Pray For Rain



 どしゃ降りの雨の中、水たまりをよけながら、走り続けた。
 軽い酔いに任せて、歩いて帰ろうなどと思ったことを、少しだけ後悔しながら、それでもハインリヒは、この不意の雨を、子どものように喜んでもいた。
 首筋から、流れ込んでくる水滴。髪の先から滴る雨。その冷たさが、なぜなのか、ひどく心地良かった。
 「アンタ、どうしたんだよ?」
 部屋に入るなり、ジェットが呆れた声を投げる。
 上から下まで、見事にずぶ濡れになって帰って来たハインリヒを、爪先から頭の上まで眺めて、それから、タオルを取りに行くために、バスルームの方へ、足を向けようとした。
 「いい、このまま、シャワーでも浴びるさ。」
 足を止めたジェットに、機嫌のいい笑顔を向けて、ハインヒリは、水の跡を床に残しながら、バスルームへ入って行った。
 また、頭から水を浴びる。今度は、服を脱いで、暖かなシャワーを。
 思わず歌でも歌いたくなる。
 まだ酔いが残っているのか、体のどこかがふわふわと浮き出すような気がする。
 ジェットが空を飛ぶ時には、いつもこんな感覚に包まれるのだろうかと、不意に思った。
 髪を拭き、バスルームの鏡に映った、自分の上半身を、思わず眺める羽目になる。
 鉛色の右半身。滑らかな、その金属の表面に指先を滑らせた時、突然ドアが開いた。
 ジェットが顔をのぞかせ、
 「終わった?」
といたずらっぽい口調で尋いた。
 「ノックくらい出来ないのか。」
 剥き出しの体を見られまいと、肩をひねりながら、思わず声が尖る。
 ジェットは、そんなことにはまるきりかまいもせず、当たり前のように中に入って来た。
 「まったくアンタって、わかってやってるんだか、どうなんだか。」
 伸びてくるジェットの腕を、避けようとして、狭いバスルームでは逃げ場もない。長い腕の中に引き寄せられながら、何のことだと問い返す。
 「ずぶ濡れで帰って来て、濡れたシャツ、胸に張りつかせて。そんなにオレに、押し倒されたい?」
 とんでもない勘違いだと言ってやろうとして、開いた唇に、素早くジェットが舌を差し入れてきた。投げつけてやろうとした言葉は、ジェットの生暖かい舌先に、絡め取られてしまった。
 髪をつかまれ、いっそう強く、引き寄せられる。
 本気で抵抗しないのは、まだきっと酔いが残っているせいだと、ハインリヒは、自分に言い訳するように思う。
 まだ、服を着たままのジェットと、シャワーを浴び終わったばかりで、水滴さえまだ拭い終わっていないハインリヒと、鏡の中に、ふたりの輪郭が重なって、映っている。
 「ここでやる、それとも、ベッドに行く?」
 バカ、と唇を拭いながら言ったハインリヒの頬は、ジェットの髪の赤さに負けないほど、上気していた。


 ベッドの中で、ゆるく呼吸と脚を絡め、ふたりはひそやかに時間を分け合った。
 雨はまだ降り続いていて、窓に時折吹きつける風が、音を立てて雨粒を叩きつける。
 その小さな騒めきの中、重ねた熱と膚が、今はふたつに別れ、薄い闇の中に、漂うように沈んでいた。
 まだ湿ったままの、ハインリヒの銀の髪を、ジェットは名残惜しげに指先に遊ばせている。
 寝返りを打って、ハインリヒは、ジェットの腕から離れていった。
 起き上がって、床に手を伸ばしているハインリヒの背中に、ジェットは言った。
 「アンタの服なら、まだバスルームだぜ。第一、びしょ濡れで、着れないだろう。」
 そうだったと、ジェットの方を振り返りながら、何かに憑かれたように乱れた後の、体を軽やかにする疲労感が、奇妙なことに、重く腰の辺りに漂っているのを感じて、どうやってベッドになだれ込む羽目になったのか、ようやく思い出していた。
 「オレのシャツでも着てなよ。」
