RED MONSTER



 何故、ふと視線を止めたのか、わからなかった。
 何かが視界の隅をよぎり、それが彼の足を止めたのだけれど、その何かを見つけた時、彼は、自分自身で頭をひねった。
 よくある、人の行き来の多い通りの、ショーウインドウのひとつ。何の変哲もない、数多い中のひとつというだけのもの。そこに、彼の興味を引くもの、彼に関わりのあるものがあるとは、最初はどうしても思えなかった。
 大きなおもちゃ屋の、ショーウインドウ。3歩分後ろにある、両開きのガラスのドアは、2分置きに開いたり閉まったりしている。もちろん、出入りしているのは、子どもか、子どもを連れた大人たちだった。どの顔も、笑みをたたえて。
 ふん、と彼は肩をすくめて、また、彼の視線ととらえたそれを、正面に見据えた。
 真っ赤な、ぬいぐるみ。ふさふさと、柔らかそうな毛にくるまれた、とりあえず人に近い形をした、人形。大きな瞳、大きなオレンジの鼻、大きな頭とやや小さめの体、そして、細く長い、両手と両足。
 何だったっけな、これは。
 見覚えがあった。確か、記憶の中では、この人形は動いて喋っていた。
 30秒ほど考えてから、不意に思い出す。
 「セサミ・ストリートだ。」
 思わず声に出してしまってから、慌てて周囲を見回す。誰も、彼の呟きを耳に止めなかったらしい。安心してから、またその人形に視線を戻す。
 子どものための番組。彼自身は見た記憶がない。彼がいた頃、あちら側のドイツでは、もちろん西側の情報は一切遮断されていたし、そもそもテレビは、普通の家庭には贅沢品だったので。
 今だって、ろくにテレビを見もしない彼が、その番組のことを知っていたのは、彼が今一緒にいるアメリカ人のせいだった。
 あ、と今度は、声にならない呟きが漏れた。
 不意に、どうしてこの人形に足を止める羽目になったのか、彼は悟った。


 サイボーグ004として請け負った仕事が、思いのほか厄介で、予想以上に手こずったその上に、爆弾処理に失敗して、背中の一部と右足を吹き飛ばされたのは、4ヶ月ほど前のことだ。
 南米の、テロリスト・グループの基地のひとつを破壊してくれと、ギルモア博士に、メキシコ政府から内密に依頼が来た。
 大きな仕事ではなく、長引く様子もなかったので、ギルモア博士は近くにいるサイボーグたちにだけ連絡を取り、002、004、005、007の4人が、テキサスで秘密裏に合流し、そこからメキシコへ潜入した。
 基地とは言っても、規模は小さく、ただ密林の真ん中に位置するため、正規の軍隊を出動させるのは金も手間もかかり過ぎる。言わば、サイボーグたちは、傭兵として雇われたようなものだった。
 基地に辿り着いてみれば、思いのほかガードが固く、政府から受け取った情報も最新の代物とは言えず、結局サイボーグたちは、自分たちで必要な情報を集めなければならなかった。
 警備の位置、基地内の人数、部屋の位置、書類の所在は、007がグループのひとりに化け、内部から情報を流してくれた。
 ひとつ気掛かりなのは、と007は、皆の顔を見渡した。
 「最重要書類が入ってる金庫は、どうやら爆弾付きらしいぜ。動かそうとか開けようとかすると、ドカン、とくる。」
 「うれしいプレゼントだな。クソ、ご丁寧なこった。008がいりゃ、爆弾処理なんざ、へでもないのに。」
 002が悔しそうに舌打ちする。
 彼の口の悪さに、005が微かに眉をひそめ、一言言ってやれ、とでも言うように004を見た。
 それに苦笑いを返し、
 「今さら、アフリカからヤツを呼んでる時間はない。俺たちでとにかく何とかするさ。」





 夜明けとともに仕掛けた攻撃は、うまく行った。密林に逃れようとした連中を追いかけ捕まえるのが、ひどく面倒だったことを除けば、何もかもほとんど作戦通りに事は運んだ。
 予想外だったのは、例の金庫に仕掛けられた爆弾が、007の報告以上に複雑に設置されていたことだった。
 小さな幾つかの箱が、金庫のあちこちに括り付けられていて、そのどれもが、本物の爆弾らしく見えた。目くらましのための、余分なワイヤーがあちこちから伸び、そして様々な方向に繋がっている。一目見ただけで、素人の手には負えないことが明らかだった。
 「で、最悪なことに、これが今度の仕事の目的と来たもんだ。」
 心底うんざりしたように、002が苦々しく呟く。
 「グチっても仕方ないな。動かせないなら、取り除く以外ない。」
 3人が、捕まえたテロリストの連中を政府が指定した位置まで連れて行く間、004はひとりで爆弾処理をすることにした。書類が手に入り次第、後を追う。002の言う通り、ここにある書類を手に入れるのが、メキシコ政府の目的だった。爆発を怖がって、書類を残して行くわけにはいかなかった。
