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Smoking In The Rain

 レインハットを頭に乗せ、水をきちんと弾くコートを着込み、正直この鬱陶しい日本の梅雨時、こんな格好は狂気の沙汰だけれど、グレートは足元も雨の日用の靴であることを確かめて、玄関からくるりとギルモア邸内へ爪先を向けた。
 そこから向かうのはキッチンで、大きなテーブルの傍を通って裏口へ出る。傘は持たない。ポケットに入っているのは煙草とマッチだけだ。
 しとしと降り続く雨を見上げ、グレートは裏庭へ歩き出す。そこを通り抜け垣根もなく続く森へ入り、散歩程度に歩けば海の見える絶壁へ出る。完全禁煙のギルモア邸で、煙草のみのグレートは少々肩身が狭い。森の中での喫煙は当然ご法度で、森を抜けなければマッチも取り出せない。
 もう少し雨の勢いの強い日や、少々大雪になった日は、こそこそと裏庭の片隅でフランソワーズの千里眼──文字通りの──を気にしながら煙草に火をつける。こんなのは13歳くらいの時以来だなと思いながら、そうやって丸めた背中の陰に、フランソワーズの目から逃れられるはずもないのに火の点いた煙草を必死に隠して、結局のところ、煙草の美味さよりもそのスリルの方が、13歳の時から変わらず美味ではあるのだ。
 つばの広いレインハットの下で、ぱちっとマッチを擦る。小気味良い音と共に炎が現れ、雨の湿りを受けないうちに、煙草の先をそこへ差し出す。
 つい習慣で、振って火を消したマッチの燃え殻をそこらへ投げ捨てそうになって、グレートは慌ててその手を止めた。指先にきちんとマッチを持ったまま、雨の中へふうっと肺いっぱいの煙を吐いた。
 雨の中、傘を差したまま踊るのも素敵な酔狂だけれど、傘も差さずに煙草を吸うのもなかなかの酔狂だ。ちょっとステップを踏むくらいならと思ったけれど、案外ぬかるみの深い足元でずるっと爪先が滑ったのを見て、グレートはさっさとその思いつきを諦めた。
 やめとけやめとけ、おれは煙草を吸いに来たんだ。
 煙草を吸う時、酒を飲む時、グレートは自分の横顔が年相応、あるいはぞれ以上に老けて見えることを知っている。役者らしい、常に人目を感じるゆえの張りを失くし、人生に少々疲れた中年男の横顔がそこに現れる。グレート自身にはこちらの方がずっと馴染み深い、朝起きた時に鏡の中にも現れる、自分の素の顔。
 雨の中、わざわざこんな姿で出て来て、煙草を吸う自分の紳士のかっこつけも、この素顔で台無しだ。
 まあいいさ、こんな時くらい、よそゆきの貌(かお)なんざ忘れたいもんさね。
 黒ずんだマッチを指の間に挟んだまま、グレートは自分のあごを撫でる。たるんだ皮膚が指に引っ掛かる。柔らかく指の沈み込むそこに、もう若さの張りはない。確かにあった若さを、もうグレートは惜しむこともしない。惜しむほど価値ある若さでもなかった。無茶をする蛮勇だけの、今思い出せば赤面するしかない、古い思い出。今唇の先でじじっと音を立てて焦げて燃え落ちる煙草と同じように、灰になって風に吹かれて、そこに在ったと言う記憶以外はすべて消え失せる。
 それでいいさ、否応なく失われるからこそ、若さってヤツは美しいもんなんだ。
 自分自身を、美しいと言うカテゴリーに当てはめたことのないグレート──当てはめられたこともない──は、つまりは惜しむ理由なんて最初からおれにはないってことさねと、へへっと苦笑いと一緒に呟いて、フィルターの焦げ始めている煙草を、やっと唇から取り去った。
 そこらの地面をちょっと爪先で掘って、そこに吸い殻もマッチも埋めて戻ろうか、2本目に火を点けるために、そんなことを考えていると、後ろで水たまりを踏む足音がした。
 黒い大きな傘を手に、森の中ですでに火を点けて来たのか、唇に煙草を差したハインリヒがそこにいた。
 「あんた、また灰皿を持って来なかったのか。」
 ごそごそとズボンのポケットに手を入れて、グレートに向かって差し出したのは、近頃日本では大流行の携帯灰皿と言うやつだ。一見安っぽい小銭入れに見えるそれを、ハインリヒは律儀に持ち歩き、ドイツに帰る時も何個も持ってゆく。喫煙者に厳しい世の中はどこも同じだけれど、日本ほど肩身の狭い国も珍しかろうと、グレートはやや天邪鬼な気分で、ついうっかりそれを煙草と一緒に持ち歩くのを忘れるのだ。
 どうやら、煙草を吸いに出たと知れた瞬間から、フランソワーズに見張られていたらしい。ここまで掃除に出向くのは真っ平ごめんと言うことだ。グレートは素直にその部分だけは反省して、ハインリヒが開いてくれた灰皿の中へ、吸い殻とマッチを放り込んだ。
 「・・・傘を差して、雨の中で煙草を吸うって眺めも、なかなかシュールだな。」