 少しの間、考え込んでから、ハインリヒは、眉を寄せながら言葉を返す。
 「半袖は、ごめんだ。」
 色の鮮やかな、ジェットの派手なシャツを様々に脳裏に思い浮かべて、その中におさまっている自分を想像する。悪い冗談にさえならない、とハインリヒは微かに首を振った。
 「アンタもいちいち、うるさいヤツだな。たかがシャツ一枚に。」
 「人生に対する、考え方の違いだな。」
 いつもの、皮肉っぽい口調で言い返してやると、ジェットは少しだけ鼻白んだような表情を見せると、
 「アンタの人生哲学に用はないね。」
 そう言って、弾みをつけて、ベッドから跳ね起きた。
 床に落ちた自分のジーンズに足を突っ込み---ハインリヒには、いまだに理解しがたいことに、この男は、時折、下着さえ着けないことがある---、ジェットは、部屋の隅のクローゼットの扉を開けて、中に首を突っ込んだ。
 ごそごそと、1分足らずの捜索の後、ジェットは、長い間ハンガーにかけられたまま、ろくに着たこともないらしい白いワイシャツを、見つけ出してきた。
 ほら、とそれをハインリヒに向かって放ると、まだベッドに戻って寝転んだ。
 ありがとう、と小さな声で言ってから、袖を通す。
 肩が、ほんの少し大きい。首回りは、あまりサイズは変わらないようだった。ただ、袖が長い。掌が、半分近く隠れてしまう。
 体の造作の違いを、そんなところに発見して、ハインリヒは少しだけ意外に思った。
 立ち上がって、部屋を出て行こうとすると、ジェットがまた声をかけてきた。
 「アンタ、どこ行くんだよ?」
 「バスルームの服を、どこかに掛けとかないと、まずいだろう。上着が、乾かない。」
 ああ、と、気の抜けたような声を上げて、ぱふん、とベッドにまた頭を落とす。
 なんだ、と思いながら部屋を出て、バスルームへ向かった。
 床の上に、脱ぎ捨てられて、しわだらけになった服のひとかたまりを腕に抱え上げ、その湿った冷たさに皮膚を粟立てる。ついさっき、ジェットと分け合った熱さを、ふと躯の奥に思い出した。
 肩を振り、つい捕らわれてしまう、薄い闇の中の熱のことを、思い出さないように用心しながら、ハインリヒは服をかける場所を探した。
 キッチンの椅子の背に、シャツと上着を掛け、それから、あまり濡れずにすんだ、下着とズボンに足を入れる。
 「ハインリヒ・・・」
 不意に、後ろから声を掛けられ、飛び上がるほど驚いた。
 「なんだ、いきなり。」
 また、思わず声が尖る。
 ベッドルームのドアのところに立って、何故か不機嫌そうなジェットが、こちらを見ていた。
 「なんでこんなこと、アンタにいちいち言わなきゃならないんだよ?」
 「ずいぶん絡むな、今日は。どうした?」
 「ひとりで出てって、よっぱらって、ずぶぬれで帰って来て、今はそんなカッコで、オレのシャツ着て・・・アンタ、自分がナニしてるのか、ほんとにわかってないのか?」
 「だから、何の話だ?」
 本当に腹を立てているのか、それとも、ハインリヒの髪や肩に触れることの延長で、口論のふりをしたじゃれ合いなのか、どちらとも見分けのつかない表情に、ハインリヒは、戸惑いを隠せなかった。
 ジェットは、ずかずかと大きな歩幅でハインリヒに近づくと、腕を伸ばして、ズボンを脱がせようとした。
 「何しやがる。」
 その腕を止めようとして、体をひねりながら怒鳴ると、ジェットが、耳のすぐ傍に、唇を滑らせた。
 「アンタ、知らないのか? 恋人のシャツを着る時は、それ以外、何も着けないのが礼儀だぜ。」
 礼儀、などという言葉をジェットの口から聞いて、その意外さに、ハインリヒは体の動きを止める。
 「脱げよ、下。」
 まるで、命令するように、ジェットは言った。