 「アンタひとりで、大丈夫か。」
 心配そうに、002が訊いた。
 「ひとりの方が気が散らんでいい。それより、連中を引き渡すまで、勝手な行動なんか取るなよ。」
 金庫の前に座り込み、もう仕事にかかろうとする004の背中に、立ち去る前に、じゃあ後で、と002は言った。
 面倒な作業だった。一本一本のワイヤーに触れ、行方を辿り、ダミーであることを確認してから、切断する。ダミーと確実に確認できたのは、それでも半分きりだった。
 箱の外を軽く叩き、音を聞く。ワイヤーの色に従って、安全そうなものから、ゆっくりと切断してゆく。
 「アイツの言う通りだったな。」
 思わず、ひとりごちた。
 008がいれば、半分以下の時間ですんだに違いないと思う。いや、彼なら、一目でどれが本物で、どの線を切れば安全か見抜いてしまったかもしれなかった。
 「ま、今度の時は、ちゃんとアイツにも声を掛けるさ。」
 作業の単調さに、思わずひとり言が漏れる。けれど緊張で、こめかみの辺りの皮膚がつっぱるような気がする。
 3人は今、どの辺りだろう。連中を引き渡すまで、何も起こらなければいいが。特に、あのはねっかえりが、仕事が済むまで大人しくしててくれりゃいいが。
 不意に、暖かいシャワーとベッドが恋しくなった。煙草と本。それに暖かいお茶。静かな居間で、誰にも邪魔されず、本を読む。傍で、彼が、はねっかえりの彼が、できるだけ004の邪魔をしない努力をしている。いつもその努力が、成功しているとは言い難いけれど。
 そんな時間が、今は果てしもなく遠い。密林の奥でひとりきり、004は爆弾と格闘している。静かな日常を、ふと懐かしいと思いさえする。





 ようやく、すべての箱の外側を、外し終わった。
 明らかに本物が、ふたつ。さてと、と004は小さく息を吐いた。
 さらに慎重に、ワイヤーに触れる。額に、知らずに汗が浮いた。
 ぶつりと、音を立てて、ワイヤーが切断され、その後に続く静寂に、004は思わず大きく息を吐き出した。
 金庫の、冷たい扉に耳を押し当て、正しい数字を探すために、音を聞く。今終わったばかりの爆弾処理に比べれば、ずっと易しい作業だった。
 ついに重たい扉が開くと、書類の束がそこに見えた。
 「手間かけさせやがって。」
 それが、目的の書類であることを確かめようと、黄ばんだ紙の上に視線を落とした時、004はその音を聞いた。時計が時を刻むような、音。
 音の所在を確かめようと目を上げると、暗い、巨大な動物の、大きく開けた口のような金庫のいちばん奥に、銀色に鈍く光るものが見えた。色とりどりのワイヤーの付属した、それ。
 「クソッ。」
 短く叫んで、書類を胸に抱え、逃げるために体をひねる。紙の束をかばう形で走り出そうとした時、爆発が起こった。
 部屋がひとつ全壊した程度の爆発だった。もちろん普通の人間なら、体中吹き飛ばされてバラバラになったに違いなかったけれど。
 部屋を出た辺りの、廊下の壁に叩きつけられ、けれど意識ははっきりしていた。
 金属の焦げる臭い。体から漂う煙。胸の前にしっかりと抱え込んだ書類は、けれど焼け焦げも見えず無事だった。
 機械の方の腕が動かない。そちら側の肩の後ろから腰にかけて、バチバチと電気系統の部品がショートする音がする。
 「チクショウ。油断しやがって。」
 自分に対して、憎まれ口を叩いてみる。その程度の元気があるのが、今は何より救いだった。
 とりあえず体を起こそうとして、足が動かないのに気付く。顔をそちらにねじ向けると、吹き飛ばされて、半壊した右足が見えた。
 今度こそ、心の底から自分を罵った。
 「ちくしょうっ!」
 書類を手に入れたら、ここを破壊するはずだったのに、これでは身動きさえままならない。それでも、何とか体を起こし、壁にすがって座った。動く方の腕で、防護服の前を開け、そこに書類を入れた。これで少なくとも、失くす心配だけはない。もし、所定の場所へ辿り着ければ、の話だったけれど。
 ねじれ、ひしゃげた金属が見える。右足の、あったところ。命に別状はなくても、修理してもらえるにしても、壊れるというのは、いつもあまり気分のいいものではない。血の代わりにオイルが流れ、血管の代わりに特殊繊維のワイヤーがぶら下がる。骨のあるべき部分に太い金属があり、筋肉のふりをした人工の組織が、ズタズタに引き裂かれている。
 溜息が出た。醜悪な自分の体。破壊され、今はさらに醜い眺めを晒している。
 ちくしょう、ともう一度呟いた。今度は少しばかり、気弱な声音で。





