安眠



 理由も思い当たらずに、寝苦しい夜がある。
 何度も寝返りを打って、ベッドの中で、横たわる位置を変えて、手足を伸ばして、それからまた、体を丸め、目を閉じても、眠りは訪れず、また何度も、寝返りを打つ。
 指を伸ばした先の、シーツの冷たさと、ベッドの空いたスペースの大きさに、自分がひとりなのだと思って、逆の方向に寝返りを打つと、背中を丸めて、膝を抱え込む。
 心のどこかに、正体のわからない屈託があって、それが、孤独の部分を、ちくちくと刺す。
 淋しいと、素直に思って、また、寝返りを打った。
 左腕を、胸の前に回して、肩に手を置いた。自分で自分を抱きしめることを思いついても、実行するには、それは少しばかり惨めで、第一、いい年の大人がと、自分に対する、冷静な---今は邪魔で無駄なだけだ---視線を感じれば、もう一方の腕を、胸の前に回す気には、どうしてもなれない。
 大きく息を吐いて、舌を打って、眠れないなら、いっそ起きてしまえと、ベッドの上に体を起こした。
 まだ読みかけの本がある。紅茶をいれて、ミルクを多めに注いで、しばらくベッドで本でも読んでいれば、きっと眠くなるだろうと思う。
 気が紛れるなら何でもいいさと、部屋を出た。
 廊下はしんとしていて、ドアの向こうでは、誰もがやすやすと、安眠を貪っているように見える。
 深夜にひとり、眠れずに、下らないことを考えて、ベッドを出てうろうろしている自分の姿が、ひどくばからしく思える。
 胸の前に腕を組んで、肩と背中を丸めて歩きながら、とっとと紅茶をいれて、部屋へ戻ろうと思った。
 キッチンへ入ると、続きのリビングに明かりがついていて、何かとそちらへ首を伸ばすと、ソファに坐って、ちびりちびりと、ひとり、グラスを傾けているグレートの姿が見えた。
 「よう、死神どの。」
 静かな、けれど陽気な声が飛んでくる。
 思いもかけない人の姿に、ハインリヒは、思わず苦笑を返した。
 「なんだ、あんたも眠れないのか。」
 「本を読んでたんだが・・・酒の話題が3ページも続くと、酒飲みにはつらいさね。」
 一体、何杯目なのか、グラスの向こう側から、いたずらっぽく片目を閉じて見せる。
 「おまえさんも、付き合うかい。」
 うっすらと、赤く染まった目元を見て、少し心が動いた。
 酔えば、眠れるだろうかと思って、けれど、眠れないのは、もっと別の理由なのだとわかっていたから、酒の力を借りるのは、ほんの少し気が進まない。
 いや、と、笑って軽く首を振って、それでも、グレートの傍へ、足を運んだ。
 残念そうに、また、持ち上げていたグラスを膝の上に置いて、グレートが唇を突き出して見せる。
 軽く酔って眠れても、また、明日の夜、眠れないかもしれないと思うと、それだけで気が重くなる。けれどそれを顔には出さずに、ハインリヒは、グレートの傍に腰を下ろした。
 「悪くない酒だ。」
 まだ少し、ハインリヒの気をそそるように、グレートが言う。
 なめるように、ちびりちびりと、傾けたグラスから酒を飲む。
 グレートの息に、かすかに酒の匂いをかいで、ハインリヒは、それに酔った。
 「あんた、酔ってるのか、グレート。」
 グラスのふちに、唇を寄せたままで、グレートがふふっと笑った。
 「ほろ酔いってとこだな。あと3杯行けば、明日の朝は宿酔い間違いなしだ。」
 そんなわけがない、ボトルをひとりで空けても、翌日はけろりと朝食の席に着くくせにと、心の中で皮肉笑いを返して、酔っているならちょうどいいと、ふと思う。
 体の重みを気にしながら、グレートの方へ体をねじって、両腕を、首に巻きつけた。
 少し驚いたグレートが、体を後ろに引こうとするのを、締めつけずに、けれどしっかりと腕の中に取り込んで、グレートも、へたに暴れると、せっかくの酒がこぼれてしまうと観念したのか、ふむ、と一言言って、ハインリヒの背中を、ぽんぽんと、軽く叩いた。
 「・・・あんただって、酒のボトルじゃなくて、誰かを抱きしめたい時だって、あるだろう。」
 重なった胸が、かすかに波打ったような気がした。
 背中の後ろで、グレートの腕が動き、肩の上で、グレートがそのまま、残りの酒をあおった気配があった。
 それから、グレートの両腕が、しっかりとハインリヒの背中に回る。
 互いの肩にあごを乗せて、じっと動かずに、ふたりは、ソファの上で抱き合っている。
 沈黙が、ほんの少し照れくさく、けれど、ぬくもりと、ひとの形は心地よくて、ハインリヒは、さして意味もない話題に、唇を開く。
 「英語の、hugっていうのは、いい言葉だ。短くて、覚えやすくて、誰でも使える。」
 「H、U、G、hug?」
 確かめるように繰り返したグレートに、ハインリヒは、軽くうなずいた。
 一呼吸置いて、鋼鉄の右肩の上で、グレートが、ゆっくりと話し始めた。
 「昔演った芝居で・・・男が女に言うんだ、hugしてくれって。女は、喜んでと笑って、男を抱きしめてやる。ふたりで抱き合って、男が、礼を言おうとする前に、女が、男に言うんだ、"抱きしめてくれて、ありがとう"ってな。」
 女の礼の言葉の意味が、一瞬わからず、ハインリヒは、軽く眉を寄せる。
 「誰かを抱きしめるってことは、同時に、抱きしめられるってことでもある。お互いさまってわけさ。」
 ひとのからだ、誰かのぬくもり、たまらなく、かたわらにほしい時がある。
 抱きしめて、抱きしめられて、自分が、ひとの世界に在ることを、確かめたい時がある。
 それ以上でも、それ以下でもなく、両腕を伸ばして、自分が、ひとりではないことを、ただ、確認するためだけに。
 グレートの、首に回した腕に、ハインリヒは、もう少し力を込めた。
 またぽんぽんと、グレートの手が、なだめるように、背中を叩いた。
 「もう少し、このままで、いてくれ。」
 グレートのあごが、肩から浮いて、ふっと、笑った気配が耳にかかる。
 「As you like it。」
 安らかに、眠れるかもしれないと思って、グレートの肩に、頬をすりつけた。


戻る