心の眼に



 ほろ酔いと言うには、少しばかり酔いが深そうに見えた。
 目元は真っ赤に染まり、くたりと、薄い体をソファに横向きに投げ出して、腕枕で、ゆるんだ口元は何かつぶやいてでもいるかのように、ずっと動き続けている。
 ハインリヒは、そんなグレートを、しばらく見下ろしていたけれど、ため息を吐き出してから、やっと肩に手を伸ばした。
 「グレート、寝るなら自分の部屋へ行け。風邪を引く。」
 酔って帰って来て---感心なことに、車は置いて戻って来ていた。もちろん、車を置いて来た場所を、明日覚えている保証はないにせよ---、さらにウイスキーのボトルを開けて、ひとりで陽気に飲んでいたのだけれど、仲間はひとりふたりと自分の部屋へ引き上げ、深夜をとっくに過ぎた時間、まだグレートのためにリビングに残っているのは、今はもう、ハインリヒひとりきりだ。
 酒の味もわかれば、酔いたい気持ちもわかるから、酔っ払うグレートを止めることができず、付き合う程度に、一緒にウイスキーを舐めていたけれど、そろそろ寝る時間だと、そう思う。
 酔っ払いを甘やかすことはないアルね。
 張大人が、きっぱりとそう言って、自分の部屋に引き上げてしまってから、もうずいぶん経つ。
 汚れたグラスは、明日片付けるとして、今はグレートを起こして、部屋に連れて行かないとと、ハインリヒはまた薄い肩を揺さぶった。
 「おい、グレート、抱いてベッドに運ぶのは美女だけにしといてくれ。」
 冗談を混ぜて、少し強い声を降り落とした。
 「・・・美女か? 美女か? どんなのがいい? バルドー? バーグマン? ディートリッヒ? テイラー? それともおまえさんだと、かわいらしいヘプバーンなんかどうだ。」
 「本物のヘプバーンなら、運ぶのにも軽そうだな。」
 「おれはどっちかと言うと、胸も腰も重たそうなのがいいな。」
 ジェットが好きそうな、やたらと胸の大きな女優たちを思い浮かべて、自分たち以上のにせものくささに、ハインリヒは唇を曲げる。
 「あんたと女の好みを語ったって仕方ないだろう。」
 グレートが片目だけを開き、じろりとハインリヒを斜めに見上げた。
 「そんなことはないぞ、何もかもを語り合い、わかり合うのが我らの運命(さだめ)、うるわしき死神どの、この酔いどれに、どうか慈悲を。」
 一体何を言ってるんだと、いきなり芝居がかったグレートを引き起こそうと、また肩に腕を伸ばす。そのハインリヒの手を---右手だった---、グレートがつかんで、自分の胸元に引き寄せた。
 いたずらっぽく、両目で見上げて、口元が笑う。どこか照れくさそうに、グレートの唇が動いた。
 「もう少しだけ・・・」
 語尾を、どうとでも取れる位置で切り捨てて、とび色の瞳が、少しばかり気弱に光った。
 頼むからと、瞳の色が言っていた。引かれた腕を振り払わないでいると、グレートがもっと近くに引き寄せて、それから、浮かせた頭を軽く、自分の隣りに振って見せる。
 そちらへ向かって動くと、グレートの手が離れ、坐れと、猫でも呼ぶように、ぽんぽんとソファの上を叩く。
 酔っ払いを甘やかす趣味はないけれど、グレートにはつい甘くなるのは、どうしてなのだろう。
 唇をへの字に曲げたまま、気に添わないという態度で---もちろん、ほとんどふりだ---、グレートの禿頭の傍へ、そっと腰を下ろす。
 グレートが肩をずり上げて、素早くハインリヒの膝に、頭を乗せた。
 「おい!」
 「心配しなくたって、このまま寝ちまやしねえさ。」
 はぐらかすような軽い声が聞こえると、膝に触れた耳や頬の辺りから、音の振動がかすかに伝わって、くすぐったさに、思わず声を荒げたことを忘れる。
 「あーあ、酔ったなあ。」
