冬の物語
秘めたる恋、グレートはひとりごちた。
クリスマスもニューイヤーも終わり、ようやく世界が静かになり始めた頃、電話が鳴った。
会いに行ってもかまわないか。
コレクトコールじゃないのかとからかうと、ひずんだ声で笑った。唇の歪み具合が、目の前に見えるようだった。
「おお、我が友よ、そんな水臭い伺いを、立てねばならぬ間柄かね、我々は。」
違いない、とひずんだ声がまた笑う。
甘く胸が弾むのを、グレートは止められなかった。
いつからだったろう。語りかける恋の言葉が、引用のふりをした、本音に変わっていったのは。
芸術家気質とは言いかねる、他のメンバーの中で、唯一グレートの洒落っ気をそのまま理解してくれる、死神と呼ばれる男。
銀色の髪。色の薄い瞳。どこか儚げな印象とは裏腹に、その体は鋼鉄に覆われ、血腥い武器を抱え込んでいる。戦いの中で、恐ろしいほどの輝きを放って、死神の名に相応しく、破壊をもたらす。
芸術の究極は死かもしれないと、ふと思った。そして、死にあまりにも近い彼の存在に、敬愛の対象だった芸術にはない、ある種の美を感じた。
破壊の美、または死に通じる美。日本語でなら、道行きとでも称されるのだろうか、死を、無意識に賛美する、ある種の精神性。破壊する彼は美しく、死と背中合わせに、輝いていた。
破壊とは、生み出すものである芸術とは、相入れない位置にある。それなのに、そこには確かに美があり、美があれば、芸術的存在が、必ずある。
彼自身が、ある意味では芸術とも言えた。
恋と気づいたのは、いつだったろう。
他愛もない電話や、不意の訪れに、胸をときめかせるようになったのは、一体いつだったろう。
少年のように、あるいは乙女のように、彼の言葉のひとつびとつ、彼の動きのひとつびとつに、胸が甘く高鳴るようになったのは、一体いつだったろう。
人の真似ばかりして過ごしてきた人生の中で、自分の言葉による表現を持たないこと---いや、持っていたのかもしれない。けれど使わずにいるうちに、擦り切れてしまった---を、これほど後悔したことはなかった。人の言葉を借りて、冗談の砂糖をまぶして、彼に恋を語る。こっそりと忍び込ませた本音の部分を、彼がくみとってくれることを、望みながら、同時に、絶対に気づかれませんようにと、祈りながら。
失うには、この恋は、あまりにも大きすぎた。
"真実の恋がすんなり叶ったためしはない"(真夏の夜の夢)---まことに、まことに。心の中で呟きながら、ふと、手をウイスキーのボトルに伸ばす。
溺れたいのは酒なんかではなかったけれど、酔いは、どこか恋する気持ちに似ていたので。
すべてを忘れて、冷たいボトルにすがりついた時もあった。硬く冷たく、さまざまな色と形の、酒の入ったボトルの数々。どれほど、空にしてきたことだろう。満たされない思いを満たすように、酒を注ぐ。浴びるように酒を飲む。そしていつしか、飲まれていたのは自分だった。
そして、酒の代わりに、今度は恋がやってきた。
恋するのは、もちろん初めてではなかった。役者たる者、恋は常に芸の肥やし。恋をせずに舞台へは上がれない。
けれどその時、グレートはもう、役者ではなかった。上がる舞台も、演じる役も、語る台詞もない、酒で身を持ち崩したことのある、元役者の、サイボーグだった。
恋は闘いの日々の中に生まれ、道化者の役を担いながら、グレートはもう、役者ではなかった。人間ですら、なかった。
恋の相手も、もう、人間ではなかった。
ハインリヒ。004。死神。そう呟いて、一口酒をすする。琥珀色の、滑らかな液体。喉を滑って胃に落ち、、ふわりと酔いを運んでくる。
胸のどこかが暖かくなる。まるで、彼に会っている時のように。
人間でなくなっても、恋は可能なのだと、それがうれしくもあれば、哀しくもあった。
どんな形の恋をすればいいのだろう。どんなふうに伝えればいいのだろう。触れ合えるのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。
それとも。
それともこのまま、時の続く限り、甘やかなこの痛みに、ひとりで耐えるべきなのだろうか。いつか、永い時の果てに、この思いも摩滅してしまうことを信じて、ひっそりと唇を閉ざし続けるべきなのだろうか。
ハインリヒ。
まるで、恋の台詞のように、その名を囁く。どんな名台詞よりも、心の響くのは、何故なのだろう。
恋という美酒。前後不覚に酔っ払っているのだと、認めるには少しばかりの照れがある。
さて、どうするべきか。
2杯目をグラスに注ぎながら、少しばかりぼんやりしてきた頭の隅で、ため息をこぼしてみる。それすら、彼に繋がると思えば、心地よいのだけれど。
酔ってやがる。苦笑がもれた。
まあいいさ、明日の朝には、酔いも覚める。
酒の酔いは、覚めるだろう。けれど、恋の酔いは、覚めることを知らない。
ハインリヒ。もう一度呟いてから、グラスを一気に空にした。
「ちょうどよかった、オランダ産の、うまいジンが手に入ったんだ。お前さんなら味がわかるだろう。」
---オイオイ、酒を飲みに、ロンドンまで行くわけじゃないぜ。
「だったら飲む必要はない。ワガハイが飲んだくれるのに、付き合ってくれればそれで充分。」
笑いが、受話器からもれた。
「どうせじきに、ジョーからまた非常召集がかかる。その前に、前線に赴く我らのために、前祝いといこうではないか、我が友よ。」
---今年こそ、静かに1年過ぎてほしいもんだがな。
こちらへ到着する時間を告げて、電話は終わろうとしていた。
いつもの茶目っ気で、グレートは結びの言葉を口にした。
「"数の上では劣る我ら、だが幸せでは優る我ら、我ら兄弟の一団"(ヘンリー5世)。」
素速く、ひずんだ声が切り返す。
「"不幸な時代の重荷は我々が負わねばならぬ"(リア王)。」
それが、サイボーグとしての、我々の指命。恋はその、一時の慰め。
受話器を静かに置いて、グレートはしばらく、その上に掌を乗せたままでいた。
ハインリヒ。秘めたる恋、この想い。
愛しげな視線を、電話の上に降らせ、それから、グレートはようやく受話器から手を離した。
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