 どれほどの間、そうして座り込んでいたのか、ようやく004は、壁から背中を離した。
 自由に動く方の腕と、残った左足で、床をゆっくりと這い進む。体を引きずりながら、力なくついて来る右足の残骸から流れ出たオイルが、床に長い細い染みを残す。
 出口を、記憶に頼って捜しながら、自分の情けない様に、舌を噛みたい気になる。
 ひとりで良かったと、不意に思った。
 こんな惨めな姿を、誰の目にも晒す気はなかった。耐えられないだろうと思った。
 壊れた体。怪我ではない。傷ついてはいる、けれど。怪我ではない。壊れているだけだ。まるで、機械のように。
 そう、機械のように。
 惨めな、役立たずの機械。壊れて、修理が必要な、機械。血の代わりにオイルの染みにまみれ、別の金属がはめ込まれるのを、静かに待っている。機械。
 いやな思考だ。
 出口に近付き、陽の光が見えた。ようやく草の生えた地面に体を投げ出すと、冷たい、けれど柔らかな植物の感触に、004は力尽きたように目を閉じる。
 自分と正反対の存在。彼らは生きている。機械ではない。生き物として。彼らは体温を持ち、呼吸をしている。死ねば、土に還ってゆく。
 俺とは違う。俺は機械だ。俺は死なない。壊れるだけだ。土にも、還らない。
 いつもはうまく隠している、自分を否定する声。それが、今はやけに大声で喋っている。
 機械だ、それがどうした。機械で何が悪い。004は言った。
 人殺しのくせに、と声が返事をした。人殺しの機械のくせに。
 人を殺すための機械。武器だらけの体。それがおまえだ。
 俺が自分で望んで、こんな体になったんじゃない。
 じゃあ、その武器で自分を殺したらどうだ。そうすれば、おまえはもう、人を殺す必要がなくなる。
 俺は死にたくない。生きたい。死にたくなんかない。
 おまえは死なない。機械は死なない。ただ、壊れるだけだ。壊れて錆びついて、捨てられるだけだ。おまえはここで、こうして壊れたまま、動かないまま、錆びついてゆく。壊れた機械は、見捨てられるだけだ。
 もう、怒鳴り返す力もなかった。声が、正しいことを言っているような気にさえなる。そうか、俺はここで見捨てられるのか。壊れた機械。それだけのこと。
 その時。
 声を聞いた。自分の内部からの声ではなく、聞き慣れた、どこか高いところから聞こえてくる、自分を呼ぶ声。
 その声は、彼を、サイボーグのナンバーではなく、彼の名で呼んだ。彼が人間の時に持っていた、人間の名で、呼んだ。
 「アルベルト!」
 うっすらと、目を開ける。熱い空気を背中の上の方に感じ、誰かが、すぐ傍に降り立った。影と気配と、足音。
 手が、肩にかかる。抱き起こされ、軽く揺さぶられた。
 「・・・ジェット。」
 歪んだ人の形。ぼやけた視界。唇だけを必死で動かした。
 「胸騒ぎがして、アンタの声が、聞こえたような気がしたんだ。」
 「勝手な行動はするなって・・・」
 「そんな御託、並べてる場合かよ。」
 彼の声が震えている。自分の醜い体が、壊れた機械の体が、彼を怯えさせているのだろうかと、思う。
 「・・・見るな、こんな様、頼むから。」
 声が、かすれた。動ければ、今すぐ姿を消せるのに。指一本動かせず、よりによって彼の前に、こんな惨めな姿を晒している。
 「今すぐ飛ぶ。黙ってろよ、頼むから。でないとアンタ、舌噛んじまうぜ。」
 両膝の下に腕を差し入れ、002は004を抱き上げた。しっかりとその重い体を抱えて空へ飛び上がり、出来る最高速で、密林の上空を横切り始めた。
 頬に当たる風の冷たさに、不意に現実に引き戻される。
 聞こえるのは、風の音と、002の、空を飛ぶ噴射の音だけだった。そして、微かに遠く、彼の心臓の音。
 生きている、と思う。こんな惨めな姿を晒していても、生きているのだと、思った。生きて、今、彼の腕の中にいる。助かったのだと思った。
 それきり、思考は途絶えた。


 目覚めた時には、固いベッドの上にいた。修復作業やメンテナンスの後にいつも横たわる、ギルモア博士の自宅の、地下室にあるベッド。
 「目が覚めたかね。」
 001を、赤ん坊のイワンを抱えた博士が、優しく微笑んでいた。
 ミンナ、シンパイシテルヨ。
 頭の中に、001の声が響く。
 001が呼んだのか、2分もしない内に、わらわらと、3人がドアの向こうに姿を現した。
 「よう死神、気分はどうだい。」
 007の、ひしゃげたピッチの高い声が、金属質の硬い部屋の壁に、ことさら滑稽に響いた。
 腕を動かしてみる。異常なし。指も動く。右足も、以前のように、今はシーツの下にあった。
 005は無言のまま、それでも口元に微かに、良かったな、とでも言いたげな表情が見える。