 半分くらいは意趣返しに、グレートは唇の片方だけ上げて言ってみる。負けずに、口元を掌で覆いながら、
 「あんたみたいに、紳士ぶるのに慣れてないからな。」
 ハインリヒが言い返して来る。
 毒のある言い方も、互いに向かっては冗談と通じ合っていて、唇に浮かぶ皮肉笑いも互いにとってはごく普通の親愛の証だ。
 ハインリヒは自然な動きでグレートを傘の下に入れ、煙は掛からないように注意しながら、肩の触れ合う近さへ寄って来る。
 グレートは次の煙草を唇に差し入れながら、無言でその先をハインリヒの方へ突き出した。阿吽の呼吸とは少し違う、このふたりの間だけに通じる空気で、ハインリヒはいつもこうするとためらいのような照れのような一瞬の間を置いて、グレートの煙草の先へ自分の煙草の火を移して来る。
 触れ合う煙草の先で、じじっと小さな火が音を立てる。雨の湿りにその音の端が今日はややぼやけ、煙草に添えられたハインリヒの右手を、グレートはこっそり盗み見る。
 若いとは言えなくても、グレートから見ればまだ十分青年のハインリヒは、元々がそうなのか改造されていっそうそうなったのか、彫刻じみた容貌は時間の中に氷漬けにされたように、近寄りがたく硬質で、への字の口の端に無雑作にくわえた煙草の自堕落さすら、グレートには芸術的に見える。
 自分とは対極の、美しいと言うのはこういう存在を言うのだろうと、自分の煙草の先に移った彼の火を見つめて、グレートは今はそれを愛でる者の目で彼を見る。
 何もかもがぼやけた、フィルターの掛かった雨の風景の中で、ハインリヒの輪郭だけがはっきりと、まるで手を加えた映画のフィルムのように、言葉と動きが信条の役者の自分と、舞台に上がれば恐らく無言で立っているだけでその場の空気を変えるだろうハインリヒと、そもそも存在の次元が違うのだと、まだ下っ端役者の頃憧れた大物俳優のまとう空気と、ハインリヒのそれはとてもよく似ていた。
 動きにつれ、その場の空気が揺れて動く。それに魅かれて、人々の視線が動く。人目を引かずにはいられず、人たちを魅きつけずにはいない、その自覚のある者もいれば、まったくない者もいる。ハインリヒは確実に後者だ。自分の動きを目で追う人たちの存在にすら気づいていない。あれほど長い間、ハインリヒをじっと見つめ続けていたグレートの視線に、最後まで気づきもしなかった。
 その鈍感さもまたハインリヒの魅力ではあった。
 こうやって、普段着のままの、足元は雨で濡れ始めている情けない姿でも、グレートにとっては限りなくいとおしい眺めに違いない。いつまで見つめていても飽きないと、放っておけば勝手に下る唇の端をばれないように引き締めて、グレートは煙草の煙を胸いっぱいに吸い込んだ。
 傘の下で近づいて、互いにかすかに香る、コロンの匂いやシャンプーの匂い。少し違う、今吸っている煙草の香り。近寄ったせいで混じるそれらの匂いは湿りのせいかどうか、その場にいつもより長くとどまって、今はグレートの鼻腔の奥を愉しませてくれる。
 ひそやかに、ふたりきりで、閉じられた空間ではなかったけれど十分に分かたれたこの場所で、何か秘密でも分け合っているかのように、ここに漂う空気を理解するのは煙草のみだけだ。
 漂う煙越しに、こっそりとハインリヒを見つめる。この距離では他に視線をやるものもないと言う振りで、グレートは傘の陰の差した、ハインリヒの耳の形やあごの線へ見入っていた。
 仲間の中でふたりきり、いまだ禁煙など思いもよらず、フランソワーズに眉をひそめられ、世間からも糾弾の視線を浴びて肩身の狭い思いをしながらも、煙草を手放せない理由のひとつはハインリヒだと、グレートははっきりと胸の中でひとりごちた。
 ふたりでする、些細な悪さ。いつか、喫煙自体が犯罪になってしまうかもしれない。それでも、その時ハインリヒがまだ煙草を吸うなら、自分もそうだろうとグレートは思う。
 ふたりで分け合える、このささやかな時間。
 グレートの2本目の吸い殻を、ハインリヒは無言で自分の灰皿へ受け止め、自分の吸い殻もそこへ入れる。ポケットへそれが消え、そうしてふたりのひそやかな時間が終わり、森の方へ向かって肩を回す一瞬前、ハインリヒが名残り惜しげな色を瞳に走らせたように見えたのは、グレートの自惚れだったろうか。
 ふたりは傘の中で肩を揃えて、忍び笑いを分け合いながらギルモア邸目指して来た道を戻ってゆく。
 肩や首筋にまつわりつく煙草の匂い、フランソワーズには大層嫌われるその匂いへ、グレートは我知らず目を細めていた。 

* ミドリさまへ、誕生日おめでとうございます。
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