真実の恋



 グレートが、お茶を運んできてくれるのは、別に珍しいことではない。
 小さなテーブルに、向かい合って坐って、それぞれが勝手に本など読みながら、ミルクのたっぷり入った紅茶を、すする。
 ギルモア邸内は、一応どこも禁煙が建前---ギルモア博士だけは、フランソワーズから、例外のお墨付きをもらっている---なので、ここにも灰皿はない。
 夜も更ければ、紅茶の代わりに、酒のグラスなどが出てくるのだけれど、今はまだ、夕食の時間にすら、少しばかり遠く、酒の気は、あまり相応しくはない。
 ギルモア邸は、静かだった。
 みな、それぞれが出払ってしまっていて、ギルモア博士は、少し込み入った調べものがあるからと、午後早くからずっと、地下室にこもっている。
 イワンは、今は眠りの時間だ。
 ここにお茶を運ぶ前に、ギルモア博士にも、一休みのためにお茶を運んで行ったと、グレートが、にっこり笑って言った。
 いつもなら、必ず他の誰かの気配のある、むしろ騒々しいほどのギルモア邸が、今日は、静かだった。
 静かに本を読むなら、とてもいい日だと、ふたりで口にせずに、一緒に思う。
 時々、それぞれ、読んでいる本から顔を上げ、ふたりでにっこりと微笑み合う。
 明るい午後だった。


 下心というほどでもないけれど、珍しく誰もいない邸内で、ハインリヒと、ふたりきりでいたかった。
 ドアは必ずノックされるにせよ、ふたりでいる時に、ドアが開くのは好きではなかったし、廊下をばたばたと歩いてゆく気配も、できればない方がいい。
 一緒に何かするつもりはなくても、ただ、同じ部屋で、向き合って、本を読むのも悪くはない。
 同じ空間で、同じ時間を、違うように過ごすというのは、ひどく贅沢なひとときだった。
 サイボーグたちが、賑やかに住む、大きなギルモア邸の中では、もちろん家という空間ではあっても、そこに、個人的な空間の空気は希薄で、共同生活は楽しいけれど、たまに、ひとりになりたくもなる。
 正確には、ハインリヒと、ひとりでいたくなるのだけれど。
 プライバシーというのは、あり過ぎればうっとうしいし、なければ、自分の中が、常に脅かされているような、そんな気分になる。
 何ごとも、適当というのがいちばんだなと、グレートは思った。
 もっと若ければ、ことを大っぴらにして、てんとして恥じもせずにいられるのかもしれない。けれど、大人と言われる年齢に達している今、みなの前で、堂々と、恥ずかしげもなく振る舞うには、デリカシーというものを、すでに深く学んでしまっている。
 それは、グレートよりもずっと年下の、ハインリヒも同様だった。
 みながすでに知っているにせよ、知らない振り、知られていない振りをするのは、大人の礼儀だった。正確には、共同生活のマナーでもある。
 だから、こんな機会くらい、ふたりきりで、少しだけ、恥を忘れてみたいと思った。


 何となく、グレートが、そわそわしているのが、伝わってきて、ハインリヒは、こっそりと、声が上ずるような、そんな気分を味わっていた。
 何度も、心臓が、大きすぎる音を立てていないか、確かめる---もちろん、そんなことはできはしないのだけれど---ために、今は手袋のない剥き出しの右手を、胸に当てる。
 子どもではないふたりは、別に、熱烈な言葉を掛け合うこともなく、むしろ淡白過ぎるほど淡々と、いわゆる恋人同士と言われる関係になってしまったけれど、実のところ、ハインリヒは、いつだってグレートに、浴びせたい言葉の数々を、喉元で抑えるのに、必死になっている。
 好きだと、もっと言ってみたいと思ったり、もう少し、あからさまな語彙を使ってみたかったり、どうして自分を好きなのかと、問いつめてみたかったり、そんなことを、無駄に、繰り返し繰り返し考えながら、いつだって唇は、開きたくてうずうずしている。
 ジョーとフランソワーズのように、周囲に気兼ねもなく、手を取り合ったり、互いにいたわり合ったり、そんなことをしてみたいと思う自分がいて、そう思う自分に、とても驚いて、戸惑っている。
 そんなことをしても、誰も顔をしかめるようなことはないとわかっていても、自分たちの関係の不自然さ---サイボーグ同士であること、男同士であること、何より、ふたりとも、若くはないこと---を思うと、人前ではしゃぐ気も、自然に失せる。
 分別があることは、素晴らしいことではあるけれど、同時に、つまらない、退屈なことでもあるのだと、ハインリヒは初めて思い知っていた。
 素直に、自分の気持ちに正直に振る舞うのに、ひどく勇気がいる。
 自分という人間の、面倒くささまで、まとめて受け止めてくれようとするグレートに、心の底から感謝しながら、その面倒くささを脱ぎ捨てられない自分に、焦れている。
 何度目か、胸に当てた右手を、眺めて、それから、ちらりとグレートを見た。
 わざとらしくないように、精一杯気をつけながら、紅茶のカップに手を伸ばす振りをして、ハインリヒは、右手を、テーブルの上に、そっと置いた。


