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歌う声

 それは、とても穏やかな声だった。
 どちらかと言えば低めの、喉の辺りでかすれることもあるような、そんな風に不安定に響くくせに、耳の中には、その声の触れた皮膚から体の内側へ染み通ってゆくような、その声を、ジェットはとても好きだと思った。
 口数は少ない方ではないくせに、語っても、語る本人はあまり見えては来ない。他人など、自分の目の前で死んでも知ったことかと言うような態度のくせに、何かあれば真っ先に伸びて来るのがその腕だ。
 変なヤツ。4番目と言う意味のナンバーで呼ばれる仲間のことを、ジェットはそんな風に思う。ドイツ人がみんなこうなのか、それともこれはこの男だけの気質なのか、明らかに冷淡な態度と、人に馴染もうとはしない素振りと、こんなのにも、食事の心配をする母親や、靴紐の結び方を教えてくれたりした父親がいたはずだと言うことが信じられず、元は生身の体を持つ人間ではなく、最初から機械だけのロボットなのではないかと、ジェットは意地悪く考えたこともあった。
 冷たく見えるのは、あえてそう振る舞っているからだと気づいたのは、一体いつのことだったろう。他の誰かが傷つくなら、自分が八つ裂きにされた方がいいと、そう考えているのだと知ったのはいつのことだったろう。
 オレはごめんだね。自分が死ぬくらいならさっさと逃げるぜ。
 ジェットが、深くは考えずにそう言い返す──単なるはずみで、そう本気で言ったわけでもなかった──と、4番目の仲間はどこか淋しそうに微笑んで、
 「そうだな、おまえはさっさと逃げろ。そして、何があっても生き延びろ。」
 半ば辺りからは真剣な顔つきで、そう静かに言ったものだった。
 死なせてももらえないのだと、分かった上での戯れ事だった。けれど、生き延びると言うことには、あの頃は、自由になると言う意味が含まれてた。
 俺は無理だが、おまえは自由になれ。彼は繰り返しそう言った。なぜ無理なのか、なぜジェット──と他の仲間たち──だけなのか、説明らしいものはなく、決して追求させない空気を漂わせて、そう言う時には必ず、ジェットのどこか後ろの辺りをじっと見つめてるような視線で、ふっと人工の瞳の焦点がわずかにぼやけたものだ。
 ジェットに、それを問わせない、何かひどく固いものを口調に含ませて、結局のところ、必要ならさっさと自分を見捨てて、おまえ──たち──は先に行け、絶対に振り向かずに生き延びろと、そう言っているのだとジェットは悟って、なぜこの男は、いつも必ず自分を犠牲にする前提で話をするのだろうと、不思議に思った。思って、けれど問えはしなかった。質問など許さない、彼の恐ろしく固い横顔だった。
 そう、言い続けられた反動かどうか、ジェットの胸の内は、生き延びるならみんな一緒だと、これもまた固く定まり、長い時間を過ごすうちに、互いの思うことは通じ合うもので、何が何でも生きようとするジェットに引きずられたものか、数字以外には死神と物騒なあだ名を与えられたその仲間は、それなりの無茶をしながらも、わざわざ地雷を知っていて踏みに行くようなことは次第にしなくなった。
 アンタがいなくなったら、全部オレがやらなくちゃならないんだぜ。
 煤に汚れた顔で、ジェットが言う。同じく、煤に汚れた髪を煤に汚れた右手の指先でかき上げながら、そうか、そうだなと、いつもより低い、ちょっとあやふやな響きで、仲間が答える。
 そいつは確かに、おまえにはまだ荷が重いな。
 重いなら重いなりに、ひとりで背負う覚悟はいつでもあった。けれどジェットは、それを彼と分け合いたかった。
 アンタひとりでもない。オレひとりでもない。オレと、アンタで。ふたりで。一緒に。
 さらに時間が過ぎて仲間が増えても、ふたりが分け合ったそれは、ずっとふたりだけのものだった。ふたりで守る、他の仲間たち。そうやって、実のところ守っていたのは、互いだったのだけれど。
 失いたくない、ただ、それだけだった。死神が、もうこれ以上は、とそこに言葉にはせずに必ず付け足しているのにジェットが気づくのは、ずっと後のことだ。