 そして、彼の大きな体の影から、赤い髪が顔を出した。
 「よォ・・・」
 目覚めて、初めての声を出す。
 自分を抱えて、恐らく長い距離を精一杯飛んでくれた彼に、出来るだけの感謝を込めて。
 「死神が死にかけてりゃ世話ないぜ。まあ、もっともおまえさんのおかげで、我々は無事任務を遂行できたってもんだ。」
 007の、いつもの流れるようなお喋りが、まだ少しどこかをうろついている意識を、しっかりと現実にとどめてくれるように、思えた。
 ミギアシノハソンガ、スコシヒドカッタケド、モウダイジョウブダヨ、004。
 ありがとうと、004は頭の中で返事を返した。
 「さて、もう少し休んだ方がいい。我々は退散するよ、004。」
 ギルモア博士の促しに、それぞれがねぎらいの言葉を口にして、それでも名残惜しげに、部屋を出て行こうとした。
 002、と、自分に向けられた背中のひとつに、去ってしまう前に、思い切って声をかける。
 振り向いた彼は、足を止めて、
 「もう少し、ここにいてくれ。」
 そう言った004に、素直に嬉しそうな表情を見せた。
 ベッドの端に腰掛け、少しばかり潤んだ目で、002は004を見下ろした。
 今は動く機械の腕を、シーツの上に出すと、002がそっと握ってきた。掌の皮膚と、指の絡まる感触。互いにものも言わず、ふたりは重なった両の掌を見下ろす。
 「アンタには、いつもヒヤヒヤさせられる。」
 小さな声で、囁くように、002がようやく口を開いた。
 ああ、そうだな、と004は素直に答えた。
 沈黙を分かち合いながら、けれど002の唇は、何か言いたげに、ずっと微かに動き続けている。
 なあ、と彼が言った。
 「ギルモア博士が、アンタ、しばらく休んだ方がいいって。ここにいるってのも手なんだろうけど、アンタがいやじゃなかったら、オレのとこに、アメリカに一緒に来ないか?」
 まさか、と鼻で笑おうとして、ふと、まともに訪れたこともない、彼の街を、脳裏に浮かべた。
 賑やかな街。世界の中心。人種のるつぼ。忙しく行き交う人たち。忙しすぎて、恐らく彼らは、004の機械の腕に、気づきもしないかもしれない。
 楽観的な、そんな想像が我ながらおかしくて、004が喉の奥で笑った。
 「なんだよ、オレがこんなこと言い出すのが、そんなにおかしいのか。」
 彼のムキになった表情が、また次の笑いを誘う。
 違う、と訂正してから、それでも004は、しばらくひとりでくつくつ笑い続けた。
 「あんな、みじめったらしい様晒したくせに、直ったら、もう自分がどんな様だったか、忘れちまってる。ノンキなもんだ。」
 笑いながらふと見上げると、002の、ひどく静かな瞳の色に出逢った。
 004の機械の掌を持ち上げ、彼は自分の頬に添わせた。唇に近く、まるで、そこに口付けでもするように。
 「アンタが無事なら、オレは、それだけでいい。」
 大人びた、深い静寂の色の瞳だった。自分の罪を許してくれる、神という存在の目の前にいるような、そんな気がした。その瞳の中に映る、小さな自分。また許されたのだと、ふと思った。


 ニューヨークに着いて最初にやったことは、002の部屋の掃除だった。
 彼の散らかしぶりはとっくに承知の上だったけれど、仲間たちとの共同生活ではなく、完全に彼のひとり暮らしというせいなのか、大して家具もない部屋の中に、ありとあらゆるものが散らばっていた。
 汚れた服、ジャンクフードの残骸、煙草の吸い殻とビールの空き缶。
 「よくおまえ、こんなので俺に休みに来いなんて言えたな。」
 隣の部屋に、掃除器を借りに行くように言いつけて、ついでにそう付け加えてやる。
 リビングと、テーブルを置いたキッチン、ベッドルームには、クイーンサイズのマットレスが直接床に置いてあった。
 ようやく部屋をきれいにして、ふたりでビールを開ける。窓を開けると、建物の裏側にあたるそちら側には、同じような低い建物が続いていた。
 ふたりとも、汗と埃にまみれていた。シャワーを一緒に浴びようと、002が、ジェットが言った。
 ふたりの他には誰もいない。仲間たちと、今は一緒ではないから、好きに声を上げればいいと、彼がそそのかす。
 皮膚を打つ水にまぎれて、止めようとするアルベルトに構わず、ジェットの手が伸びて、するりと彼に触れる。まるで、ここに彼がいるのが真実なのだと確認したいとでも言うように、ジェットは執拗に指を滑らせてくる。
 喉が反った。痛いほど。
 あごから胸に、そして腹とそのもっと下へと、水の流れにつれて、ジェットが体をずらせて行った。もう、逆らわなかった。