 気配と、小さな音と、気がついて、グレートは、上目に、テーブルの上を見た。
 読んでいた本から、視線をずらしただけで、顔は動かさず、もう少し先の、テーブルのあちら側を見る。ハインリヒが、本に視線を落としたままでいた。
 テーブルの真ん中に置かれた、鉛色の手。触れれば硬く、冷たいその指先の、マシンガンの先端の、硝煙の匂いを思い出す。
 誘いだろうかと思って、その手を握りたいけれど、握ってもいいものだろうかと、また本のページに視線を戻しながら、考えた。
 誰もいない。ふたりきりだ。
 誰もがすることだ、別に、珍しくも何ともない。
 普通の、恋人同士であれば。
 普通ではない要素ばかりのふたりの間では、けれど、手を繋ぐことさえ、どこか憚られるものがあって、そんな親密な仕草は、相応しくないのだと、どこかで思い込もうとしているところがある。
 グレートは、本を読んでいる振りをしながら、考えた。
 好きだという気持ちと、ハインリヒを見るたびに、苦しくなる胸の内と、触れ合いたいという気持ちと、手を繋ぐことと、そして、躯を重ねたい---たとえそれが、生身ではなくても---と思うことと、それぞれが、心の中にあって、絡み合って、躯を重ねながら、手を繋ぎたいと思ったり、好きだと思いながら、けれどそれは肉欲だけではないのかと、自分の内側を覗き込んだり、そんなことを繰り返しながら、グレートは、自分の中の、ひどく引っ込み思案な少年の存在を、自覚していた。
 ハインリヒを見るたびに、その少年が、顔を出す。
 胸をときめかせて、頬を赤らめて、言葉さえうまく紡げずに、ただ、想いだけのあふれた視線を、必死の思いを込めて送る。
 気づいて欲しい、受け止めて欲しい、受け入れて欲しい、好きだと、言って欲しい。
 互いに近づいて、手を差し出し合って、抱き合って、口づけを交わしたい。
 そこから先のことなど、その少年には、想像すらできない。
 大人のグレートは、その少年の純情さを笑いながら、同時に、その純粋さを、うらやましいと思う。
 少年が、ハインリヒを、うっとりと見つめている。
 大人のグレートは、大人の下心を、はっきりと自覚しながら、差し出されたハインリヒの手に、ゆっくりと、自分の掌を重ねた。


 端から見れば、滑稽な眺めなのかもしれない。
 本を読みながら、互いの視線を避けながら、掌を重ねる。
 手は、ゆっくりと動き、ずれ、指に触れる。
 指は、唇の代わりに、言葉ではない言葉を交わし、絡まって、親密さをあらわすように、動く。
 互いの、掌の形を確かめ合うように、撫で、滑り、絡んで、いつの間にか、力を込めて、握り合う。
 動きすぎた手が、時々、テーブルの上のカップに当たって、かしゃんと音を立てた。
 自分のよりも、薄くて小さなグレートの手を握りしめて、ハインリヒは、どくどくと音を立てる早足の人工心臓の音を、耳の後ろに聞いていた。
 グレートの、節の高い、けれど形のいい指と指先が、自分の、無骨な機械の手を握り返してくる。
 こんな手を握らせるのが、申し訳なくて、少し悲しくなる。
 握手ではない。争うためでもない。親密に、触れ合うために、重なる掌。
 ようやく、本から視線を外して、その、重なった手を見やる。
 生身に見えるグレートの手が、自分の手を握っている。離さない、離したくないと、指先がそう伝えているように思えたのは、やはり自惚れだったのだろうか。
 ふたつの手から、グレートに、ゆっくりと視線をずらした。
 ひるむほど、強い光で、自分を見つめている瞳に、ぶつかった。
 はしばみ色のその視線に、一瞬、射すくめられたように、ハインリヒは驚きで肩を引いて、思わず、腕を引きかけた。
 グレートの手が、いっそう強く、ハインリヒの手を握りしめた。
 力強い、普段のグレートからは、想像もできない力だった。
 引き寄せられて、テーブル越しに、目を閉じる間もなく、グレートの唇に、接吻されていた。


