Vivid
長い間、世界には色がなかった。
白と黒ですらなく、様々な濃淡の灰色だけが、満ちていた。
その灰色の世界を、時間はのろのろと流れ、苦痛に満ちた永遠が、世界の隅々までを満たしていた。
鉛色の世界。自分の体と、同じ色合いの。
重く、堅く、何ものをも受け付けず、そして、冷たい。
呼吸さえも、鉄の匂いがするような気がした。
死んでしまいたいと、気が狂うほど望んだ。それさえも、許されなかったけれど。
ひとりきりだと、思っていた。
呼吸を続ける限り、ひとりきりなのだと、思っていた。
たとえば、ひとりが奇妙に肌寒い夜に、抱き寄せる誰も、一生いないのだと、思っていた。
狭いベッドで、くすくす笑いをもらしながら、相手が寝入るのを見守るような、そんな時間はもうないのだと、思っていた。
誰かに触れるには、この腕は、あまりにも冷たくて、硬過ぎる。
指先は、血に染まり過ぎている。
人でなしになった時、生身の体と一緒に、恋も捨てたのだと思った。
もちろん、そうなってまで、生き延びることを望んだわけではなかったけれど。
生きることを、選んだ覚えはなかった。
ひとりきりで生かされて、死ぬことは許されない体になっていた。
破壊はある、けれど、死はない。
灰色の世界で、自分も灰色に染まっていた。
絶望の色、悲しみと苦痛に満ちた色。目を伏せ、何も見たくなかった。
それから、彼がやって来た。
ひょろりと背の高い、まだ子どもくさささえうかがえる彼が、やって来た。
世界に、灰色の世界に突然色をふりまいて、彼はやって来た。
燃えるような緋い髪。赤い防護服に身を包み、黄色いマフラーをなびかせて、彼は空に舞い上がる。
重戦機のように、地上に縛りつけられた自分とは違い、彼は軽々と空を飛んだ。
まっすぐに目を上げて、よく笑う。
絶望の中に希望を失わず、いつも夢を語った。その、淡い緑に燃える瞳を、輝かせて。
生身でなくなった体に、人間のままの心を抱えて、自由を夢見ていた。
まぶしいほど、色に満ちていた。
灰色の世界は、少しずつ色塗られ、徐々にその輝きを、取り戻し始めた。
灰色の、機械仕掛けの心臓さえ、彼はその色を変えた。
心が宿るその場所に、彼は新しい色を塗り重ねた。
-----恋。もし、そう呼べるなら。
ひとりではなくなった時。また、ひとりぼっちではなくなった夜。
触れる相手、抱きしめる誰か、久しぶりに、誰かの寝顔を眺めた。
色に満ちた世界で、それでも自分だけは灰色のままだった。
皮膚も腕も、硬く冷たいままだった。
それでも。
オレは別にいいよ。アンタがアンタなら、オレはそれがいい。
いくぶん人間らしさを残した、彼の長い腕の中で、子どものように身を縮めて、泣いていないふりをした。
生きてみようと、思った。生き延びたことを、長い間、思い出しもしなかった神に、ふと感謝する。
今も、世界の中で、彼だけが鮮やかに浮き上がる。
緋い髪が視界をよぎると、すべてのものが色褪せる。彼だけが、鮮やかに見える。
それはまるで、生の証のように、いつも光り輝いている。
鉛色の体は、灰色のままだ。けれど、世界は今、色に満ちている。
ベッドが動いて、浅い眠りを破った。
目を開けると、もう昼に近い陽の光の中に、ジェットの姿があった。
「アンタが寝坊なんて、珍しいな。」
もうシャワーを浴びてしまったのか、髪から滴る水が見える。燃えるように緋いその髪に、横たわったままで、ハインリヒ7は手を伸ばした。
「夢を、見てたんだ。」
ジェットの眉が微かに上がる。それから彼は、ハインリヒの上に、体を落としてきた。
「どんな、夢?」
頬に添えられた掌の感触に、ハインリヒは目を閉じた。
ジェットの唇が、おはようのためのキスをする。濡れた髪の毛の先が、ハインリヒの髪も濡らした。
「色、の夢。」
キスが終わって、短く言うと、言った通りを訝しげに、ジェットが繰り返す。
緋い髪に、機械の指先を差し入れて、自分から引き寄せる。今度は、おはようのためではなく。
恋に色があるなら、この髪と同じ、鮮やかな緋色に違いないと、思う。
ハインリヒの、機械の掌に、ジェットの掌が重なった。
閉じたまぶたの裏に、金色の光の中で、真っ赤に溶けた鉛が、一筋の液体になって流れてゆくのを見た。
目を開け、また閉じて、それから、確かめるようにしっかりと、ジェットの背を抱きしめた。