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The Death Does Bind Us

 夜中にぱっちりと目が覚めて、何か見ていた夢のせいかと思ってみても、頭の中には何も浮かばず、ただ、すっきりと冴えてしまった耳の後ろで、突然思いついたことがあった。
 思いついたことに驚いて、けれど、それの意味を考えるより先に、体が動いてしまっていた。
 まるで、何かに操られているように。そうして、その比喩は、自分にはあまり冗談にはならないのだと、そんなことにはきちんと頭が回る。
 ハインリヒは、隣りに並んだ枕に乗っている、頭髪のない頭を撫でて、それから、急いでその肩を揺すぶった。
 「グレート、グレート! 起きろグレート!!」
 常にない乱暴さで、大きくはないベッドの共有者の安眠を妨げる。今は何よりも、伝えなければと、そればかりに気持ちが焦る。
 「グレート、起きてくれ、グレート!」
 声を大きくして、唇を耳に近づけ、毛布の下にすっかり隠れてしまおうとした、こちらに向いて丸まった背中を叩いて---右手で---、忘れないうちにと、ひどく、意味もなく切羽詰っていた。
 「・・・なんだよ・・・。」
 寝ぼけた、少し不機嫌な声がもれて、ようやく、薄い背中が持ち上がる。こちらに振り向いて、ぎょろりと大きな目をぼんやりと開けて、暗闇の中でも、お互いの見える視線が、ハインリヒの側でひどく思いつめているのを、グレートがきょとんと受け止めた。
 「どうした、怖い夢でも見たのか。」
 茶化すつもりで、声を優しく、けれどハインリヒは、今はにこりとも笑わない。
 役者であり、このベッドの本来の持ち主であるグレートに敬意を表して、ここははっきりと微笑んで見せるのが礼儀だったろう。たとえ今が真夜中で、場末の舞台ですらなく、脚本も用意されてないとしても。
 グレートがようやく、ハインリヒのおかしな様子に気づいたのか、体を起こして、ベッドの上でハインリヒと向き合った。
 「おい、頼むから、どこか体の調子が悪いなんて言ってくれるな。」
 普通の人間以上に、"体"の調子が悪いというのは、ふたり---とその仲間たち---にとっては重大問題だった。
 ハインリヒは首を振って、いよいよわからないという顔をするグレートに、真顔のまま口を開いた。
 「結婚しないか。」
 それはまるで、いつの間にか体が入れ替わってしまったとか、グレートが変身したまま元へ戻れなくなったとか、ハインリヒが24時間笑っているとか、そんなふうに耳に響いて、まずは、一体誰のことを言っているのだろうかと、グレートはそちらへ思考の矛先を向けた。
 「結婚?」
 ああ、とハインリヒが、パジャマの衿元を右手で握って、うなずいた。
 今来ている、お揃いの水色のパジャマは、一緒に寝ているベッドの大きさ以上に、ふたりの間柄をきちんと示していたけれど、それが、今以上のところへ進展できるとは、ふたり揃って考えたことはない。はずだった。
 「おまえさんと、おれとが、か?」
 怒らせることを承知で、グレートは確認を取る。色の薄い頬を、今は赤く染めて、戸惑いながら、ハインリヒがまた深くうなずいた。
 「今なら、俺たちだって、そうできる。アメリカかどこか、行くところへ行けば、ちゃんと書類にサインもできる。」
 できる、ということと、する、ということの間には、大きな違いがあって、もちろん、選択すらなかった、ほんの少し前のことを考えれば、それは偉大な変化ゆえであり、その変化に、グレートは大きな感謝を示すことにやぶさかではない。
 けれど、それが、自分のためだから、というわけではなかった。少なくとも、今夜、ほんの少し前までは。
 「おまえさん、一体どうした? ほんとうに、どこも具合は悪くないのか。」
 ふざけたつもりはなく、ハインリヒの額に手を伸ばす。熱はないかと、確かめるその仕草に、ハインリヒが怒ったように顔を傾けて、グレートの手をよける。
 深く考えたことのないことだった。突然、急に、まるで突き飛ばされるように、目を覚ましたのは、グレートとの結婚という、途方もないアイデアのためだったのだと、それを伝えたくて、今はとどろいている胸の内を共有したくて、眠っていたグレートを起こしたことを、ハインリヒは、ほんの少し後悔し始めていた。
 「・・・あんたは、そんなこと、考えたこともないのか・・・?」
 卑屈な質問だと、思いながら、悔しくて口を動かす。負け惜しみは、グレートを戸惑わせるだけだと知っていて、それでも、あっさりと、期待したようには反応してくれないグレートを困らせたくて、ハインリヒは唇を結んで下を向いた。
 案の定、困惑の表情いっぱいに、頬骨の辺りを指先で撫でながら、グレートが唇を突き出す。
 「・・・おまえさんは、おれとその、結婚とやらを、したいのか?」
 「あんたはしたくないのか?」
 質問に、質問で答える。姑息なやり方だ。グレートを、心の底から困らせることができる、数少ないチャンスではある。まるでゲームのように、ハインリヒは言葉を選び始めていた。
 「あんたが女に化ければ、普通にだって結婚できるだろう。」
 「書類はどうする? おれは女用の身分証明書なんか揃えられないぜ。」
 「書類の偽造くらい、イワンがいくらでもやってくれる。」
