名無し草



 グレートが、一輪だけ手にしていたのは、白いバラだった。
 細身の、茎の長い、まだ、ようやく蕾がほどけ、花弁のつらなりが、くっきりと目に眩しい、そんな白バラだった。
 「プリンセスと、言うんだそうだ。」
 花弁に唇を寄せて、グレートが穏やかに告げる。
 「プリンセス?」
 口移しに繰り返すと、花越しに、グレートがふっと微笑む。
 「かの、薄倖の美女、ダイアナ妃にちなんだ、バラだそうだ。」
 美しい、イギリスの女性。皇室に嫁いで、美しい息子たちを生んで、けれど愛には恵まれなかった、女性。
 痛々しいほどの白さと、それゆえに漂う、言葉にはしづらい儚さは、まさしくあの女性のイメージなのだろうか。
 ハインリヒは、そのバラに触れたくて、手を伸ばしたくて、けれど、なぜかそれをためらって、鋼鉄の右手を、背中の後ろに隠した。
 グレートは、そんなハインリヒの様子に、気づいたふうもなく、手の中のバラに視線を落とし、すみずみまで、眺め、触れ、そして、どこかに甘さのひそむその香りを、胸いっぱいに吸い込んでいる。
 うっとりと、バラを見つめる視線は、グレートが、美しいものを目にした時にする、あのいつもの目の色だった。
 それに気づいて、それから、自分が、うっすらと嫉妬していることに気づく。
 グレートの視線を、独り占めしている、小さな一輪の白バラに、嫉妬している自分に気づく。
 ばかばかしいと、思いながら、頬が赤く染まるのを止められない。
 手の中で、グレートが、くるくるとバラを回した。
 「どうして、一輪だけ、なんだ。」
 抱えてくるなら、花束ではないのかと、そんな、陳腐なことを思いながら、訊く。実のところ、グレートが抱くなら、大きな花束よりも、可憐につつましく、一輪だけの方が、よく似合うと、そんなふうに思っていたのだけれど。
 まだ、バラを手の中で遊ばせながら、それに視線を落として、グレートが、ちょっとばかり自嘲気味の笑みを、口元に刷いた。
 「見た途端に、おまえさんを、思い出した。おまえさんみたいだと思って、おまえさんによく似合うと思って、それから、気づいた。」
 グレートは、そこで言葉を切って、思わせぶりに、バラとハインリヒを、交互に見た。
 バラを、目の高さよりほんの少し高い位置に、ハインリヒの顔の正面に、捧げるように、かかげた。
 「おまえさんの方が、きれいだ。」
 グレートの口から出た言葉に、思わずぎょっとなって、肩を後ろに引く。
 照れて、頬を染めるよりも、言われたことの意外さに、まずは眉を寄せて見せる。
 それを見て、グレートが、にっこりと笑う。
 「おれは、世界でいちばん幸福な男だ。最も美しい、もっとも貴重な、この広い世界で、唯一無二の、正真正銘かけがえのないものを、手に入れた。けれどそれは、同時に、最大の不幸でもある。」
 また、思わせぶりに、言葉を切る。
 芝居がかった言葉も、仕草も、そう言えばグレートのお得意だと、ハインリヒは、じっと、次の台詞を待った。
 一呼吸、リズムを外して、また、その色の薄い唇が、開く。
 「手に入れた瞬間、おれが恐れるのは、それを失うことだ。持ち続ける限り、一生、その恐怖に苛まれる。それでも、その恐怖ゆえに、いっそう、美しさは価値を増す。」
 バラをまた、手元に引き寄せ、花弁に、そっと口づける。
 大きな、生き生きとした、熱っぽい瞳が、ふっと、伏せられた。
 「けれど、その美しさが、価値を増せば増すほど、今度は、他のものに、感動できなくなる。何もかも、それに比べれば、ちっぽけで、つまらなくて、少しばかり何かが足りない。美への感動が薄れてしまうほど、人生をつまらなくするものは、ない。」
 上目に、ハインリヒを見た。少しおどけた表情が、その、はしばみ色の瞳に浮かぶ。
 「死神どの、ワガハイは、時折それを、淋しく思う。実にゼイタクな、悩みでは、あるが。」
 茶化した口調で言って、また、にっこりと、今度は子どもっぽく笑って、ハインリヒに向かって、白バラを差し出した。
 「おまえさんのせいだ。おまえさんが悪い。だから、責任を取ってくれ。」
