Ready When You Are
「おまえ、いいかげん、自分の洗濯くらい、自分でしろ!」
フランソワーズに手渡された、ジェットの洗濯物を部屋に運んで、ジェットがそれを受け取った途端、ハインリヒは、怒ったようにそう言った。
イワンは仕方がない。ギルモア博士も、研究で忙しい。あまり賛成はしないけれど、恋人のジョーの洗濯を、フランソワーズがするのは、それなりに愛情表現と取れる。
でも、とハインリヒは思った。
おまえは、何なんだ。
ジェットは、きょとんとした顔をして、本気で、ハインリヒがなぜ怒っているのかわからない、という表情をする。
「おまえ、ガキじゃないんだから、いいかげん、自分のことくらい、自分でしろよ。」
ハインリヒは、もちろん自分のものは、自分で洗濯する。
ひとりで生きて来た時間が長いと、自分の体から離れた衣類に、誰かが触れるということに、実は少しばかりの嫌悪感があった。
鳥肌が立つほどいやなわけではないけれど、何か、自分の秘密を握られたような、そんな気分になる。
フランソワーズは、それを敏感に悟っているのか、ハインリヒが辞退すれば、無理に汚れた服を出せとは、決して言わない。
ジェットは、それとはまるで逆に、小言を言うのは、主にフランソワーズとハインリヒ---それから、たまにイワン---だったけれど、言っても言っても、行いを改める気配はない。
開けたら開けっ放し、使えば使いっ放し、脱いだ服をそこらに放っておいて、その後ろから拾って歩くのは、いつもハインリヒかフランソワーズだった。
ジェットの洗濯物をたたむのを手伝いながら、フランソワーズが、くすりと笑った。
アタシたち、まるでジェットの親みたいね。
心外だ、とハインリヒは、頬を染めた。
親はないだろう、せめて、姉か兄か・・・。
違うの、そうじゃなくて・・・フランソワーズが、言葉を探すように、首を傾げた。
大きくならない、子猫みたい。飼い主ってワケじゃないけど、保護者みたいかしら、アタシたち。
子猫? あの甘ったれぶりは、せいぜい生後2ヶ月ってとこだな。
皮肉を返すと、またフランソワーズが笑った。
いちばん可愛い盛りのまま、成長が止まってるみたいね。誰も、ジェットを嫌えないもの。
それ以上は、何も言わなかったけれど、フランソワーズの言い分に、ハインリヒは悔しさを交えながら、納得させられていた。
「なんだよ、いきなり。だって、フランソワーズが、やってあげるからいいって。」
家事の出来ない人間に、手出しをされると、教えるのに時間もかかれば、後始末に3倍手間がかかる。それを思えば、ジェットには、何もさせないのが一番安全なのだというのも、事実ではある。
それでも、せめて、感謝の意くらい、見えるように示せ、とハインリヒは思った。
「やってもらうなら、もらうなりに、手伝うとか、少しは考えろ。」
「だって、オレがいると、ジャマだって・・・」
確かに、邪魔だろう、と思ってから、ほら、またジェットに丸め込まれてる、とハインリヒは思った。
世話を焼くのが、きらいなわけではない。
ひとりでばかり生きて来て、初めて、誰かを庇護することの喜びを、知った。
求められている、頼りにされている、そう実感できることを、ありがたいと思った。
自分がいなくなれば、ジェットは、おそらく必死の形相で自分を探し回るのだろうと、ハインリヒは、うぬぼれでなく、思う。
求められることで、自分の存在意義を見出す。必要とされることで、実は自分が支えられている。
それが、精神的に健康なのかどうかはともかく、ふたりは、そんな感じに一緒にいた。
それでもたまに、こうしてジェットが、あまりにも甘やかされていること---甘やかしていること---に、危機感を抱く。
いつまでも、自分の世話をしてくれる人間を渡り歩くわけには、いかないのだから。
「・・・フランソワーズに頼まれた買い物に行くから、付き合え。」
まだ洗濯物を抱えたままでいるジェットに、短く言った。質問ではなく、命令の口調で。
ジェットが、ふえい、と気の抜けた返事をし、抱えた洗濯物をベッドの上に置く。
重なった洗濯物の中から、ジェットが、オレンジのシャツを取ろうとした。
せっかくフランソワーズが---正確には、ハインリヒが---きちんとたたんだ洗濯物が、くしゃりとベッドの上に崩れる。それを見て、右手に弾を込めていなくて良かったと、首を締めてやりたい衝動と闘いながら、ハインリヒは思った。
そのシャツを羽織って、ボタンをとめようとしたジェットの手が、途中で止まった。
「あれ? ボタンがねえや。」
シャツの前の、真ん中辺りを見下ろして、ジェットが頭をかいた。