 せっかちだなと思って、自分が、ひどく衝動的になっているのに、気づく。
 理性は、どこに行ったのだろうと思った。
 接吻は、いつもほど技巧的でもなく、むしろそんなことはどうでもよくて、ただ、その唇に触れたかったのだと、また気づく。
 いつものポーズは、どうでも良くなっていた。
 かっこつけも、見栄も、今はそれよりももっと大事なものがあるような気がして、大人なはずの自分が、そのことしか頭にないティーンエイジャーのように、ハインリヒと親密に触れ合いたいと、全身で叫んでいる。
 ようするに、やりたいのだという、素直な答えに、グレートは、こっそりと仰天した。
 なるほど。ふたりきりで。邪魔はいない。いわゆる、絶好のチャンスというやつだ。
 示し合わせて、授業を抜け出して、働いている親の、いるはずもない家に、ふたりで戻る。ソファの上で、熱烈に抱き合って、無言でうなずき合ってから、自分の部屋へゆく。
 小さな、狭いベッドで、先走る気持ちに任せて、不器用に、抱き合う。
 好きな誰かと抱き合うという、大人の世界に、こっそり踏み込んだのだという充足感と、抜け駆けというわくわくする気持ちと、実際のところ、大事だったのは、そんなことばかりだった。
 あの頃のように、子どもではないグレートは、ハインリヒと、もっと親密になりたくて、今はせっかちに、先へ進もうとしている。
 恥も外聞もない。あるのはただ、目の前の、銀色の髪をした、年下の男が、いとしくてたまらないということだけだった。
 もう一度、引き寄せて、今度は、もっと優しく接吻した。
 唇がまだ、触れ合いそうな近さで、グレートは、正直に言った。
 「おまえさんと、その、したいんだが・・・。」


 つまりは、こんなことに関するすべては、滑稽なのかもしれない。
 正視に耐えるとは、とても思えない裸を晒して、正視に耐えない姿勢で、正視に耐えない振る舞いをする。
 その滑稽さに、ともに耐えることが、愛情なのかもしれない。
 ハインリヒは、喉の奥で、くすりと笑った。
 その滑稽さもすべて含めて、グレートをいとしいと思った。
 こんなあからさまな誘いを、飾り気もなく仕掛けてくるグレートの、その無我夢中さが、たまらなく可愛らしかった。
 「・・・偶然だな。」
 小さくささやき返してから、それから、まるで、犬が骨にむしゃぶりつくように、互いにむしゃぶりつきながら、夢中で、ベッドへ行った。
 服を脱がす手間さえ、惜しんだのもお互いさまで、手を繋ぎ合うのに、あれだけためらったのがうそのように、ふたりそろって、せっかちに、先へ先へ進もうとする。
 たがが外れたように、いつもなら殺す声も、今日は遠慮もなく、何より、部屋の中の明るさに、ひるみもせず、ハインリヒは、グレートを、近く近く抱き寄せた。
 誰かが、じきに戻ってくるかもしれないと、一片残った理性で思いながら、ハインリヒは、心の底からの微笑みを、何度も下から、グレートに送った。
 親密になるのには、様々な段階がある。
 手を繋ぐことよりも、躯を重ねる方が、親密だとは限らない。
 どこかで、手を繋いで、互いに見つめ合いながら、散歩でもできたらいいのにと、ハインリヒは思った。
 「今度、どこかに、ふたりで、一緒に行こう。」
 グレートの額に、口づけながら言った。
 「ふたりきりで?」
 グレートが、少しだけ不思議そうに、訊き返してきた。
 「そう、あんたと、ふたりきりで。」
 動きを止めたグレートが、ひどく照れくさそうに、うれしそうに、笑った。
 その笑顔に、また、恋に落ちながら、ハインリヒは、機械の右腕を、グレートの首に回して、口づけるために、引き寄せた。


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