浮気心を弔う鐘



 ただ、大きいだけのマグカップに、いれたばかりの紅茶を注いで、ミルクを入れて、グレートの分と、自分の分と、両手がふさがっていたので、爪先で、乱暴にならないように、ぶ厚い木のドアを、とんとんと蹴る。
 最初のとん、の部分で、どうやらきちんと閉まっていなかったらしいドアが、きいっと中へ開いた。
 開いたドアの向こうに、グレートの背中が現れ、そこから、鼻歌が聞こえ、足元は、軽やかなステップを踏んでいた。
 目の前に、パートナーがいるつもりの、小さなダンスらしく、見えない腰に回しているらしい腕や、軽く手を乗せているつもりらしい、上に向いた掌や、けれど、きちんと伸びた背や腰に、思いがけない華やかさを見つけて、ハインリヒは、そのお遊びに、一瞬見惚れた。
 さすが、役者だけのことはあると、納得してから、熱い紅茶のことを思い出し、目の前の、ささやかなショーを中断させることに、ほんの少しためらってから、開いたドアを、しっかり聞こえるように、とんとんと蹴った。
 「優雅な休憩じゃないか。」
 動きを止め、背中を伸ばしたままでこちらを振り返ったグレートは、照れもせずに、おまえさんかと、やっと腕を下げる。
 「息抜きさ。なかなかいい文章が浮かばなくてね。」
 こちらにやっと体を向けて、肩越しに、窓際に置いてある、机の上のタイプライター---書き損じらしい紙が数枚、傍に見える---にあごをしゃくって、グレートはハインリヒの傍へやって来ると、その手から、マグを受け取った。
 「で、今度こそ、その、あんたの世紀の大作とやらは書き上がりそうなのか?」
 机の方へ歩いて行きながら、にやにやと言ってみた。
 書きかけのそれを、読むつもりはなかったから、机から数歩のところで足を止めて、まだ開いたままのドアの傍にいるグレートに振り返り、肩をすくめて見せてから、紅茶を一口すする。
 「偉大な作品に没頭するには、雑念が多すぎるのさ。」
 「どこか、人里離れた一軒家にでも、一冬こもってみるかい?」
 「やめてくれ、ホラー作家なんざごめんこうむる。」
 ジェットが一時夢中になっていたスティーブン・キングは、グレートのお気に召さなかったらしい。
 それなら読んでみようかと、天邪鬼なことを思って、ハインリヒは、またマグに唇を近づけた。
 紅茶を置いたら、邪魔はせずに、すぐに部屋を出て行くつもりだったのに、おそらくもう、書く気などすっかり失せているのだろうグレートの前から、そのまま立ち去れずにいる。
 それはあの、まっすぐに伸びた、ひどく優雅に見えた、グレートの踊っていた背中のせいに違いなかった。
 「・・・あんたも、踊れるんだな。」
 「ん? なんだ?」
 まだ熱い紅茶の湯気越しに、グレートが、素っ頓狂な声を出す。
 「あれも、役者のたしなみのひとつなのか。」
 意味もなく、声が真剣になった。
 「あのくらい、誰だってやるだろう。」
 ずずっと、紅茶をすする音がする。涼しい声でそう返すグレートに、ほんの少しだけ腹を立てて、ハインリヒはひとりで奥歯を噛んだ。
 「そんなことはないさ。俺は、踊れない。」
 「全然?」
 「全然。」
 「まったく?」
 「まったく。」
 「まるっきり?」
 「まるっきり。」
 まるで、冗談のように、言葉を重ねるグレートの付き合って、何度もうなずいて見せながら、まるでどうだと胸を張るように、ハインリヒは、喉を伸ばして紅茶を飲んだ。
 「それなら、ワガハイが、お相手つかまつろう。」
 にっこりと笑って、グレートがドアを閉めた。


