哀れな役者



 酒を飲んで酔っ払うと、世界に膜がかかる。
 そうなってしまえば、目の前のすべてのことが、良い具合に嘘くさくて、口にしたことすべてが、その場限りの戯れ言として許されてしまうような、そんな気になる。
 そして、それは単なる言い訳なのだと、グレート自身がいちばんよく知っている。
 だから、言い訳のために、また酒を飲む。
 「世の中すべてが、輝いて見えるのさ。」
 台詞の息継ぎで、そう言った。
 左手にはグラス、空の右手は、けれど、テーブルの上のボトルがすぐつかめるように、指先がそちらに向いたままでいる。
 ハインリヒは、グレートよりは幾分遅いペースで、同じ酒を飲んでいる。グラスを支える鉛色の手が、酔いを示すことはありえない。グレートは、それを少し残念に思う。
 「何もかもが絶好調だった。やった役、やった芝居、全部大当たりだ。みんながおれを見る。みんながおれのことを知りたがる。みんながおれと演りたがる。」
 そこで一拍。グラスを、唇に向かって持ち上げる。その唇は、もう酔いのせいですっかり湿って、やわらかくゆるんでいる。
 「おれは有頂天だった。」
 黙って立っているだけでよかった。世界は、あちらからやって来た。グレートを取り巻いて、機嫌をうかがうように、常に上目遣いだった。
 透明なグラスの向こうで、ハインリヒの薄い唇が、少しねじれたような気がした。それは、何の色もない、ただの笑みのように見えて、けれど一瞬だけ、軽蔑されたのだろうかと、小さな恐怖が、背筋を駆け上がる。
 グレートは、大きくゆっくりと瞬きをして、また世界に薄い膜をかけた。
 「才能は、あったろうさ。もちろん運も良かった。自慢じゃないが、本気で言い寄って来る女もたくさんいた。おれは、その幾人かと、その場限りの夢を分け合って、他の幾人かと、本気と思った恋をした。もちろん、どれも全部、陳腐に終わったがね。」
 酒だ、と心の中でつぶやいた。
 酒は、すべてを受け止めてくれる。酒は、すべてを忘れさせてくれる。酒は、すべてを許してくれる。酒は、そして、すべての言い訳になってくれる。
 酒だ、とグレートは、声に出してつぶやいていた。
 「まだ、残ってるだろう。」
 その声が聞こえたのか、ハインリヒが、テーブルのボトルの方へ、軽くあごをしゃくった。
 「ああ、そうだな。」
 すれ違いを正さないまま、グレートは、にっこりと微笑んでうなずいておいた。
 昔話は、いつだって、洗われてさらされて、生々しさも初々しさも失くして、だからこそ、暖かく胸を満たす。その暖かさを、人と分けたいと思うのは、なぜなのだろうか。
 グレートは、また一口、酒をすすった。
 関わった女たちの顔を、ひとつびとつ、思い出そうとする。そうして、その顔の上に、その肌の暖かさと柔らかさを重ねようとして、けれど、どれがどの女のものだったのか、もう記憶はおぼろで、少しずつ違ったはずの、爪の形や髪の手触り、さまざまな癖も、すべてが入り混じって、どこからどこまでが誰で誰なのか、それはひとりだったのか数人だったのか、それすらもうわからなくなってくる。
 酒のせいだと、また心の中でつぶやいた。
 自分の薄情ささえ打ち消してくれる、酒の酔いに感謝しながら、グレートは、ふうと息を吐く。そうしてまた、酒を飲む。
 「ある日、もう、恋をできない自分に気づいた。一緒に暮らして女がいたってのに、ある日、その女に、ちっとも惚れてなんかいないことに、気づいちまった。」
 誰かのためになら、世界すべてに立ち向かってもいいと、そう思える情熱が、まるで漂白された染みのように、消え失せてしまっていた。
 「歯車がひとつ狂うと、全部狂っちまうんだ。何もかもがぎくしゃくして、おれはもう、どうしていいかわからなかった。」
 恋という情熱が去ってしまった後に残されたのは、演じることのできない役者という、この上ない役立たずの、ろくでなしだけだった。
