光を貸してくれる太陽



 あまり、そういうことはしないのだけれど、何となく手が動いて、グレートのみぞおちの辺りに、シャツの上から触れた。
 紅茶をちょうど、一口飲もうとしていたグレートは、少し驚いたように、あごを引いて、それからハインリヒを見た。
 「なんだ?」
 当たり前の反応をして、それから、ハインリヒを見つめたまま、紅茶を一口すする。
 テーブルに肘をつき、掌に頬を乗せて、ハインリヒは、そこに伸びた自分の右手を、じっと見た。
 「あんたは、変身できるんだったな、グレート。」
 今度こそ、一体何を今さら言い出したのかと、グレートが驚いた顔をする。
 そんなことは、出逢った時から知っているだろうと、頬の辺りに書いてあった。
 「なんだ、おまえさんくらいに、若くて、ハンサムな男にでも、化けて欲しいのか?」
 冗談を笑いもせずに、まだ、グレートの腹に触れたままで、ハインリヒは、つまらなそうな顔を崩さない。
 「あんたが他の誰かに化けたら、あんたじゃなくなっちまうだろう。そんなのはごめんだ。」
 とても素面で言っているとは思えない、ハインリヒもあからさまな物言いに、慣れないグレートが、頬を真っ赤に染める。
 慌てて顔を背け、また、紅茶をすする。
 「いや、あんたが、女に化けたら、子どもでも生めないかと、思っただけだ。」
 口元から離れた、きゃしゃな紅茶のカップが、胸の前でぴたりと静止した。
 頬から赤みが消えて、唇の端が下がり、グレートが、まるで泣き笑いのような表情になる。
 たっぷり20秒は経ってから、グレートが唇を開いた。
 「そいつは・・・無理な相談だな。」
 ふふっと、ハインリヒが、自分を嗤うように、笑う。
 その笑みを、グレートが切なそうに見ていた。
 グレートの腹を、もう一度ゆっくりと撫でて、ハインリヒが、やっと手をそこから離した。
 頬杖をついたまま、あさっての方を向いて、口元を、不機嫌に見える形に引き結んで、横顔をグレートに見せる。何か、埒もない、けれど振り切れない思いに、沈み込んでいるのだと思って、グレートは、話しかけるのをやめた。
 かすかに、息を吐く音が聞こえて、また、ハインリヒがグレートの方を向いた。
 「あんた、子どもはいなかったのか?」
 女の話をしたことはあっても、こんな話をしたことはない。
 グレートは、手にしていたカップをテーブルに置き、自分の目元に視線を当てたまま、自分の答えを待っているハインリヒから、さり気なく視線を逸らす。
 「知ってる限り、いなかったな。」
 「なんで、結婚しなかったんだ。」
 グレートの、語尾にかぶさるように、ハインリヒは次の質問を口にする。
 やや性急に、それをグレートが訝んでいるのを承知で、少しばかり立ち入った問いを、投げかける。
 グレートが、うっすらと、照れたような、懐かしむような、そんな笑みを、美しく口元に刷く。
 「・・・ワガハイは役者だ。」
 そう言った目元に、少しばかりの誇りが浮かんだ。
 「役者だったワガハイとって、恋は、単なる糧だった。もらった役のために、役者の自分を磨くために、あるいはもっと下世話に、金のために。恋をしてたと、思ってたさ。でも、あれは、恋じゃなかった。」
 グレートの視線が、遠くを見つめるように、すっと細められた。
 過去形で語るグレートの、その意味を受け取って、ハインリヒは、少しだけ口元を引き締めた。
 ハインリヒに、横顔を見せながら、遠い記憶をたどっている。そこに浮かぶ女の顔のひとつも、ハインリヒは知らない。
 知る必要は、なかったから。
 「どの女も、ワガハイの、そんなずるさは見抜いてたさ。女ってのは、バカのふりがうまい賢者だ。見透かされてるなんて、もちろんその頃は、気づかなかったがね。」
 優しげな口調に、過去の女たちをばかにする声音はなく、ただ淡々と、古い話を語ってゆく。
 「若さと、愚かさだ。けれど、不幸な子どもを、世に送り出すことだけは、しなかったな。幸か、不幸か。」
 何が正しいかなんて、決してわからない。
 恋人を失って、生身の体を失って、死ぬことすら許されずに、生き続ける絶望を味わった後、ある日、ハインリヒは、サイボーグとして再生した、自分の身に、感謝した。心の、底から。
 サイボーグでなければ、失わなければ、得られなかった様々なものの重みを、半機械の体になってから初めて、思い知った。
 絶望の後にやってきた、ささやかな希望のために、ハインリヒは、自分を憎むのをやめた。
 まだ、頬杖をついたまま、空いた右手を、グレートの膝に伸ばす。その、鉛色の右手に、グレートが自分の掌を重ねた。
 ハインリヒの、思考の先を読み取ったように、微笑みながら、グレートが言葉を継ぐ。
 「役者でなくなって、人間ですらなくなって、ワガハイは、ほんとうの恋を知った。」
 ハインリヒを、真っ直ぐに見つめて、自分の膝に乗ったハインリヒの右手を、しっかりと握りしめて、グレートが、さらりと言った。
 「ワガハイの、ロクでなしの人生は、おまえさんに救われたんだ。文字通り、生まれ変わったってことさ。」
 まるで、芝居の台詞のように、よどみなく言葉が流れる。
 けれどそのどれも、偽りの、つくりもの---まるで、サイボーグである自分たちのような---の台詞ではなく、ほんとうに、グレートの、心の底からの真実の言葉なのだと、ハインリヒは知っている。
 自分に、その価値があるのかどうかは、いまだわからないけれど、この想いには、何を投げ打ってもかまわない価値がある。
 証しは、何もない。あるのはただ、己れの想いを信じる、その強さだけだった。
 ハインリヒの右手を持ち上げ、グレートが、指のつけ根に、そっと口づけた。
 「ワガハイは、世界一幸せな男だよ。できるなら、おまえさんの子どもだって、生んじまえそうだ。」
 自分の真摯さを茶化すように、最後に、そんなからかいをつけ加えて、けれど表情だけは、喜びに満たしたままで、ハインリヒの手に、頬をすりつけた。
 照れ隠しのために、くすぐったい振りをして、手を引いた。
 「お茶のお代わりはどうだ?」
 ああ、とグレートがうなずくよりも先に、もう椅子から立ち上がっていた。
 グレートに背中を向けて、微笑むのを止められない、その口元を隠すために、空のティーポットに手を伸ばす。


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