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This Love

 すでに頬も首筋も赤く、頭頂部も辺りもうっすら赤みが広がりつつあった。
 見た目ほどは酔ってはいなかったし、実のところ、顔に出ている酔いの色は変身能力の賜物でもあったのだけれど、グレートはそんなことはおくびにも出さずに、ただじっと斜め向かいのハインリヒへ目を凝らしていた。
 いつもなら、こんな不躾な視線には冷たい一瞥を返して来るのに、今はグレートの酔い加減を見て、そしてハインリヒ自身もそこそこ酔いが回っているのか、グレートの視線を横顔に受けたまま、それに気を悪くしている様子もない。
 いい眺めだ。
 目の高さにグラスを持ち上げ、片方の目はそれ越しに、ハインリヒをまた見つめる。ゆるやかに氷を溶かしてゆく琥珀色の液体の、輝くような照りに対しての賛辞か、それとも目の前の、決して溶けない氷の彫刻の如き全身武器のサイボーグが、軽く回った酔いに、耳朶からあご、そこから首へ降りて鎖骨へ至る線をごくわずかに赤く染めているその眺めのことか、グレート自身もどちらとも言い切れずに、また同じ台詞を胸の中で繰り返した。
 思ったより酔ってるな。
 これも、自分自身のことか、ハインリヒのことか、どちらとも自分で分からない。
 酒がなくても、グレートの心全部を捉えてやまない彼だった。中身とその見掛けのよく似た、そのくせまるきり似ていない、彼は極めてアンビバレント──Vの音で、無意識に唇を深く噛んだ──な存在だ。存在自体が芸術めいて、ちょっとその方面をかじった人間なら、ひと目で魅かれずにはいられないだろう。
 美しいと言う表現が、彼の前では恐ろしく陳腐になる。端麗と言うなら言えないこともない。けれどそれも少し違う。彼を表すには、少し収まりが悪い。
 まだグラスを顔の前に上げたまま、酒とハインリヒを同時に眺めて、ああ、おれは両方に酔ってるなと、グレートは思った。
 時々、心の中で、グレートはハインリヒを麗しの君と呼ぶ。そう呼ぶのがせいぜいの、自分の語彙の貧弱さを、思い知ったのはハインリヒに出会ってからだ。シェイクスピアを引用しようと、どれだけ、自らが演じた役の台詞を持ち出そうと、ハインリヒをこうと表すひと言を、いまだグレートは見つけ出せず、今ではまるであてのない宝探しのように、グレートは見つからないことを楽しむ深みにはまって、そうして自分は、この男に惚れてしまっているのだと素直に認めざるを得なくなった。
 ああちくしょう、何てこった。
 それは、愉快な発見だった。探していた宝はこれだったのかと、まるで初恋の少年のように、グレートは薄い胸を弾ませ、はしばみ色の瞳をハインリヒにひたと当てて、自分の燃え立つ血──にせものではあっても──の赤さと熱さを、皮膚の下に感じたものだ。
 ああそうだ、恋とはこのようなものだった。
 舞台の台詞のように、ちょっと気取って、ひとりごちる。様々演じて来た恋の、どれとも似ても似つかない、ハインリヒへの恋だった。
 吾輩ともあろう者が、よりによって──皮肉屋でほんとは淋しがり屋で、強がりばかりのロマンチストで、芸術は解しても恋心は解さない野暮天に──よりによって、ハインリヒに──
 若者の恋のような、身を焦がすような激しさにはやや足りず、それでもグレートの血は沸き立った。皮膚の下がほのあたたかく、彼を見るたび自分の瞳孔がはっきりと開くのが感じられた。まるで乙女のように、輝く瞳を見開いて、ハインリヒの一挙一動を追い、水色よりさらに淡いあの青い瞳が時折自分の視線を捉えて、何やら不思議そうに見返して来るのに、グレートはさっと道化者の仮面をかぶって視線の色を隠す。