 フランソワーズとジョーがふたりで出掛けたギルモア邸の午後、午前中のイワンのミルクはピュンマが、昼のミルクはグレートが面倒を見て、その後は自分が付き添うと、ハインリヒがイワンを抱いてリビングから姿を消した。
 ジェットは何となくそれを目の端で追って、後でコーヒーでも淹れて持って行ってやるかと、足跡の消える方向へきちんと耳をすませていた。
 階段は上がらず、ギルモア博士の部屋──今日は不在だ──の隣り、博士が個人で対応したい客用の応接室のような部屋へ、ハインリヒはイワンを抱いて落ち着いて、リビングへ残っていた面々も、午後は用があると出掛けたり、自分の部屋へこもったり、ちびちびとコーヒーを飲んでいたのはジェットだけだ。
 イワンの子守りがなければ、裏の森にでもふたりで行こうとハインリヒを誘う気だった。仲間が常にうろうろしている邸内では落ち着かず、誰の目も気にせずに一緒にいられるのはその辺りくらいしかなく、海を見下ろす崖まで出てしまうと逆に向こうを通る道路から姿が丸見えになるけれど、森の中の樹の陰へ潜んでしまえば、誰に見咎められる心配もない。
 そんな心配を面倒だと思いながら、ふたりきりになれる場所をこっそり探すのは、案外楽しいものだった。
 イワンや他の仲間を邪魔にするわけではなく、自分の頭の中でだけの、ハインリヒとの今日の予定が流れてしまったことに、ジェットは胸の中でだけ舌打ちして、そろそろコーヒーを持って行ってやるかと椅子から立ち上がる。
 もしかしてイワンは昼寝の最中ではないかと、淡い期待をしながら扉をノックし掛けて、部屋の中からかすかに聞こえて来る歌声に気づく。
 子守歌の類いなのかどうか、優しいメロディーを、ハインリヒが細い声で歌っていた。
 ジェットは驚いて、思わずドアから数センチ遠ざかり、けれど耳だけはその歌う声にしっかりと向けて、気配を消してそれに聞き入った。
 昼寝をするイワンのために歌っているのかどうか、草原や春か夏の山を思わせる爽やかで穏やかなメロディーが、わずかに切なさもこめて、ジェットの耳をくすぐって来る。
 言葉はきちんとは聞き取れなかった。ドイツ語らしいそれは、ジェットの脳内翻訳機でそれなりに訳されて、自分が小鳥ならあなたの元へ飛んで行けるのに、夢の中では一緒でも、目覚めればひとりと、そんな風に聞こえた。
 淋しい、少し悲しい歌だと思って、それをハインリヒの声で聞いて、ジェットは胸のどこかを刺されたように感じた。
 ハインリヒの、まだ語り切らない昔の話の断片を、繋ぎ合わせてその間を自分の想像で何となく補いながら、それの一部がぴたりと今の歌声の歌詞に重なり、誰にも、口にはせずに会いたいと思う人は必ずいるものだと、ジェットは珍しく物静かに自分に向かって言い聞かせていた。
 過去には勝てない。勝とうとする気もない。ジェットにもまた、ハインリヒにはわざと告げない過去がある。それはお互いさまだ。
 鳥になったハインリヒが飛んでゆく先はどこだろうかと、ジェットは考える。鳥にならずに空を飛べる自分の傍らには、必ずハインリヒがいる。もう他の誰も、そこには思い浮かべられなくなっているジェットだった。
 ジェットはそのまま静かに、ドアに背を向けて、まだ続いているハインリヒの歌声を聞きながら、裏庭へ出るためにキッチンの方へ戻ってゆく。
 自分たちは生き延び、自由になった。完全にではない。それでも、以前よりはずっとましだ。少なくとも今は、笑いながら空を飛ぶことができる。その傍らに、常にハインリヒの存在を、疑わずに感じ取ることができる。
 今はそれでいいと、ジェットは思った。
 ジェットが歌ってくれと言ったら、ハインリヒは歌ってくれるだろうか。同じ歌でもどんな歌でも、ジェットのために、あんな風に歌って聞かせてくれるだろうか。
 ちぇっと、苦笑いしながら肩をすくめて、ジェットは大きな仕草で裏庭から空を仰いだ。今日の空の色は、ハインリヒの瞳の色そっくりに見えた。
 この空の、海と混じり合う辺りのその色は、ジェットの瞳の色そっくりになる。そこまで飛んで行くには、少し燃料が足りない。第一、そんなことをしたらギルモア博士に叱られる。そして多分、ハインリヒにも。
 ハインリヒの歌声が、まだ邸内から聞こえて来るような気がして、再びそちらへ振り返り、ジェットはさっき聞いたばかりのメロディーを、何とか自分の舌の上に再現しようとした。ふたつかみっつ、きちんと出た音が、ここまで聞こえて来るはずもないハインリヒの歌声にきちんと重なったような気がして、やはり自分たちは、こうやってきちんと繋がっているのだと、ジェットは他愛なく信じた。
 そんなジェットの天真爛漫さを、ハインリヒが好ましく思っていて、そしてそれにずっと救われて来たのだと、ジェットはもちろん告げられたことはなく、知らないまま、ハインリヒをこの世界にとどめ続けて来たジェットだった。
 オレたちはふたりとも鳥だ。どこにだって好きに飛んで行ける。
 思った時にはもう体が宙に浮いて、ジェットは真上に向かって一直線に飛び上がっていた。
 今は海の方は目指さずに、ただ真上へ、ジェットは飛び続ける。緑色の瞳の先に、ハインリヒの瞳の色そっくりの空を映して。
 風を切る音とジェットの噴射音の中に、ハインリヒの歌声が確かに混じって聞こえたような気がした。

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