 わざとらしく言う声に、甘えがにじんでいて、ハインリヒは腹立ちを示すために、あきれたなと声に出してから、胸の前でしっかりと腕を組んだ。
 酒の酔いと、しんと静まり返った夜と、他には誰の気配もない、ふたりきりの気安さのせいなのか、グレートはハインリヒの膝に乗せた頭を、ごろごろと動かして、まるで甘えるように、掌で膝小僧を撫で始める。
 「俺を、どこの美女と間違えてるんだ。」
 膝を撫でる手は止まらず、腕を伸ばして、足首やズボンの中のふくらはぎまで指先を滑り込ませてくるのに閉口しながら、けれど酔っ払いの戯れ言だと言い訳をさせて、ハインリヒはじっとしていた。
 「・・・間違えてなんかいやしないさ、死神どの。」
 「俺の膝じゃあ硬すぎて、寝違えちまうぞ。」
 グレートの仕草と声に、照れながら、けれどそれを隠すために、わざと膝を高く上げて、グレートの頭を揺すって、どけよと、心にもないことを言ってみる。
 「寝違えなんかしやしねえさ。おまえさんの膝が、夢を見るのにいちばんいい。」
 じっとしててくれと、訴えるように湿った声で、グレートが言った。
 膝を撫でる手は止めないまま、上から見下ろすグレートの横顔が、眠るように目を閉じる。眠るつもりがないのは、聞こえる呼吸でわかるけれど、酔ったグレートに、膝を貸して甘えさせている自分に照れて、ハインリヒは、組んでいた腕を解いて、赤くなった頬を撫でた。
 グレートの酔いは、まだ醒めないのか、赤い目元はそのままで、ボタンを外してゆるめたシャツの襟元も、同じほど赤く見える。
 暑いのだろうかと、ハインリヒは、そっと右手を、グレートの頬に伸ばした。
 指先が触れると、グレートの目がぎょろりとそちらに動き、けれど冷たさに驚いたわけではないのか、またうっとりとした表情で、目を閉じてしまった。
 頬に、右の掌を乗せ、剥き出しの金属部分で触れながら、あごの線を撫でて、少し皮膚のたるんだ首筋をなぞる。
 まるで猫のように、グレートが、その手の動きをそそのかすように、首を伸ばした。
 「冷たいだろう。」
 ああと応えて、グレートの手が、ハインリヒの右手を握った。
 自分の頬と手で、ハインリヒの手をはさみ、グレートが、ゆっくりと何度も瞬きをする。
 大きなハインリヒの手は、重なったグレートの手からはみ出して、指の太さも違うそれは、形だけは掌そっくりでも、所詮は武器に過ぎず、グレートの体温を吸い取りながら、まるで死の瞬間を与えているかのように見える。
 鉛色の指の間に、自分の指先を差し込んで、重ねて、握りしめて、グレートの口元と頬が、微笑んだ。
 「冷たい手は、心があったかい証拠だ。」
 言葉と同時に、握り込んだ指先に、少し力が入った。
 「手が冷たければ冷たいほど、おまえさんのハートはあったかいってわけさ。」
 横向きの体を回して、グレートが、膝の上で仰向けになる。頬から外したハインリヒの右手を、けれど握ったままで、下から真っ直ぐ見上げられて、ハインリヒは顔を背ける間もなく、頬を赤らめた。
 不様に舌が戸惑って、声がつかえた。
 「お・・・おだてたって、何も出ないぜ。」
 鉛色の右手をまた、頬に当て直して、自分の掌を重ねて、グレートがにっこりと笑う。
 微笑んだまま、けれどそれきり黙ってしまったグレートの唇の上に、ハインリヒは、数瞬ためらった後で、ゆっくりと自分の唇を落として行った。
 うまく乗せられたのだと思いながら、何もかも、酔っ払ったせいにしておいてやると、頭の中で毒づきながら、酒の匂いのするグレートの呼吸を、胸いっぱいに吸い込んでいた。


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