Very Mary Christmas



 会いたいと思って、すぐに会える相手ではないとわかっているから、グレートは、クリスマスが近づいても、電話すらしなかった。
 気を紛らわすために、クリスマスは、とっくに仕事を入れていたし、それは、会いたいという気分をどこかへ反らすのに、少しは役に立った。
 仕事でね、どうやらクリスマスが、身動きがとれなさそうだ。
 そう言えれば、クリスマスにどこかで一緒になって、ついうっかり気分が乗って、新年までずっと一緒にいる、などという愚かなことをせずにすみそうだったから。
 予想に反して、ハインリヒは、クリスマスが近づいてきても、電話一本よこさなかった。
 そうなれば、電話が来て、クリスマスはどうするんだと訊かれるものと構えていたグレートは、肩透かしを食わされた気分で、クリスマスまでのひと月、毎日、電話が鳴るたびに、ポストに封筒を見つけるたびに、どきりと心臓が跳ね上がった。
 待てども待てども、海の向こうの、滅多に会うことのかなわない、麗しの想い人は、沈黙を守ったまま、まるで空気の中へ消え失せてしまったようだった。
 生きてるのか?
 ふと、思う。
 仕事で事故でもあったのだろうか。どこかへ長距離の仕事で、もしかするとドイツにすらいないのかもしれない。それとも突然、日本でも呼ばれたのか。
 どういう事情にせよ、一言くらいあってもよさそうなもんだ。
 自分からは電話をしないくせに、連絡をよこさない年若い想い人を、グレートは恨めしく思う。
 会えば、何だかんだと口実をもうけて、できるだけ、出来ない無理をしてまで、長くいようとしてしまう、往生際の悪い自分を、グレートはよく知っていたから、あまり長い時間を一緒に過ごして、飽きられてしまうとか、嫌われてしまうとか、そんなことが起こるかもと思っただけで、背筋が凍る思いがする。
 自分から電話をして、冷たくあしらわれることを思うと、ダイヤルする指がすくむ。そんなことはないだろうと思っても、あまり誰に対して愛想がいいとは言えない彼が、もし機嫌の悪い時にでも行き当たってしまったら。そんな埒もないことを考えて、だらだらと時間は過ぎてゆく。
 どうしてるかと思ったのさ。
 そう言って、軽く笑えば、あちらもおそらく小さく笑いをもらして、忙しくてねと、短く返してくるに違いない。
 それだけのことなのに、受話器を持ち上げるだけで、心臓がどきどきと跳ねる。
 初舞台に上がる新米役者のように、何度も何度も台詞の練習をして、挙句に舞台の上でひどいへまをやらかす。そんな自分が、目の前にまざまざと浮かぶ。
 ワガハイともあろうものが。稀代の役者、グレート・ブリテンさまも、恋の病いの前には、手も足も出ないと来たもんだ。
 会いたいと、毎日どころか、1分置きに思う。触れたいと、抱きしめたいと、接吻を交わしたいと、そして、もし許されるなら、もう少し、ほんの少し先まで。
 会うことが、必ずしも膚を重ねるということにはならない、もう、若過ぎはしないふたりは、一緒にいる時間の長さにも関わらず、指先を触れ合わせることにさえ、ひどく過敏に反応する。
 恋の数は多くても、こんなに深く、心に染み通るような気持ちを抱いたことは、なかった。
 まるで、恋を知り始めの少年のように、美しい彫像のような彼の前に立つと、グレートはいつも、うっとりと体を硬直させる。心が震えて、そうとは知らずに、世界をそこで小さく閉じて、彼と自分と、ふたりきりが見つめ合える世界を構築してしまう。
 おまえさんしか、見えない。
 まるで、うわ言のように、そうつぶやいた途端、色の薄い頬に、ぱっと血の色を散らした、思いもかけないほど初々しいハインリヒを、グレートはまだ覚えている。
 あの頃と、あまり事情は変わっていないのは、我ながらお笑いだと思いながら、グレートは小さく苦笑をこぼした。
 向き合って、紅茶を飲む。
 ティーポットはきちんと温めて、紅茶の種類は、あまり変わった香りでない限り、ふたりともあまりこだわらない。その時手元にある紅茶を、飲む。
 熱い湯を注ぎ、少しばかり、濃い目に。それはグレートの好みだ。
 カップもきちんと温めて。華奢なティーカップではなく、ぶ厚い、掌に熱が伝わるのに時間のかかる、大きくて重い飾りのないカップは、ハインリヒの好みだ。
 砂糖を入れないのは、ふたりとも同じで、ミルクは、ハインリヒにはたっぷりと、グレートには、薄く茶色に色が変わる程度に。ふたりとも、クリーム入りの紅茶には、殺意にも似た気持ちを抱いている。
 テーブルに向き合って、紅茶を飲む。カップが半分ほど空になった頃、少し軽くなったカップを、ふたり、言い合わせたように片手だけで持って、空いた片手を、相手の様子を見ながら、そろそろとテーブルの上に出す。指先からゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、相手に近づいてゆく。
