Purple Haze



 暖かな指先を、頬に感じた。
 頬の線をなぞり、目尻の辺りに軽く触れて、閉じたまぶたを優しく撫でる。
 愛しげな、仕草。まるで、恋人の、それのような。
 ようやくうっすらと目を開けると、鮮やかな赤が、まだぼやけた視界いっぱいに広がる。
 頬を撫でていた指先が動きを止め、それから、穏やかな、囁くような声が、耳元に降って来た。
 「Hey, Beautiful。」
 声。もうすっかり声変わりをすませているはずなのに、どこかまだ、少年の甘さの残る、その声。
 目覚めたばかりの神経を、末端から柔らかくなごめてくれる、そのトーン。
 Beautiful、と呼びかけられて、ハインリヒは少しだけ眉をしかめた。
 美しい人? 一体朝っぱらから、何の冗談だ?
 朝の日を、機械の手を目の上にかざして避けながら、ハインリヒは少しだけ首を動かした。
 ジェットが、優しい瞳で、ハインリヒを見下ろしている。
 ベッドのふちに腰かけて、ずっと寝顔を見守っていたらしかった。
 ヒマな奴だな、相変わらず。口にはせず、喉の奥でそう言ってみた。照れ隠しの毒舌だと、もちろん自分でわかっていて。
 ようやく瞳を完全に開き、朝日の来る方向へ顔を振り向ける。カーテンの開いた窓は、すっかり陽の光に輝いて、気恥ずかしいほど鮮やかに、部屋の中を照らしていた。
 白い光に包まれた、ジェットの輪郭。赤く浮き上がる、髪。
 ああ、と意味もなく声をもらして、ハインリヒは、ようやく肩をベッドから浮かせた。
 もうすっかり身支度を整えているジェットが、一体いつ起きたのか、記憶にもない。ベッドが動いた時に目覚めなかったということは、夕べはよほど眠りが深かったらしい。
 その原因に思い当たって、少しだけ、きまりの悪い思いをする。
 その、きまり悪さの原因は、まだ視線の色を変えもせず、ハインリヒを見つめていた。
 愛しげな、まなざし。
 素直に、その視線に晒されれば、まるで太陽の熱にぬるんだ、海の真ん中に、穏やかにたゆたっているような気分になる。
 子宮の中の、羊水の海に漂う胎児は、こんなふうに具現化した愛に包まれて、優しい時間を過ごすのだろうか。世界のどこよりも、穏やかな場所。母の胎内。
 イワンは、覚えているだろうかと、ふと思う。羊水の中の記憶を、まだ持っているだろうか。いつか訊いてみようと思いながら、ハインリヒはゆっくりと体を起こした。
 ヘッドボードによりかかり、照れもせずに、まっすぐ自分を見つめ続けるジェットに、ハインリヒの方が頬を赤らめた。
 額に落ちかかる、乱れた髪をかき上げ、腕の影に視線を隠す。
 それから、言葉が浮かばない息苦しさをごまかすために、視線を、ジェットから反らすために、ハインリヒはわざとらしくならないように、煙草を探した。
 ベッドの傍のサイドボードに目当てのものを見つけ、手を伸ばす。
 自分の動きのひとつびとつを、ジェットが視線で追っているのを、左頬の辺りに感じた。
 「寝顔のアンタって、かわいいよなあ。」
 弾んだ声で、ジェットが言った。
 「死神をかわいい呼ばわりするのは、おまえくらいだ。」
 「アンタは、オレにとっちゃ天使だぜ。」
 「好きにほざいてろ。」
 煙草を唇にはさみ、ライターをはじいた。
 カチッカチッと、音は立てても炎は上がらない。
 これだから安物は、と舌を打ちながら、口の奥で呟くと、ジェットがポケットから、自分のライターを差し出した。
 それに手を伸ばそうとすると、ジェットが、自分でライターを鳴らした。
 明るい小さな炎に、両手を添えて、差し出す。
 あごを伸ばして、煙草の先を近づけると、ジジッと微かな音を立てて、先端に火がついた。
 ふと、縮んだ距離。触れそうに近づいた、手。鉛色の機械の手。生身に見える、指の長い両手。意外なほど近くにある、互いの唇。
 ジェットの視線は、相変わらず、ぴたりとハインリヒに当てられたままでいる。
 目の前にある両手を、なぜだか、思わず引き寄せたい衝動に駆られた。
 頬に血が上るのを、目の前のオレンジ色の炎のせいにしてくれればいいと思いながら、ハインリヒは、慌てて火から体を引いた。
 煙越しに、また絡まる視線。
 ジェットの長い指の感触を、躯の底に思い出して、ハインリヒは、狼狽の視線を、少しずらした。
 金属の指にはさまれた、白い煙草。茶色いフィルターに唇を近づけながら、まるで接吻のようだと、ふと思う。
 ジェットをよけて、煙を吐き出すと、ジェットが、うっすらと微笑んだ。
 「オレにも。」
 ハインリヒに向かってまた指先を伸ばす。
 視線で、サイドボードの上の箱を示すと、違うよ、とジェットはまた笑った。
 「アンタのが、ほしい。」
 その言い方が、夕べの口調と似ていたような気がした。思わず、ほしいのは別のものなのかと、錯覚したくなる。
 ジェットが、ハインリヒの手を取った。
 掌を引き寄せ、唇を寄せる。その指にはさまれた、煙草に向かって。
 紅い唇。髪と同じほど、緋い。
 微かに開いて、さっきまでハインリヒの唇が触れていたフィルターを、優しくはさむ。
 指の腹に触れる、ジェットの息。
 夕べの再現、とハインリヒは思った。唇が触れ、その息がかかったのは、もっと別の場所だったけれど。
 目を細めて、まだ自分の手に触れたままのジェットを、ハインリヒは見やった。
 また漂う、煙草の煙。
 ジェットが、すいと近づいてくる。
 目を閉じもせず、不意に接吻するジェットの、閉じた瞼を眺めていた。
 その首に、強く両腕を回し、引き寄せる。
 隔たりもなしに、重なる胸。煙草の匂いのする、接吻。まるで煙を吸い込むように、互いの舌を吸った。
 手探りで、腕を伸ばして、火のついたままの煙草を、ベッドの傍の灰皿へ置く。
 深くなる口づけを、もっと奥へ誘いながら、ハインリヒは、ジェットの下で体の力を抜いた。
 ジジと、小さな音を立てて、煙草が燃え続けている。




図々しく、コッペイさまに捧ぐ。
煙草をはさんだ、コッペイさまの24の愛の姿が脳天直撃。脊髄反射の如く、こんなものを書き散らすおバカが1名。
救いようのない、この愛を、受け取っていただけますか、コッペイさま?

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