Slow An' Easy



 うっすらと、地面が白い。まるで、ちぎった紙のような雪が、ふわりふわりと降ってくる。その雪が、地面にとどまれる程度には、寒い日だった。
 こんな日でも、煙草のみの悲しさで、屋内禁煙のギルモア邸から、わざわざ外へ出る。
 重さだけは充分なスタジアムジャンパーを羽織って、しっかりとマフラーを巻いて、煙草もライターもポケットに入っていることを確かめてから、ジェットが、雪の降る空を見上げて、とんと、軽い足取りで裏庭へ出て行った。
 裏庭をそのまま出ると、海の見える崖に出る。ギルモア邸にいる煙草のみたちは、みんなそこで煙草を吸う。
 冬になれば、海から吹く風の冷たさもひとしおで、けれど、それにもめげずに、その崖の上に立って、灰色の海を眺めながら煙草を吸うというのが、そうまでしても、その習慣をやめられないという連中の、奇妙ではあるけれど、矜持でもあった。
 そのうちのひとりであるハインリヒは、足音もさせずに裏庭の奥へ姿を消すジェットを見送って、けれどまだ煙草が恋しくはならず、しばらくひとりきり、キッチンのテーブルで、もう何度も読んだ本を、また読み返している。
 雪がもっと積もれば、辺りは静けさを増して、そして、雪の白さのせいで、闇すらぼんやりと明るくなる。さくさくと、雪を踏みしめて歩く。あるいは、すでに踏み固められた雪の上を、きゅっきゅっと歩く。背中と肩は、寒さで丸めて、もし隣りに誰かがいるなら、肩の触れ合う近さで。白い息を吐きながら、低く暗い冬の空の下を、歩く。煙草を吸いたければ、いつでも吸うことができる。歩きながら、白い息に紛れさせて、煙を吐いて、互いに微笑み合う。
 視線を落としたページの白さの上に、そんな想像をしながら、ハインリヒは、キッチンの大きな窓から、裏庭を眺めた。
 とうに、煙草の1本くらいは吸い終わっている時間が過ぎていたけれど、ジェットの姿はまだ見えず、ついでに、次に火をつけたのだろうかと、ハインリヒは、少しだけ考えた。
 ちらりと視線を流したキッチンのカウンターのコーヒーメーカーには、まだコーヒーが残っていて、クリームを少し入れて、電子レンジで少しだけ温めて、そうすれば、裏庭へ出て、崖へたどり着くまで、温かいままだなと、思った瞬間に、椅子から立ち上がっていた。
 人工皮膚が、他の誰よりも弱いジェットほどは、ハインリヒは、寒さも暑さも感じない。セーターを着ただけの上に、わざわざジャケットを羽織ることもせずに、ただ、ズボンのポケットを叩いて、そこに煙草の感触があることだけは確かめてから、ハインリヒは、コーヒーを注ぎ分けたマグをふたつ、口を掌で覆うようにして抱えて、外へ出た。
 耳をすませても、ジェットらしい足音がこちらへ向かってくる気配もなく、やはりまだ崖の上で煙草を吸っているのだろうと、掌に当たる、コーヒーの湯気と、指の間からかすかに上る、クリームの甘い匂いに、わずかに目を細める。
 雪は、少し前よりも、もっとたくさん降り落ちてくる。
 車を出すのに躊躇する程度には積もるかもしれないと、崖の上で、こちらに背を向けているジェットに近づきながら、ハインリヒは、一度だけ立ち止まって、空を見上げた。
 ハインリヒの足音に、ジェットが気がついて振り返る。その口元には、やっぱり煙草があって、ハインリヒは、どうしてか苦笑を返していた。
 「寒くないのか。」
 意味のない質問だったけれど、ジェットが肩をすくめて、別にと首を振って見せる。
 持って来たコーヒーのマグを差し出すと、ぱっと明るくなった表情で、素手の両手で受け取ると、そのぬくもりを顔近くに寄せて、ジェットの横に広い唇が、いっそう大きく広がる。
 ハインリヒは、ようやく空いた片手で、煙草を取り出して火をつけた。
 ジェットの指には、短くなった煙草がはさまったままで、そのままずずっと、マグからコーヒーをすする音がした。
 「あちっ。」
 慌ててマグを唇から離して、まるで子どものような仕草で、舌先を突き出し、ジェットが顔をしためたのを、ハインリヒは横目で見た。
 せっかく温めてきたのが、仇になったようだと、思っても口には出さずに、ハインリヒはやれやれという表情をつくってから、あきれたように首を振る。
 「少し待てば、すぐ冷める。」
 少しばかり熱いコーヒーすら飲めない彼の、時を止められてしまった稚なさが、ハインリヒの胸を突く。年を経るということが、歳を重ねるということには繋がらない自分たちの、凍りついてしまっている時間は、今眺めている海と同じように灰色なのだろかと、また空を見上げた。