 シーツを替えたばかりのベッド---と呼べるなら---の上に倒れ込みながら、ジェットの掌が、もう遠慮もなしに、あちこちに触れる。音を立てないようにと、する気遣いも、ここでは必要ない。
 近くに、これ以上近くにはなれないほど、ジェットが体をすり寄せてくる。
 彼らしくもなく、ゆっくりと、まるで壊れものでも扱うように、穏やかに躯を繋げにくる。そっと、ドアを叩くように。
 ジェットの、赤い髪に触れた。燃えるような色の、赤みがかった髪。
 声が、漏れた。
 ジェットが頭を抱え込み、今はもう自制もなく、しゃにむに動き始める。首の後ろに当たる彼の肘の、人工の骨の硬さ。思わずアルベルトは、ジェットの背中に両腕を回して、必死にしがみついていた。そうしなければ、際限もなく叫んでしまいそうだったので。
 始まりのゆるやかさが、嘘のように、ジェットは性急に動いた。まるで、我慢できないとでも言うように。
 重なった胸が、呼吸の激しさに大きく上下する。
 必死に、ジェットに合わせて、体の力を抜こうとするけれど、彼のせわしさに、足の内側の筋肉が、そうと知らずに硬張っていた。
 不意に、くたりと、ジェットが上で弛緩した。
 躯を外し、どさりとベッドの上に大の字に寝転がる。はあはあと、呼吸だけはまだ、激しいまま。
 浅い呼吸の合間に、ごめん、とジェットが言う。
 「バカ、殺す気か。」
 微かな、体の奥の痛みが、声にとげを含ませる。怒っているわけではないけれど、ジェットに合わせられなかった自分に対する、少しばかりの罪悪感と、彼に対する照れは、確かにあった。
  まだ充分に明るい部屋の中で、無防備に晒されたジェットの裸の体が見える。
 どちらかと言えば、肉の薄い、手足の長いからだ。アルベルトのそれに比べれば、まだしも人間らしく見える、からだ。
 どんなに昂ぶっても、機械の部分は熱くはならない。どんなにジェットの皮膚が熱くなっても、それで暖まることもない。ジェットが何を自分に求めているのか、時折ふとわからなくなる。
 黒光りする自分の上半身を眺めながら、抱き人形にしては少々物騒すぎると、自虐的に思った。
 ジェットがようやく体を起こし、ひざを抱えてベッドの上に座った。
 「悪かったよ、アンタがここにいるって思ったら、歯止めが効かなくなっちまった。」
 アルベルトの傍に横たわると、胸の前に腕を伸ばしてくる。
 「アンタはどうだか知らないけど、オレはここでひとりで寝るのは、けっこうつらかった。」
指の長いジェットの掌に、冷たい機械の掌を重ね、指を絡ませる。ジェットが、しっかりと握り返してきた。
 「アンタのこと、思い出しちまうんだ。ここからじゃ、ドイツは遠いし、仕事でもなけりゃ、オレたちバラバラだし。」
 体を引き上げて、アルベルトの胸の上にあごを乗せ、前髪越しに見える瞳の色は、髪の色とは対照的に、淡いみどり色だ。
 空いた方の手で、ジェットの髪を撫でると、犬か猫のように、ジェットが目を細め、今にも喉を鳴らしそうに見えた。
 「俺なんかとどうしようと、面白くも何ともないだろうに。女みたいに優しいわけじゃなし、他のヤツらみたいに、人間らしい感触があるわけじゃなし。」
 硬い、アルベルトの胸と腹に、ジェットが頬ずりする。
 「アンタがどう思ってようと、オレはアンタがいい。アンタは、自分の体が好きじゃないのかもしれないけど、オレは、アンタの全部が好きだよ。アンタが、好きだよ。」
 たたみかけるように言うジェットに、アルベルトは、素直に照れを頬に刷いた。返す言葉も思い当たらず、結局のところ、気に効いた事ひとつも言えずに、沈黙を選ぶことになる。いつものように。
 言葉の代わりに、大きく息を吐き出した。ジェットの髪を撫でる掌は止めず、ありがとう、と口にする代わりに、指先に語らせようとでもするように。
 不意にジェットが体を浮かせ、指を絡ませたままでいたアルベルトの機械の手を、そっと導く。
 「ほら、わかるだろ、アンタのこと考えてるだけで、こんなになっちまうんだ。」
 その手を振り払うことも、出来た。けれど指に触れるジェットは、確かにまた熱を帯びて形を変え始めていて、それが奇妙に愛しくて、アルベルトは、そこに口付けさえしてもいいと、ふと思う。
 もちろんそれを素直に口に出来るわけもなく、意志に反して、頬にさっと血が上った。
 「おまえ・・・」
 何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。思い出そうとする間もなく、ジェットが、口付けてきたので。
 「今度は、もうちょっと優しくするから・・・」
 ジェットの意図の先を悟って、慌ててアルベルトは怒鳴った。