 グレートの、いつもの悪ふざけだと気づいて、ハインリヒは、乗ったふりで、にやりと笑う。
 肩をすくめて、それから、差し出されたバラの花弁に、そっと右手の指を伸ばす。
 「責任・・・どうやって?」
 柔らかい、滑らかな花弁の感触は、まるで、絹のようで、ハインリヒに触れる時の、グレートの指先に、よく似ていた。
 にっこりと微笑みを崩さないまま、まるで、紅茶のお代わりを頼むような気軽さで、グレートが言った。
 「・・・脱いで、見せてくれ。」
 白バラで、ハインリヒの胸に触れた。
 部屋の中は、明るい陽に満ちている。
 今さら、隠すほどのこともなく、明るい場所で見られるのも、別に初めてではないけれど、目の前のバラと、わざわざ比べられるのかと思うと、ほんの少し、戸惑いが立つ。
 自分では、グレートが描写するように、美しいとは思えない、改造された体を、美女にちなんで名付けられた、白いバラと並べるのかと思って、グレートの視線に、思わず目を伏せる。
 自分で言うなら、醜悪だと言った方が良さそうなこの体に向けるグレートの視線には、いつまで経っても慣れることがない。
 黒の、タートルネックの薄いセーターのすそを抜き出し、ゆっくりと引き上げた。
 首から抜いて、乱れた髪を散らすために、軽く首を振る。脱いだセーターは、いつもそうするように、床に投げる。
 グレートが、その、機械の部分と白い人工皮膚で、まだらに縁取られた体を、目を細めて眺める。
 黙って、見つめ合った後で、グレートは、手の中のバラを、ハインリヒが投げたセーターの上に、放った。
 滑るように、足を運んで、ハインリヒに向かって、両腕を伸ばす。
 胸と胸を重ね、いとおしむように、ハインリヒの肩に、頬をすりつけた。
 背中に回した腕は、優しくハインリヒを抱いて、そこには、欲情の匂いは、微塵もなかった。
 「・・・惚れた男と、一瞬で、一緒に死ねた彼女は、幸せだったさ。」
 くぐもった声が、首筋にかかる。
 イギリス人には、イギリス人にしかわからない、悲しみと感傷があるのだろうと、その声を聞きながら、思う。
 あの、幸薄いまま、年若く死んでしまった美しい女(ひと)が、たとえ手の届かない存在だったのだとしても、彼らは皆、まるで彼女を、自分たちの家族の一員のように、身近に感じていたに違いないのだ。
 彼女が、あまりに美しく、彼女が、あまりに若く、彼女が、あまりに不幸だったから。
 彼女の姿に似せてつくられた、白いバラを見て、ハインリヒを思い出し、思い出してから、彼女の死にざまを思って、突然怖くなったのだと、グレートが語る必要もなく、ハインリヒは、それを皮膚に感じていた。
 首をねじって、グレートが投げたバラを見やった。
 そうしておけば、いずれ枯れて、死んでゆく。
 自分たちとは違う。半機械に、改造されてしまった自分たちとは、違う。
 彼女は、死んだ。けれど、ハインリヒは、死ぬことはない。
 グレートも、それは同じことだ。
 死ねることの幸福。ひとりではなく逝けることの幸せ。
 ふたりと、他の、同じ機械の体を持つ仲間たちには、許されないこと。
 それでも、一緒に生きることは、許されている。
 一緒に壊れて、廃棄されることは、許されている。もし、そんなことが、起こるとすれば。
 白いバラは、光を集めて、床の上で、輝いていた。
 肩に額を乗せたまま、それきり動かないグレートの背中に、ハインリヒは、ようやく、決して暖かくはならない、金属の腕を、回した。
 抱きしめ合って、互いを確認する。
 ここにいるのだと、どこへも行かないのだと、一緒にいるのだと、そんなことを、互いの腕の感触に、確認する。
 死ぬ時になって、初めて幸せになった、あの女(ひと)と、醜悪な体のまま、けれどこうして、確かに気持ちの通じ合っている誰かと、抱き合える自分と、どちらが幸福なのだろうかと、ハインリヒは思った。
 肩の上で、グレートが泣いているのに気づいていたけれど、ハインリヒは、気づかないふりをしたまま、グレートの耳元に、頬をすり寄せた。
 バラの香りが、グレートの首筋から、ふわりと立った。


戻る