 ジェットは、ちぇっと大きく舌打ちをして、また痛むらしい舌を突き出して、下目に眺めながら、それでも、マグを両手に大事そうに抱えたまま、ふうふうとその表面に息を吹きかけている。
 煙草を吸って、吐いて、そうしているうちに、ふたりのコーヒーに、雪が降り落ちて、あっという間もなく、そこで溶けてゆく。
 ささやかな波紋を、はかなく残して、何も入れないコーヒーの、闇のように黒い表面と、クリームのせいで、瑞々しい大地のような色の表面と、白い雪は、跡形もなく、そこで溶ける。
 鉛色の右手で抱えた、マグの中を見下ろしながら、ハインリヒは、ふっと薄く笑いを浮かべた。
 その隣りでジェットが、コーヒーが冷めるのをただ待つのに飽きたのか、軽く焼いたらしい舌を、大きく外へ出して、降ってくる雪を、そこへ受け止め始めた。
 「やめろ、みっともない。」
 言葉ほど咎める口調でもなく、ハインリヒは、吸っていた煙草を足元で踏み消して、自分のコーヒーを一口すすった。
 「だってちょうどいいだろ、雪で冷やせるし。」
 子どもの頃、雪が降るたびに、外へ出て雪を追いかけ、そして、今ジェットがそうしているように、その雪片を食べようとしたことを思い出した。口の中を刺す冷たさに、ぶるっと肩を震わせて、冷たくなった鼻先を、真っ赤にして、子どもは、どこででもそんなことをするのかと、一生懸命顔を動かして、雪を舌の上に受け止めているジェットを眺めて、ハインリヒは思う。
 今はもう、冷たさに赤くなることもない自分の膚と、それすらない右手に、ちらりと視線を流して、寒さに、どんどん冷め続けるコーヒーを、かまわずに飲む。
 「まだ痛むのか?」
 やっと、ジェットの方へ振り返ってから、ハインリヒは、そちらへ2歩近づいた。
 焼いた舌のことなど忘れて、今は雪に夢中になっているジェットの肩に、右手を掛ける。
 「・・・少し。」
 急に肩を寄せてきたハインリヒに、戸惑ったように、ジェットが少しあごを引く。
 煙草の匂いが、鼻先を打った。
 手にしたコーヒーがこぼれないように、そっと動きながら、少し背伸びをしないと届かないことを、ちょっとだけ忌々しく思いながら。
 「見せてみろ。」
 ジェットにだけ聞こえるような、そんな声でささやくと、ジェットの広い厚い唇が、素直に開いて、そこに動く舌が見えた。
 手を掛けた肩を、少し下に押すように、首と膝を伸ばして、届いたジェットの唇は、雪と同じほど冷たかった。
 舌先を軽く探ってやる。抱き合うようには腕を伸ばさないまま、唇だけを触れ合わせて、少しずつ、手の中のマグが重くなってゆく。
 煙草の匂い。クリームの匂い。コーヒーの匂い。雪の匂い。海の匂い。空気の匂い。そして、冬の匂い。
 ジェットは、身じろぎもせず、ハインリヒの口づけを受け止めて、内側から増す体温に、ほんの少し戸惑っている。
 ようやく、唇を離して、ハインリヒは、ジェットを見上げたまま、鼻先で笑って見せた。
 「やけどなら、舐めるのがいちばんだろう。」
 右手が離れ、また2歩分離れたところに立って、海を眺める姿勢に戻ると、ハインリヒは、自分を見つめているジェットの視線を、横顔で受け止めた。
 すっかりぬるくなったコーヒーを飲んでいる振りをして、ギルモア邸に引き上げるしおを伺っていると、ジェットが、手の中のマグのことを忘れてしまったような表情で、ぼそりと言った。
 「・・・今度は、別のところにやけどした・・・。」
 薄く浮かんでいた笑みが、一瞬にして消えて、次に浮かんだのは、小さな羞恥と戸惑いだった。
 ハインリヒは、うっかり赤く染まった頬を隠すことも忘れて、寒さのせいではなく、鼻先と頬を赤らめているジェットと、真正面から見つめ合う羽目になる。
 マグの中のコーヒーは、まだ半分ほど残っていたけれど、その場で飲み干す気は失せていた。
 「・・・世話の、焼けるやつだな。」
 「・・・アンタのせいだろ。」
 ジェットの、スタジアムジャンパーの肩と、赤い髪の上に、うっすらと雪が積もり始めている。
 雪の白さも、ベッドのシーツの白さも、とてもよく似ているけれど、体温を分け合うなら、雪はあまり適さないと、照れ隠しに考えながら、ハインリヒは、くるりと海に背を向けた。
 「やけどなら、すぐ冷やさないとな。」
 言い捨てて、足早に去ろうとすると、ジェットの軽い足音が、慌てたように追い駆けてくる。
 やけどしそうに頬が熱いと、激しくなる雪の中、踏み出す爪先を見下ろして、ハインリヒは隣りに肩を寄せてくるジェットの体温に、一瞬だけ目を閉じた。


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