 立ち姿を正されてから、前に立ったグレートの腰に、腕を回さされ、それから、小さなレッスンが始まる。
 右、左、前、後ろ、向かい合って、手足の動きを揃えて、背中はひたすら伸ばしたまま、意外と、それだけで疲れてしまうものだと、驚きながら、グレートの爪先を踏まないことだけで精一杯だった。
 下を見るなと、何度言われても、うまく動かない足を心配して、視線が下へ行く。
 こんなややこしいことを、よくやれるもんだと、半ば投げやりになりながら、喉の奥でつぶやいていた。
 グレートは、さすがに軽々と動きながら、ハインリヒの肩に乗せた手にも、重さすらないようで、女性が務めるポジションに、よどみなくおさまっている。
 それでも、女性を相手に踊ることでもあれば、りっぱに男性パートナーの役をこなしてしまうに違いなかった。
 堂々と胸を張って、自信たっぷりに、けれど決して嫌みな様子は見せず、ただ、ひたすら優雅に、くるくると床の上に爪先を滑らせて。
 グレートは、さっきひとりで、誰と踊っているつもりだったのだろう。
 ふと、そんなことを思って、一生懸命グレートの姿勢を思い出して、それがもちろん、男性のポジションだったことを思い出しながら、グレートの目の前にいた、架空のパートナーの見えない姿を、そこに見極めようとする。
 ドアを開いて、そこに立つ自分を、グレートの肩越しに見たに違いない、そして、ハインリヒも、うっかり視線を合わせてしまったに違いないそのひとに、あれは、嫉妬だったのだと、思い当たる。
 誰のことを思いながら、腕を上げ、背中を伸ばし、爪先を滑らせていたのだろう。そこにいたのが、自分ではないことにだけは確信を持ちながら、ハインリヒは、胸の痛みを、勝手に持て余していた。
 体の横に上げて、伸ばしていた腕を、乗せていたグレートの掌ごと、自分の胸に引き寄せる。
 ややこしいステップを踏んで、あちこちにさまよっていた爪先を止めて、ハインリヒは、もっと近くにグレートを抱き寄せると、その肩に額を乗せた。
 「どうしたぃ? 疲れたか?」
 怪訝そうな声に逆らうように、腰に回した腕に力を込めて、それから、胸の前のグレートの手も、ぎゅっと強く握った。
 「・・・何でもない。」
 察しのいいグレートが、ハインリヒのそんな言葉を信じるはずもないことなど、百も承知の上で、静かにそう言った。
 ふうっと、息を吐いた音が聞こえて、呼吸につれて、グレートの背中がゆるく動く。
 グレートがいつか、恋の物語を完成させたなら、その中に登場するすべての女たちに、自分は嫉妬するのだろうかと、情けない思いに、強く瞬きを繰り返した。
 「アルベルト。」
 滅多と呼ばない、ハインリヒの名前を呼んで、グレートの、まだ肩に乗っていた手が、優しくハインリヒの背中を撫でる。
 慰められているのだと思って、ハインリヒは、情けない表情だろうそのまま、顔を上げて、グレートの前で唇を噛んだ。
 グレートが、まるで口づけをする時のように、軽く目を閉じて、喉を伸ばした。額と額を触れ合わせて、そうして、そこから注ぎ込むのだとでも言うように、グレートの唇が、ハインリヒの目下でゆっくりと動き出す。
 「"恋、それは夢見ること、燃え上がること、せつなく願うこと。敬愛、従順、崇拝、純潔、試練、忠実---これらすべてがフィービーのために僕が捧げるもの"(お気に召すまま)。」
 目を閉じながら、グレートの声を聞いた。
 発声が、骨を震わせる。それが、触れ合った額に伝わって、耳からだけではなく、ゆっくりと内側にしみ通ってゆく。
 グレートが、ゆるく、足元を動かし始めた。
 細い、けれど通る声で、何の歌なのか、英語には聞こえない歌詞を歌い出す。
 時々あやしくなる言葉と、発音に、くくっと笑いをこらえて、ハインリヒは、優しい歌を、触れ合った額で聴いている。
 グレートの、歌と動きに合わせて、肩を動かして、親密に触れ合ったまま、ふたりは、小さく踊り続けていた。


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