 痴れ者と思われるのは構わない。けれど恋する者と見破られたくはない。
 この恋を失っては、もう生きては行けないのだから。
 そうだ、これはきっと、おれの最後の恋だろう。初めての恋とはまったく違う色合いで、違う深さで、胸に食い入って来る。苦しく、愉しく、悲しく、淋しく、そして切なくて、喉の奥に苦さと甘さが同時に広がって来る。
 グレートは、氷と酒の境目に視線を当てて、ぐいとひと口、酒を飲んだ。喉と胸を焼いてゆく。これはハインリヒへの恋ではなく、酒の熱さだ。
 飲み下して、またそれが自分の頬へひと刷け赤みを重ねるのを、グレートは酔いとごまかしてみる。
 ──違う、酒ではない。酒の酔いではない、これは恋だ。苦くて、苦しくて、だからこそいとおしくてたまらない、大事な大事な恋だ。苦痛となっても手放せない、グレートにとっては、かけがえのない恋だ。
 ハインリヒが何か言う。彼自身は知らないけれど、こうやって聞くハインリヒの声は、ベルベットの手触りだ。人工脳の、特別な部分に、グレートはその声を刻み込む。自分の名を今呼ぶハインリヒの、やや低い、穏やかに円いその声を、グレートは世界最高のバリトンと言う名前をつけて記憶する。
 しまらないグレートの口元を、ハインリヒが指差して笑う。右手の、マシンガンの銃口が、無邪気にこちらに向けられる。その信頼を、グレートは心地良く受け入れる。
 我が戦友(とも)よ。我が愛する人よ。我が最期の、心の恋人よ。
 あくまで悪ふざけを装って、本気のあれこれを、グレートは胸の中に並べた。どれも、ハインリヒには決して届かせずに。
 爪先だけをひたしてみたつもりだった、グレートの本気の恋は、いつの間にやら首を過ぎて鼻先までどっぷりとつかり切って、もう呼吸などとうに忘れてしまっている。息をするよりも極楽だ。
 死んでもいいさ、おまえさんのためなら。
 いやむしろ、おまえさんのために死にたい。
 サイボーグの身には空々しい物言いと分かっていても、そう考えずにはいられない。死んでもいい。おまえさんのために死にたい。
 そう言ったら、ハインリヒは笑うだろうか。笑われたところで、その笑い方さえたまらなく魅力的にこの目には映るのだろう。
 処置なし。グレートはまた唇の端を苦笑にゆるめた。救いがたい、この愚かさ。そしてその愚かさすら、いとおしいものに変えてしまう、この恋。
 ああそうだ、おれはおまえさんにイカれちまってるんだ。
 「──グレート?」
 ハインリヒの、酔いにさらに丸みを帯びた声が、グレートの耳の中に染み込んで来る。
 「何だ寝ちまったのか。このくらいでだらしないな。」
 ハインリヒは立ち上がり、そっとグレートの傍へ近寄ると、まだしっかりと握られているグラスをそっと手から取り上げた。
 グレートはもう、半ば夢の中でハインリヒの気配を感じ取っていた。
 「・・・酔いつぶれちまったあんたは──」
 ハインリヒが、さらに低めた声で何か続けたけれど、グレートはもうそれを聞いていず、言いながら酔いではなく頬を赤らめたハインリヒの、まだ誰も見たことのない表情を、グレートは夢の中で見たのかもしれない。
 取り上げたグレートのグラスの中で、ハインリヒの掌の温度で氷が溶け続けていた。その酒をひと口すすり、小さな、けれど深い深いため息を、ハインリヒはひとつきり足元へこぼす。
 グレートと、もう一度小さく呼んだハインリヒの声に、どこか甘い切なさがにじんで、わずかに瞳孔の開いた瞳で、ハインリヒは寝入ってしまったグレートをひとり見つめ続けていた。

* 7/4は74の日、Twitterでのプチ祭りに強引参加。
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