名前が何なの?



 いろんな名前を持つ人間がいる。
 正確には、ハインリヒは人間ではなかったけれど、それでも、様々な名前を持っている。
 サイボーグとして改造された時には、004と呼ばれた。
 サイボーグになる以前、人間だった時には、アルベルト・ハインリヒという名前だった。
 両親に与えられたその名は、今の、サイボーグとなってしまったハインリヒには、人間らしさの名残りのようで、その名前を使う時には必ず、どこか、照れくささと、かすかな胸の痛みがともなう。
 全身兵器としての、サイボーグの能力を称して、死神とも呼ばれる。
 破壊と死をもたらす者、暴力と攻撃で、敵---多分---の戦意を喪わせ、戦いを終わらせる者。
 死神は、むしろ控えめなあだ名かもしれないなと、マシンガンの右手を見下ろして、思う。
 それから、と、ハインリヒは、間を置いて、思った。
 他の誰も、絶対にそうは呼ばない。そう呼ばれていることすら、多分知らない。
 死神という、あまり明るい意味合いのない、皮肉な響きの名を、屈託もなさそうに口にする---もちろん、その名に含まれる意味のすべてを、理解した上で---彼が、同じ唇で、ハインリヒを、My Dearと呼ぶ。
 自分に、似つかわしいとか、相応しいと思える呼ばれ方では、決してなかった。
 初めてそう呼ばれて、面食らって、頬を染めた。
 彼は、それを見て、奇妙にうれしそうに笑って、ハインリヒの頬に手を伸ばして、いつもより優しい接吻をくれた。


 細い腕が、絡みつくように、けれど、空気のように、重みもなく、背中に回る。
 柔らかな皮膚は、ハインリヒが、その機械の腕でひどくこすれば、傷ついてしまいそうで---もちろん、人工皮膚なのだから、そんなことはありえない---、いつも強く抱きしめることを、ためらう。
 兵器然とした、自分の体を見下ろして、それでも、その笑顔も、いとしげな瞳の色も、何も変えない彼を、ハインリヒは時折、変なやつだと思う。
 もしかすると、元役者だと言う彼には、ほんものの感情を隠すことなど、お手のものなのかもしれないと、思ったこともあった。
 ハインリヒに向ける、すべての振る舞いが、まるで役者が舞台に上がる時のような演技で、実は、蔑まれているのではないかと、腹の中で嗤われているのではないかと、思ったこともある。
 どうしても、信じられずに、真実だと、何度言われても飲み込めず、醜悪な自分に触れたがる、この年上の男を嘲っていたのは、むしろハインリヒの方だった。
 欲しいと言われて、投げやりに、自虐的に、機械の体を晒した。抱きしめられて、膚をこすり上げられて、声を殺すために、唇を噛んだ。
 彼は、しんぼう強く、ハインリヒの躯を開いて、ゆっくりと、入り込んできた。
 重なる体。心はまだ、すれ違ったままだった。それでも、触れ合えば、生まれる親近感と、繋げた躯から、溶け合う心もある。
 ハインリヒの屈託を、聞き出すこともないまま、彼は悟っていて、急がず、急かさず、ハインリヒが、開いた躯と同じほど、心をやわらげるのを、彼はじっと待っていた。
 死神どのと、呼ばれて、その響きにこもる、敬意と優しさを聞き取った時、ハインリヒは、彼に対する軽蔑を捨てた。
 死神という、冗談にもならない、その呼び名を、彼はさらりと口にする。まるで、歌でも唄うように、ひどく美しい響きで、口にする。
 人殺しであろうと、破壊の神であろうと、そのことは、なんらハインリヒの、"人として"の価値は損なわないと言いたげに、むしろ愛しげに、その名を口にする。
 ハインリヒは、その水色の瞳を、ゆっくりと瞬かせて、それから、冷え凍った心を、溶かした。