 「いいかげんにしろ、病み上がりの、時差ボケ野郎相手に、何考えてやがるっ。」
 「だって、アンタのせいだ。」
 臆面もなく、ジェットが言い放つ。
 ジェットの瞳の色に、一瞬に拒む気も失せ、静かに顔を横に向けると、目を閉じた。
 「好きにしろ、バカ。」
 憎まれ口だけは、それでも忘れずに。
 ゆっくりと、最初よりも、もっとゆっくりとジェットが始めるのに、アルベルトは、おずおずと彼の背中に両腕を回して応えた。
 「アンタが好きだよ。」
 もう一度、ジェットが耳元で囁くのが、聞こえた。


 家具と持ち物の、あまりの少なさに、少しばかり驚いた表情を見せると、ジェットはあっさりと、
 「こんな治安の悪いとこで、下手に強盗でも入られたら、全部おじゃんだろ。オレみたいな浮浪者上がりは、手に持てる以上のモノなんかなくったって、別にいいんだ。」
 そういうものの考え方もあるのかと、アルベルトは半ばあきれたけれど、ものが少ないことには慣れっこだったので---彼の場合は、物資がない故だったのだけれど---、文句を言う気はなかった。
 浮浪者のための団体で、ほとんどボランティア同然に働いていて、収入は、年に何度か舞い込む、サイボーグとしての彼に対する依頼へのたまの報酬に頼っているのは、アルベルトと似たり寄ったりだった。
 お互いに、気楽な身と言えば、言えたかもしれない。
 ままごとのように、生活を共有して、互いの世話を焼く。
 部屋に戻れば、たいていどちらかがいる。ただいまと言えば、おかえりと返って来る生活が新鮮なのは、どちらにも同じことだった。
 すべてに無関心のように見えるこの街では、アルベルトに不審な視線を投げる誰も、そうはいなかった。
 ひとりでここで暮らそうとは、まるで思わなかったけれど、ジェットが傍にいる限りは、それなりに居心地の良い場所と言えた。
 図書館と、外国語の書籍を扱う本屋が、アルベルトの居場所になった。
 規制の厳しいあちら側のドイツでは、読みたくても手に入らない本が多い。長い間、手に取ることを夢にまで見ていた本が、無造作に棚に並べてあるのを見つけるたび、ジェットのこの誘いに、アルベルトは心から、秘かに感謝する。わざわざ口にすることは、そうなかったけれど。
 朝は、寝起きの悪いジェットを起こし、シャワーを浴びさせ、朝食を食べさせ、仕事に送り出す。雑用を片付けた後、今度は自分のために外へ出る。図書館へ向かうのが常だった。午後一杯を、本の山に埋もれて---ニューヨークにある図書館の数は、恐らく東ドイツ中にある図書館の数より多いに違いなかった---過ごし、夕方、なるべくジェットが帰る時間までには、アパートへ戻る。夜は夕食と一緒にする皿洗い、アルベルトには読書の続きと、ジェットにはテレビの時間。
 ジェットの日常に組み込まれ、彼と自分のために、世話女房的役割にはまり込むのに、それほど抵抗はなかった。嫌がらない自分に一番驚いていたのは、アルベルト自身だったけれど、それでも結局は、得意な分野なら、自分がやった方が手間も時間もかからないという、合理的精神が一番の理由らしかった。
 寝る時間になれば、当たり前のように、ジェットが腕を伸ばしてくる。たまに、やんわりと丁重にお断り願うこともあったけれど、ジェットに躯が慣れてしまうと、ふと昼間にも、人肌恋しい気がするのが、我ながら現金だとも思う。
 密林で、爆弾処理をしながら恋しく思った生活が、ここにあった。束の間の、自分は住人ではなく、ただの旅行者なのだと、常に頭の隅で、自覚はしていたにしても。


 店に入ると、子ども連れか、少なくともふたり連ればかりの店の中で、所在もなさげに、アルベルトは肩をすくめ、ポケットに両手を突っ込んだまま、目当てのものを視線の先に探した。
 比較的目立つ辺り、レジのすぐ近くの棚に、それはあった。
 店の奥に入らなくてすんだのを幸いに思いながら、アルベルトは足早に棚へ近づき、5つ6つ並んだ人形の中から、ひとつを選び出した。
 手にしてみれば、思ったよりもかさのある、赤い人形。指先にぶら下がるタグに、エルモ、とそれの名が示してある。
 ジェットに似ていると、思ったのだ。
 人の形に似た、真っ赤な毛にくるまれた、セサミ・ストリートのモンスター。大きな鼻も、ひょろ長い手足も、笑っているように見える口元も。
 愛しいと思う。彼を。口にしたことは、まだないけれど。一緒に過ごす間に、彼のためにしたいと思うことが、自分の中で増えつつあるのを、アルベルトは自覚していた。
 ひとりには慣れっこだったはずなのに、昼間、薄暗い図書館の隅で、ひとりで本を呼んでいる時など、ふと、ジェットがここにいて、その髪に触れることが出来たら、と思うことがある。