 ハインリヒの、鉛色の指先。闘いの時には、マシンガンとして機能する、死神と呼ばれる男の、右手。
 そのひと触れで、人の命を奪う死神の名にふさわしく、その手は冷たくて、硬い。けれど、その指先にたどり着いて、自分の、少なくとも生身に見える指で、指の間をなぞり、手の甲を滑り、そして、ようやく手を重ねる。
 視線を伏せ、長い時間をかけて、それからやっと見つめ合う。
 そんな時間を、グレートは恋しいと思った。
 クリスマスは、一緒に過ごす気はなかったのかと、ひそかにがっかりする。自分が撒いた種なのに、いざ刈り取る段になって、こんなはずではなかったと、自分勝手に後悔する。
 まったく、しょうのない男だな、ワガハイも。
 だから、嫌われても仕方ないのかもしれないと、ふと思って、ちくりと胸が痛んだ。
 もしかして、飽きられたのだろうか。嫌われたのだろうか。余計なことを言っただろうか。しつこくし過ぎたのか。優しさが足りなかったのか。皮肉が過ぎたのか。冗談ばかりだったか。思いやりがなかったのか。
 自分の言動をひとつびとつ数え上げて、やっぱり自分は、彼にはふさわしくないのだと、結論する。胸を痛める。涙さえ、出てくる。
 鏡をのぞき込んで、しみじみと自分を観察してみる。
 たるんだ口元や目元。しわもある。膚ももう、うるおいも足りず、まさしくしょぼくれた中年男の見本のような男が、そこにいる。
 情けない顔つき。凛々しいとか爽やかだとか、そんな形容詞は、逆立ちしても思い浮かばない、さえない容貌の、若くない男。
 お得意の変身能力で、もう少し見栄えのいい若い男か、きれいな女に化けてみようか。
 ふと、心にもないことを、考えてみる。
 そんなことをしたって、もちろん無駄だ。
 ハインリヒ。死神どの。我が麗しの、想い人。破壊の天使。闘いの守護神。誰よりも冷たい横顔に、誰よりも熱い心。氷の彫像のようなその外見に、機械仕掛けの、それでも脈打つ心臓を抱え込んでいる。
 会いたい、とグレートは思った。
 芝居の稽古に熱心なふりをして、昼近くに家に戻った。
 本音は、家にいれば、電話が鳴るたびに心臓が止まりそうになる、それに耐えられなくて、口実をもうけて、家に帰らなかっただけだ。
 ドアを開け、中に入る。空気の冷えたアパートメントの中に、もちろん誰かから連絡があったような気配もなく、空のままのアンサリング・マシーンを確かめてから、上着を脱いだ。
 また、ため息がもれる。
 まあ、自分が悪いってことさな。
 自分に言い聞かせるように、そうひとりごちた。
 煙草に火をつけたところで、こんこんと、小さなノックの音がする。
 怪訝な顔で振り向いて、たった今、自分が戻ってきたばかりのドアを、そっと開ける。
 「やあ、帰ってたね。荷物を預かってたんだ。」
 隣の部屋の、何をしているのかよくはわからないけれど、やけに愛想のいい若い男が、小さな包みを差し出した。
 そいつはどうも、と軽く言って、荷物を渡してくれる、若い男の、妙にまぶしい掌の皮膚をそっと盗み見る。
 ドアを閉めてから、包みの上の、宛名を見た。
 グレート・ブリテン様。
 線の硬い、そのくせ字を書き慣れた手の、文字。心臓が、どくんと跳ね上がった。
 慌てて裏に返すと、ずっと想い焦がれていた、名前が見えた。
 アルベルト・ハインリヒ。
 いつものグレートらしくもなく、思わずびりびりと、包みの紙を破っていた。
 白い封筒に入ったカード。
 メリークリスマス。クリスマスと新年を返上して、仕事の予定。1月の半ば辺りに、イギリスへ行くために。
 短く、彼の愛想と同じほど素っ気なく、それだけ書いてあった。
 追伸、風邪には気をつけて。
 余白の下に、また1行。
 包みの中身は、オリーブグリーンの、毛糸のマフラーと帽子だった。
 手編みだ、と思った途端、止まらずに、両方を胸に抱きしめていた。
 あの、体温のない、機械の手で、編んでくれたのだろうか。自分のために。
 しょぼくれた中年男の、元役者の、今はサイボーグの、自分のために。
 思わず涙が、浮かんだ。
 うれし過ぎて。自分の愚かさ加減が、おかしくて。
 ああ、おとなしく待ってるさ。
 手袋を、ドイツへ送ろうと思った。クリスマスに、プレゼントしようと、ひそかに選んでいた、上等の革の黒い手袋を、今日の午後に、店に行って買って来ようと、グレートは思った。
 カードには、あまり長々しいメッセージはやめにしよう。
 メリークリスマス。ハッピー・ニュー・イヤー。
 待ってると、一言付け加えて、それから、やはり、体には気をつけて、と。
 そう思ってから、グレートは首を振った。
 風邪を引くなら、ここで引いてくれ。そうしたらワガハイは、おまえさんをここに閉じ込めて、看病して、独り占めできる。
 悪くない考えだ、と思ってから、暖かそうな帽子を、頭髪のない頭に、ちょこんと乗せて、ひとりで笑う。


戻る