 その後に、不意に、それがやってきた。
 それはまるで、今突然思いついたというよりも、もう、何度も胸の中で繰り返していて、それがついうっかり、舌を滑ってしまったという風な、そんな加減だった。
 言った瞬間、しまったと、彼には珍しく、頬の線を歪め、申し訳なさそうに、ハインリヒを見下ろしていた。
 汗を混じり合わせ、膚をこすり合わせていた、最中だった。
 自分の上で、どうやって言いつくろおうかと、動きを止めて思案している、今は愛しい年上の男を、ハインリヒは笑って見つめた。
 怒ってなどいないし、もちろん、気恥ずかしくはあるけれど、腹を立てるなんて、お門違いだ。
 そう、笑顔に言わせたつもりだった。
 自分を、この男は、こっそりとそう呼んでいたのだと知って、戸惑いが浮かんだその後に、それでも押し寄せてきたのは、嬉しさだった。
 夢中になって、口を滑らせて、自分の失態---だと、彼は思っている---をどう挽回しようかと、さっきまでの、浮かされたような熱を忘れかけている彼を、ハインリヒは、そっと抱き寄せた。
 もう一度、と、そうささやいた。
 彼は、ハインリヒが怒ってなどいないことに、心底驚いたらしかった。
 息を飲む音が聞こえて、それから、戸惑う唇が、ゆっくりと開いて、抗う舌が、ようやくつぶやいた。
 My Dear。
 舞台で使う、底の広い、太い声が、力強く、けれど、細く、小さく、ささやいた。
 胸を反らすようにして、もう一度と、またねだった。
 彼は、ハインリヒを呼びながら、また、ゆっくりと動き出した。


 深く重なる唇が、呼吸のために、外れるたびに、グレートが、ハインリヒを呼んだ。
 声の強さは、いつも違う。ささやきのようだったり、つぶやきのようだったり、あるいは、まるで、ハインリヒの魂を呼び返そうとするような、力強い声だったりした。
 ハインリヒ、と呼んだ。
 目を閉じて、機械が剥き出しの左足を、持ち上げて、グレートの腰に絡めた。
 アルベルトと、呼ばれた。
 体を起こし、グレートの薄い肩を押して、その上に、乗りかかって行った。
 そうされることを、嫌いではないのだと知っていて、右手で触れた。
 今は剥き出しの、鉛色の右手は、グレートに触れ続けて、体温に近く、暖かかった。
 掌と指を使いながら、ゆっくりと顔を落とす。薄い唇を、舌で舐めて、湿した。
 機械だからこそ、内側は、暖かい。唇を開いて、舌を差し出しながら、グレートが、息を止めた音を聞いた。
 舌と指を動かして、輪郭をなぞる。唇で、熱さを味わいながら、喉の奥に誘い込む。
 ハインリヒの、銀色の髪をすきながら、グレートが、湿りを帯びた声を出した。
 死神どの。
 確かに、この場にはふさわしい呼びかけかも、しれないと、思って、胸の中で笑った。
 やがて訪れる、小さなにせものの死を、先伸ばしにするために、舌の動きを、ほんの少しゆるめた。
 口づけよりも、もう少し親密な、触れ合い方をしながら、もっと別の触れ方をしたくて、ハインリヒは、そっと唇を外した。
 顔を上げると、上気した頬に、グレートの柔らかな掌が重なる。
 My Dearと、グレートが言った。
 親指が、濡れた唇をなぞった。
 まるで、乾いた土に、水が滲み通ってゆくように、声と言葉が、流れ込んで、胸の中で、やわらかく広がった。
 ハインリヒは、うっとりと目を細めて、重い機械の体を、ぶつけるように、グレートに抱きついた
 上に乗ったまま、グレートの耳朶を、甘く噛んだ。 
 少しばかり無理な姿勢で、グレートを導きながら、ハインリヒは、もっと欲しくて、それを素直に口にする。
 「もっと、言ってくれ。」
 開いた躯に、ゆるく、グレートが入り込んでくる。
 誰も、ハインリヒの、その名を知らない。
 そう呼ぶのは、グレートだけだ。
 こんな自分の姿を知っているのも、グレートだけなのだと思って、思わず、小さく笑った。
 「My Dear?」
 怪訝そうに、グレートが、下から見上げてくる。
 「どうした?」
 見下ろして、額に、口づけた。唇を離して、首を振る。
 グレートが、ほんのわずかに困惑を刷いて、それからまた、微笑んだ。
 「My Dear。」
 躯を繋げて、心を添わせる。親密に、膚を合わせて、ふたりだけの秘密をつくる。
 その秘密に、鍵をかける。
 誰にも、壊されないように。
 グレートだけが知っている、My Dearなハインリヒは、死神と呼ばれるサイボーグ004さえ、よくは知らないところにいる。
 防護服を着て、闘いの中へ走り込んでゆく、サイボーグとしての日常からは、いちばん遠いところにいる。
 だから、グレートは、そんなハインリヒを、My Dearと呼ぶ。
 俺は、あんたを、なんて呼べばいいんだろう。
 グレートの上で、体を揺らしながら、ハインリヒは思った。
 My Dearと、グレートがささやいたのは、ハインリヒの唇の中だった。


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