインリヒの頬を撫でている。
 「アパート中に、響きそうな声だったな。」
 からかうように、けれど優しく言うと、グレートは、くすりと喉の奥で笑った。
 「俺のせいじゃない。」
 天井を見上げたまま、素っ気なく返す。照れ隠しのためだとわかっているから、グレートも言葉尻を捕らえることはしない。
 煙草に火をつけ、深々と吸い込んだ。
 煙を視線で追っていたハインリヒが、グレートの口元に手を伸ばした。
 くれよ、と指先に言わせ、グレートから、吸いさしのそれを受け取る。
 さっきまで、ふたりが発していた熱と吐息の重さで、湿っていた空気に、煙草の匂いが混じる。
 その煙草の匂いは、グレートの膚にも染みついていた。
 躯を重ねると、いつも包まれるその匂いを思い出して、ハインリヒは目を細めた。
 グレートが、ハインリヒの唇から煙草を取り上げ、上体を倒してきた。
 また触れる、唇と唇。今は煙草の匂いのする、接吻。
 「Happy Birthday、My Dear。」
 皮膚の内側を撫でるような、ひどく優しい低い声で、息の触れる距離で、グレートが囁いた。
 次の誕生日も、こんなふうに、同じ声音で、同じ距離で囁いてくれるのだろうかと、ハインリヒはふと訊いてみたくなって、やめた。
 口を開く代わりに、まだすぐそこにある唇に、軽く触れるだけの小さなキスをすると、ダンケ、とつぶやいて、ハインリヒはまた、耳の後ろで、母親の子守歌のように、今夜の彼女の歌を聴いていた。


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