 なぜこの男は、こんなトーンの声を使うのだろう。静かな、威圧的な、それでいて甘く響く、声。そそのかすように、どこかの、隠された扉の鍵を、回す音。
 ゆっくりと、脳髄のひだに、染み込んでゆく、声と言葉。それの意味する、色合い。まるで、雨が、ハインリヒの体を濡らしたように、今は、ジェットにずぶ濡れになってゆく。
 逆らえない、とふと思う。
 ぎこちなく指先を使い、言われた通りに、着けたばかりのズボンと下着を、ハインリヒはジェットの目の前で脱いだ。
 ジェットのシャツに包まれて、そして今はジェットの目の前にいる。まるで、晒されるように。
 首もとはゆるく開き、肩は3cmほど、線が下にずれている。すそは、長すぎるようには見えないけれど、それでもふわふわと、体に頼りなくまとわりつく様が、サイズが合っていないことを、明らかにしている。
 そして、掌をほとんど覆ってしまっている、袖口。のぞく指先は、生身に見えるそれと、金属のそれ。今はまだ、硝煙の匂いが、消えていないかもしれない、機械の指先。
 ジェットは腰に両手を当て、そんなひとつびとつを、仔細に観察しているように見えた。
 不意に、何を思いついたのか、ハインリヒのわきをすり抜け、ジェットはキッチンへ入った。グラスに水をくみ、飲みもせずに、またハインリヒの前へ戻って来る。
 「アンタ見てると、オレ、四六時中、欲情してるみたいだ。」
 そう言ってから、グラスいっぱいの水を、ハインリヒの胸に、ばしゃりとかけた。
 声を上げて、よける間もなく、ここに戻って来た時のように、またシャツがびしょ濡れになる。
 濡れて、胸が、透けて見える。
 濃い灰色の、機械の右半身。そして、色素の薄い、皮膚の部分。冷たさに、思わず膚に鳥肌が立つ。
 濡れたシャツが、くっきりと見せる、裸よりも扇情的な、半裸。
 ジェットが、指を伸ばした。首から鎖骨に触れ、そこから、片方だけの、今は硬く尖っている胸の突起に、落ちてゆく。
 ひくりと、背骨の底が、揺れた。
 「オレばっか欲情してて、ずるいんだ、アンタ。」
 不意に子どもっぽくなる、声。切なげに、ジェットは言った。
 腕を引き、ハインリヒを、胸の中に取り込んで、ジェットは、重くため息を降りこぼした。
 「アンタ、頼むから、こんなの見せるの、オレだけにしてくれよ。でないとオレ、死んじまいそうだ。」
 他の誰と、こんなふうに躯を触れ合わせると言うのだろう。サイボーグなのに。機械のからだなのに。
 濡れて冷たいシャツが、ふたりの、合わせた胸の間で、少しずつ暖められてゆく。
 シャツのすそから、ジェットの両腕が入り込んでくる。片足を、立ったまま、抱え上げられた。
 ふたりを隔てているのは、いつの間にか、ジェットの、今は濡れてしまっている、白いシャツだけになっていた。
 ジェットの欲情を受け止める、機械のからだ。冷たいままの、金属のからだ。
 今は、闘うための防護服ではなく、愛しい男の肌を、一度は包んだはずの、何の変哲もない、白いシャツにくるまれている。
 濡れているのは、水のためではなく、他の何か、何なのか、よくはわからなかったけれど。
 ジェットの上体の重みを、背中をたわめてやり過ごしながら、ハインリヒは、ジェットの首に回した両腕の傍へ、すいと唇を寄せた。それから、自分の機械の指先に、シャツの上から、ぎりぎりと歯を立てた。
 雨がまだ、ふり続いていた。




どこが、ジェットがアルにさせたい色っぽいカッコなのかよくわかりませんが、とりあえず、恋人のシャツ、というシチュエーションが最近好みです。
白いシャツは、濡れると透けますね。ふふふふ(邪笑)。


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