 夜、ひとり目覚めて、眠っているジェットのその背中に、ふと胸を重ねていくことさえある。
 悪い変化ではない、決して。けれど、ジェットのいない時間を、恐怖することが、心から恐ろしかった。
 だから、ジェットが、アパートを移る話を持ち出した時、あんなにもうろたえたのだ。
 ふたりのために、もう少し治安がましな場所へ移ってもいいと、ジェットが言った。治安云々よりも、それがふたりの生活---これからもずっと続くという前提の---のためなのだと、アルベルトは即座に悟った。
 それはやめた方がいい。もし、俺のためなら。
 もうすぐ、ドイツへ帰るつもりだと、付け加えるのも忘れずに。
 ジェットは明らかに落胆した表情で、その話をそこで打ち切ってしまった。不自然なほど、あっさりと。
 彼には理解できないのかもしれない。ここは確かに、よそ者だろうと、無視に近い静かさで受け入れてくれる。けれど、ここはアルベルトの国でななかった。言葉も違う。気質も違う。彼がここにいるのは、単純にジェットのためなのだと、そう言えば、恐らく、ジェットは素直に納得もするだろう。けれどそれを口にするには、アルベルトは大人すぎたし、何よりまだ、照れがあった。
 口にしてしまえば、何と言うこともない、言葉の数々。けれど、口にしてしまえば、底なしに陳腐になりそうで、その陳腐さのレベルに、アルベルトのプライドは、とても耐えられそうにない。
 人形を抱え、数瞬思案した後、ことさら厳しい表情で、レジへ足を運んだ。
 一体自分が今何をしているのか、あまり考えたくもなかった。
 レジにいた若い女性が、いかにも、この場所に不似合いな仏頂面の客に、別に不審そうな顔も見せず、いたってビジネスライクに対応してくれたのが、何よりありがたかった。
 彼女が、ごそごそと、店の名入りの袋に、その赤い人形を入れようとした時だけ、それを断るために、アルベルトは口を開いた。
 人込みの中を、そんな子どもっぽい人形を抱えて、アパートまで歩いて帰るのが、素直になれない自分に対する罰のように感じていたので。
 小さな子どもほどの大きさのエルモを---ジェットの代わりの---、しっかりと抱えて、アルベルトは店を出た。
 人込みの中に、また足を踏み出しながら、そうとは知らずにほほえみを浮かべて。


 いつものように、騒々しく帰って来て最初にするのは、靴と服を脱ぎ散らかし、ソファに飛び込むことだった。
 そこにすでにアルベルトがいれば、彼の膝に顔を埋めて、口早にその日1日に起こったことの報告を始める。
 今日はまだキッチンにいて、夕食の準備に余念のないアルベルトの背中に、ジェットの声が飛んで来た。
 「どうしたんだよ、これ。」
 キッチンから首を伸ばすと、ジェットが膝の上に、あの赤い人形を抱いていて、不思議そうにアルベルトの方を見やった。
 「セサミ・ストリートのRed Monsterだろ、どっから来たんだよ、こいつ。」
 「エルモって名前じゃないのか?」
 「そんな名前だったっけ?」
 そんなことより、とジェットは言った。
 「どうしたんだよ、アンタがこんなもん持って帰るなんて。」
 本人を目の前にして、まさかおまえに似てたから、とも言えない。さて、どう説明しようかと思っていると、いきなりジェットが破顔して、言葉を継いだ。
 「まさか、オレ用?」
 プレゼントかと訊いているのだと悟るまで、しばらくかかった。どうしてこう、この年若いアメリカ人は、アルベルトが考えもしないことを、平気で口にするのだろう。反応が遅ければ遅いだけ、彼はまた、アルベルトをからかう理由を、思いつくだけだというのに。
 「そこまでおまえを、ガキだと思ってるわけじゃない。」
 じゃあ何だよ、とジェットが目顔で尋く。
 アルベルトは口ごもった。うまくごまかしてしまえるほど口は上手くないし、ほんとうのことをすらりと言えるほど、素直でもない。照れているのを隠すために、とりあえず口元を覆った。
 アルベルトのうろたえた仕草に、ジェットがきょとんとする。まじまじと見つめられて、アルベルトの頬は、ますます赤くなる。ちょうど、ジェットが今抱えている、Red Monsterのように。
 「ひとりで淋しいのは、おまえだけじゃない。」
 そんな言葉が、口をついて出た。舌が滑った、という方が、正しい表現だったかもしれないけれど。
 「なんだよ、それ。」
 まったくわからない、という口調で、ジェットが頭を振る。
 行間や、言葉の間の微妙な含みというものを、アメリカ英語を母国語としている連中は、まったく読まない。言われたままの言葉通りにしか解さないというのを、言ってしまった後で思い出しても、もう遅かった。