フランソワーズが、いつもそうしているのを知っていたので、ハインリヒは、つかつかとジェットの傍へ寄り、胸のポケットに指を突っ込んだ。
「なんだよ?」
外に出て来た指先に、ボタンがひとつ。
「ボタンつけ、自分で出来るか?」
そんなわけがないだろう、と思いながら、訊く。
ジェットが、口をへの字に曲げて、肩をすくめた。
ああ、このガキは、まったく。
肩をつかんで、部屋から押し出した。
「キッチンに確か、針と糸があったろう。」
「知らねえ。」
「おまえ、俺たちがいなかったら、爪切りのある場所もわからないだろう。」
廊下を歩きながら、肩を小突いてやる。唇を突き出したジェットに、けれど、言葉に込めた皮肉の部分は通じない。
確かに、可愛げのない、子猫だな。
心にもない、そんなことを思ってみた。
リビングにいるフランソワーズに、一言声を掛けてから、キッチンの引き出しを開け、小さな箱に入っている、裁縫用の針と糸を見つけ出す。
手早く糸を切り、針に通し、その手際に見惚れているジェットに、正面から向き合った。
シャツの前を持ち上げ、ボタンをつける。
いつもの軽口もなく、ジェットが黙って、ハインリヒの手元を見下ろしていた。
そのうち、ジェットの服を全部出して、古いものは処分して、破れているところは直して、足りないものを買い足さなければ、と、また親のようなことを思う。
それを楽しんでいるのだと、心の中で、こっそりと白状しながら。
ふと、上目に見たジェットの目元が、なぜか赤い。
なんだ、と思いながら、裏に結び目を作り、糸を強く引いた。
はさみが見当たらないのを知っていたので、そのまま、ジェットの胸元に、口元を寄せる。
歯を立て、糸を切る。ぷつんと、音がした。
しっかりとボタンが着いたことを確かめると、ハインリヒは、針と残った糸を、引き出しにしまった。
ジェットは、たった今、ハインリヒがつけたばかりのボタンを、まだとめようともせずに、手に取って見下ろしたまま、まだ無言でいた。
その顔が、どうしてか赤い。
うつむいたままのジェットに、ハインリヒは、怪訝そうに、何か言おうとした。
それより一瞬だけ早く、ジェットがぼそりとつぶやく。
「・・・・・・買い物、すぐ行かなきゃ、いけないのか?」
いや別に、とハインリヒは答えた。
また、ジェットが数拍黙る。
「じゃあ・・・・・・オレの部屋に、アンタ連れてっても、いいか?」
小声で、ジェットが訊いた。
ジェットの言った意味を反芻してから、ハインリヒは、遅れた反応を返した。
呆気に取られながら、首筋から血をのぼらせ、ここがもっと別の場所だったら、その横つらを張り倒してやったのに、と思う。
何を一体、言ってやがるんだ、このガキは!
ふたりで揃って頬を染めて、上目使いに互いを見ている。
「・・・アンタが、そんな手つきで、そんなことするから・・・おまけに、そんなとこに、口持って来て・・・」
ジェットが、言い訳にもならない繰り言を、ぶつぶつとつぶやいた。
胸の前で、ボタンをつけるハインリヒの手元を見下ろしながら、ジェットが考えていたろくでもないことに、ようやく思い当たる。
「なあ・・・」
おずおずと、ジェットがまた言った。
ジェットを見たまま、ハインリヒは、声を上げた。
「フラン、買い物は、夕方近くになっても、かまわないんだろう?」
リビングの方へ、声を飛ばすと、フランソワーズの張り上げた声が、返って来た。
「ええ、お店さえ開いてれば、いつでもかまわないわ。」
その答えに、いきなりジェットの瞳が輝く。
可愛い盛りに、成長を止めてしまった子猫。
確かに、その通りだと、ハインリヒは思った。
ふたりで一緒に、駆け出すように、キッチンを出た。
ジェットの部屋のドアを、閉める間ももどかしく、明るい部屋の中で、ふたりで床に倒れ込んだ。
「せめて、ベッドにしないか?」
返事はなく、歯のぶつかる無粋なキスが、代わりに降ってきた。
もどかしげに、手をあちこちに滑らせ、ジェットが、焦れたように、オレンジ色のシャツの前を引っ張った。
ぷちっと、小さな音がして、ふたりとも、その音に、動きを止める。
はじけて、取れてしまったボタンが、ハインリヒの胸の前に落ちた。
ジェットが、しまった、と言う顔をして、ハインリヒを見る。
ボタンを拾い上げ、
「おまえ、まさか、わざとやったわけじゃないよな?」
ジェットが、泣きそうな顔で、首を振った。
「・・・・・・世話の焼けるヤツだな。」
取れたボタンを、シャツの胸ポケットに入れてから、ハインリヒは、自分からジェットを引き寄せた。
ほんとうに、手間のかかる子猫だ、と思いながら、シャツのボタンを、ひとつひとつ外す。
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