 ろくでなしは、その頃には、ちょっと仲のいい知り合いという程度だった酒を、親友に選んでしまった。いや、酒以外の友達は、もう残っていなかったのだ。
 酒は、他の友達のように、グレートのやることなすことに口出しすることはなかったし、警告も忠告もしなかった。とても静かで優しくて、それでいて思いやりと懐の深い、すばらしい友達だった。その懐の深さが、墓穴の深さと同じだとグレートが気づくのは、もう少し後だったのだけれど。
 グレートは、恋することを忘れた。芝居への恋は消え失せ---いや、あちらに振られたのだ---、どの女も、もう空っぽの酒のボトルよりも魅力がなく、グレートはもちろん、割れたグラスの破片ほどの魅力さえも、もう残ってはいなかったのだけれど。
 グレートに残されたのは、墓穴の底で、文字通り、酒に溺れ死にする生活だけだった。
 「死んだってかまわないって思ってたくせに、サイボーグにされちまって、なかなか死ねなくなったと思えば、またぞろ悪い虫が動き出す。恋の病いってヤツだ。」
 人恋しいのではない、人を恋しいと思う気持ちが、恋しかった。恋いをしたいと、人ではなくなった体を見下ろして、思った。
 恋をしたいと思う情熱が甦ったことに、ひどく驚いて、そうして、恐る恐る周囲を見渡す。
 世界にひとりきりでは、片恋さえ不可能だ。
 誰かに恋するということは、この世に、自分以外の誰かが、輝きを放って存在してくれているということなのだと、グレートは久しぶりに思い出していた。
 空には太陽が、夜には月が、そして地上には、恋するひとが、明るく目の前を照らしてくれる。
 グレートは、その恋を、そっと優しく、静かに抱きしめることにした。
 口にすれば、その場ではかなく砕けてしまいそうな、あやうい想いだったので。
 初めての恋は忘れがたく、最後の恋は、断ちがたい。いつ訪れるかわからない、最期の時まで、この想いは秘めたままだろうと、グレートは、ちらりとハインリヒを見た。
 「こんな体になって、そんなこととは、おさらばだと思ってたんだが・・・」
 少しだけ苦笑を混ぜて、グラス越しに、言ってみた。
 視界の端で、ハインリヒが、ゆるく眉を寄せたのが見える。ひっそりと苦痛に耐える、その表情に、こっそりと見惚れて、グレートは、またゆっくりと瞬きをした。
 「・・・そうだな。」
 はっきりと、同意を示して相槌を打つと、ハインリヒは、大きく上向いて、酒を飲んだ。
 白い喉が動く。皮膚の下の骨の形---ほんものでは、もちろんない---を想像して、そうなってすら、彼への愛しさは消えないだろうと、グレートは、そこに真っ直ぐな視線を当てていた。
 ハインリヒが、誰のことを思い浮かべて相槌を打ったのか、グレートは知らない。そんなことでも、彼についてなら是非知りたいと思いながら、問えないままでいる。
 彼は、自分の片恋の相手を、誰だと思っているのだろうかと、また同じ好奇心が頭をもたげる。
 何も、訊かない方がいい。長い長い人生の、おそらく最後の恋の寿命を、いたずらに縮めることはない。恋のない寂寞にさらされるよりも、かなうことのない恋の不毛に耐える方が、まだしも"人間"らしい気がする。
 自分と同じほど、実ることのない想いに苦しむ彼を眺めることは、甘い痛みをともなう。彼を救えないという痛みと、彼が、誰か---おそらく、自分ではない---に恋をしているのだという確信に対する痛みと、その痛みをいとおしむように、あごを引きつけて、グレートは、自分の胸元を見下ろした。
 苦しむ彼もまた恋しいと、自分勝手なことを思いながら、グレートは、ハインリヒのグラスを満たすために、テーブルの酒に手を伸ばした。


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