 「だから、おまえに似てると思ったから、ドイツに一緒に連れて帰るんだ。」
 くるりとジェットに背を向け、キッチンへ戻る。
 忙しいふりをして、知らんふりを決め込もうとするより前に、ジェットの腕が、後ろから首に巻きついてきた。
 驚いて抗おうとすると、ジェットが肩口に額を乗せ、強くアルベルトを抱き寄せる。
 「アンタ、ほんとに帰っちまうのか?」
 ああ、でも、いや、でもなく、仕方ないだろう、とアルベルトは答えた。
 「ここに来て一体、何ヶ月目だと思ってるんだ。いつまでも、ここにいるわけにいかないだろう。俺は、休暇中で、楽しい休暇は、いつか終わるんだ。」
 「じゃあ、永遠に、休暇中にすればいい。」
 首から胸へ降りてきた、ジェットの腕を抱え込みながら、バカ、とアルベルトは呟き返した。
 どう言えばいいのだろうと、少しばかり途方に暮れる。はっきり帰ると言えば、それだけでジェットが傷つくのがわかっていて、けれど遠回しな物言いは性に合わない。
 うっかり機械の腕を見られても、わざわざそれについて尋かれる心配のない、この街の無関心さは、ある意味ではありがたくも、居心地が良くもあったけれど、それと同時に、自分の言葉を、自分と同じ意味合いで使う人たちが、恋しくもあった。
 手を伸ばせば、欲しいものがたやすく手に入る生活は、まるで夢のようで、そこにひたりきることが、アルベルトにはどうしても正しいことと思えない。
 そして何より、ジェットがいる生活が当たり前になることが、いちばん恐ろしかった。
 離れる痛みを想像して、その苦痛が自分を引き止めてしまう前に、ここから離れるべきなのだと、どこかで醒めた声が言う。
 ジェットの腕を外し、彼に、正面から向き合った。
 ジェットが、口を引き結び、アルベルトが何か言い出すのを、辛抱強く待っている。
 ジェットの手から、赤い人形を引き取ると、微かな笑いを口元に刷いて、アルベルトはようやく言葉を滑り出した。
 「俺も、そろそろドイツが恋しい。それに、帰って、部屋の準備をしなきゃならないだろ、おまえのために。」
 一瞬、ジェットの口がぽかんと開いた。
 「来るなら、ちゃんと覚悟決めて来いよ。ほんとうに、山の中の一軒家だからな。ここと比べて文句の一言でも言ったら、すぐに送り返してやる。」
 「オレが、行ってもいいのか?」
 「来たくないなら、別にいい。」
 「そんなこと、言ってないだろ。」
 互いに、同時に、不意に黙り込む。
 だから、とアルベルトは、ゆっくりと言った。
 「おまえが来るまで、このRed Monsterが、おまえの代わり---」
 最後までを、ジェットは言わせなかった。
 その、自分に似てるという人形ごと、アルベルトを抱きしめて、
 「行く、すぐ行く、すっ飛んでく。」
 文字通り、ほんとうに、飛んで来る、かもしれないと思って、アルベルトは慌ててそれを止めた。
 「ほんとに飛んで来るのはよせよ。領空侵犯には、最近うるさいんだ、あっちは。」
 それでも、自分の家の周囲の山のいくつかの上を、彼と一緒に飛ぶのはきっと気持ちがいいだろうと思う。
 ふと、Red Monsterと、聞こえないように、アルベルトは呟いてみた。
 ジェットに似ていると思った、それ。Red Monster---赤い怪物---と呼ばれるなら、自分にも似ているのかもしれない。赤い防護服を着た、機械の体の、化け物の自分。
 決して、ジェットに対するような、可愛らしい理由ではないけれど、そんな人形が、自分にも似ているかもしれないという想像は、何故かアルベルトの心を和ませた。
 それはきっと、ジェットのせいなのだと、思う。
 ようやく、自分の中に、勇気が満ちてくるのを感じた。長い間、口にすることが出来ずにいたアルベルトに、この赤い人形が、勇気をくれたのかも知れない。
 ジェットに抱きしめられたまま、アルベルトは、すうっと深く呼吸した。
 ジェットの髪に手を伸ばし、それに触れながら、ジェット、と呼びかける。そして、勇気を出して。
 「おまえが、好きだ。」
 ジェットの腕が硬張ったと思ったのは、錯覚だったのかもしれない。触れてくるジェットの掌を、もう拒まなかった。
 床に、ふたり一緒に崩れ落ちながら、視界の端に最後に映ったのは、いつの間にか腕からこぼれ落ちた、Red Monsterだった。
 ダンケ。小さく小さく、その人形に向かってそう言って、アルベルトは目を閉じた。愛しい男の面影だけを、そこに浮かべながら。
 部屋に闇が、静かに降り始めていた。


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