 話の方向がそれてしまっていることに、ふたりで気づいているのかいないのか、修正もしないまま、ついにはイワンまで、共犯者の候補に上げられてしまった。
 「イワンに一体なんて説明するつもりだよ、ハインリヒ。」
 「隠せっこないんだ、そのまま言っちまえばいい、俺たちを助けてくれって。」
 「赤ん坊になんてこと頼む気だ。情操教育に------」
 「今のは差別発言だぞ、グレート。」
 ぴしりと、硬い声がいっそう尖る。言葉尻をとらえられて、グレートはうっとつまった。
 それから、ふたりで赤い顔をして、にらみ合うように見つめ合って、けれど、先に顔の向きを変えたのは、ハインリヒの方だった。
 パジャマの衿元を、また改めて握りしめて、その手が震えている。それを見て、グレートは、自分の心がひどく痛むのを感じた。誰かを、思いもかけずに傷つけてしまった時の、心の痛みと似ている。けれど、こんな羽目に陥ったのは、そもそもおまえさんが悪いんじゃないかと、喉の奥で言葉にならないつぶやきを、もごもごとこぼす。
 ハインリヒの方はと言えば、突然突拍子もないことを言い出してみた自分を、くるくると丸めて、ベッドの下に隠してしまいたい気分だった。
 まるで子どものように、素晴らしい思いつきだと、言って褒めてもらいたかったのだ。そうしたいというわけではなく、そうできるのだと、何て良い考えだろうと、そうやってただ、グレートに同意して欲しかったのだ。
 結婚という、人間の取り決めた約束事に、関わる余地を与えられたことを、生き永らえたことの褒美のように、体は斜に構えながらも、心の中ではひそかに喜んでいたのだと、ハインリヒは今さら気づいている。
 その喜びを分かち合いたくて、喜んでいるのは、自分だけではないのだと知りたくて、けれど結局は、グレートをただ困惑させただけなのだと、知りたくはなかった。
 このみっともない言い争いの場を、どうおさめようかと、そちらに思案を向けた時に、グレートが、ひどく優しい声を出した。
 「なあ、アルベルト。」
 グレートが、ハインリヒをそんなふうに呼ぶのは、特別な時だけだ。その声に、思わず顔を上げると、声と同じほど優しい瞳が、苦笑いを混ぜて、こちらを見ていた。
 「おまえさんがそうしたいなら、そうしたっていいさ。」
 やわらかな声が、そこで一度途切れた。 
 「みんなを呼ぶでも、ふたりきりでも、おまえさんの好きなようにすればいい。」
 いきなりそんなふうに、物分りのいいことを言われれば、今度はハインリヒが戸惑う番だった。
 現実に、ほんとうに、そんなことをしてしまいたいわけではないのだと、言おうとする前に、またグレートが言葉を継ぐ。
 「ただ、神さまの前で誓うのだけは勘弁してくれ。」
 なるほど、書類で遊ぶのも、真似事だけまでなら妥協してもいいと、そういうわけかと、少し興醒めして、ハインリヒはわずかにわいた腹立ちに、奥歯を噛んだ。
 同じことを言い出されれば、自分だって、お遊びと現実の線はきっちり引くだろうことは容易に予想はついたけれど、目の前にその線を引かれてしまう立場になれば、相手の計算高さにうんざりする。自分のために羽目を外してはくれないのかと、身勝手なことを思って、そうして、そんな自分にも嫌気が差した。
 酒でも飲みたいと思って、不貞腐れているつもりで、自分が、泣きそうな表情をしていることに、ハインリヒは気づかない。
 なあ、とまたグレートが声を細く出して、それから、ハインリヒの頬に掌を伸ばしてきた。
 暖かな指先に、少し照れたような声が続く。
 「何て言うか、その、おれはもう、死神に誓っちまってるんでね。とっくの昔に。」
 役者の使う声は、細くても小声でも、しっかりと通る。たとえ、ほんとうなら顔の見えない、薄闇の中でも。
 「浮気はおれの甲斐性じゃないんでね。誓うのは、ひとりでいいんだ。」
 そうだろうと、上目にはしばみ色の瞳が言う。
 「もちろん、おまえさんが、声に出して誓えって言うんなら、喜んでそうする。」
 最後の部分に、やけに力が入った。
 また先走って、ろくでもない勘違いをしたと、ハインリヒは頬を染めた。
 グレートの手に、やっと素直に顔を傾けて、呆れられていたわけではないのだと、安堵の表情を口元に刷いてから、意外にも必死の口調だったグレートに、そっと微笑む。
 「・・・あんたの口のうまさには、神様だって丸め込まれるさ・・・。」
 頬に触れていたグレートの手を取り、それを右手に持ち替えてから、ハインリヒはグレートを引き寄せながら、自分の体を押し付けに行った。
 そうして、グレートをまた枕の上に押し倒しながら、その口を、少なくとも生身には見える左手で覆う。
 すっかり覚めているグレートの大きな目が、いっそう大きく見開かれ、ふさがれた唇が、掌の舌でもごもごと動いていた。
 見下ろして、うっすらと笑ったまま、掌では覆いきれていないグレートの、四角いあごに唇を落とす。
 「喜んで誓うって、言ったろう。」
 掌をずらして、指先を唇に這わせ、その動きに、自分の唇を追わせた。
 良き時も、悪しき時も。富める時も、貧しき時も。健やかなる時も、病める時も。
 誓うのは、死神の前で。
 重なった唇の奥で、I do、とグレートがつぶやいた。

ミドリさまに捧ぐ。
* 2004年9月、イベントにて無料配布 *

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