With You



 いつものように、夕べから読んでいる本を片手に、居間へ行く。
 フランソワーズもジョーも、買い物か何かに出かけているのか、家の中は奇妙に静かだった。
 いつもなら、必ず誰かの足音がし、話す声が聞こえる。それが今はない、静かな午後だった。
 キッチンで湯を沸かし、自分のために紅茶を入れる。冷蔵庫には、もうあまり残っていなかった牛乳を、罪悪感を感じながら、それでもたっぷりと注ぐ。
 さて、と準備を整えて、居間へ入ると、ゆっくりと、いつもの位置の腰を下ろした。
 大きなソファの間に、静かに置かれた、ひとりがけの椅子。くすんだ青のそれを見つけて来たのは、フランソワーズだった。どこかヨーロッパの匂いのするそれを彼女が選んだのは、仲間たちの仮住まいの、このギルモア邸に、それでも何か、自分たちの家と呼べるものが欲しかったのかもしれなかった。
 ジェロニモが家の中に運び込み、グレートがアンティークについてひとくさり打ち、ピュンマがふと目を細め、張々湖がキッチンから顔を出し、ジェットとジョーが、フランソワーズの指示を仰いで、収まる位置を決めた。
 ハインリヒはイワンを抱いて、その一部始終を、黙って微笑んで見ていた。
 何故かそれ以来、居間で本を読む時は、必ずその椅子に坐るようになっていた。
 どちらかと言えば、固めのその椅子は、きちんと背筋を伸ばして坐るのにちょうど良かったし、ひとり掛けなら、隣りに誰かに坐られて、邪魔されることもなかった。
 もっとも、ハインリヒがここで本を読んでいる時には、誰も彼の邪魔をしない。いつの間にか、それが暗黙の了解になってしまっていた。
 誰かが声をかけるのは、せいぜい食事かお茶か、緊急の時だけだった。
 足を組んで、本をそこに乗せる。
 本を読むのは、ハインリヒが自分自身に許す、ほとんどたったひとつの贅沢だった。
 特に、東ドイツを出てからは、読みたい本が自由に読めるようになり、外国語で読むにはそれでも、味気ない時はあったけれど、たとえば政治向きの学術書なら、別に何語だろうと、情報さえ理解できれば、たいていのものは楽しめた。
 頭に埋め込まれた、本来は他の仲間---世界各国からほとんど拉致され、集められた、サイボーグという以外は、言葉以外の面でも、何の共通点もない、仲間たち---との交信を、異言語間で速やかに可能にするための、翻訳機に、ふと感謝する。
 そうでなければ、今頃、政治犯として政府に逮捕され、恐らく拷問か、それに近い原因で、あの、暗く陰気な国で、とっくにくたばっていたに違いない。
 それならそれで、別に構わなかった、と思う。理想だったのは、自力で無事に国外へ脱出し、ヒルダと、ささやかに幸せになることだった。
 それがかなわない今、どんな人生にも、文句をつける気になるほどの期待はなかった。
 サイボーグにされてしまったことと引き換えに---そして、いちばん大事なものを失ってしまった代わりに---、好きな本を楽しむくらい、自分に許してもいいだろうと、ハインリヒは思う。
 読みながら、ピュンマが、この同じ作者の、4、5作後の作品を、どこかで見つけたと言っていたのを思い出した。
 どこだったっけな。フランスの、どこかの図書館だったか、それとも、ヤツの故郷の友達が持ってたって言ってたっけ? それともあれは、別の本の話だったっけ・・・。
 ギルモア博士は別にしても、仲間の内で、ハインリヒと同じように数ヶ国語を操るのは、ピュンマくらいだった。
 イワンは自分では言葉は発声しないし、フランソワーズは、フランス語しか知らないと、頑固に言い張っている。ジェロニモは、英語と、彼の部族の言葉を話すけれど、滅多と口を開かない。張々湖は、出身地の方言の強い中国語と、片言の日本語だけだった。グレートは母国語の英語については、さすがに俳優だけあって、精通している。それと、フランス語を少し。もっとも彼は、女を口説く口上だけなら、ほとんどどこの国の言葉でも出来るらしいかった。確かめたことは、ないけれど。
 ジョーは、混血とはいえ、白人だったらしい父親を知らず、日本語しか知らない。ジェットも、英語以外は何の知識もない。しかも彼は、その母国語すら、たまに怪しい。
 ピュンマは、植民地時代の名残りで、きれいなフランス語を話す。うっとりするほど美しいその発音は、まるで音楽を聞いているようだった。パリ育ちのフランソワーズでさえ、時々ピュンマのフランス語に、うっとりと耳を傾けていることがある。
 他には、アフリカの、彼の部族の言葉と、他の部族の言葉を少なくとも3つ、それから、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語、英語を流暢に使った。
 国連に入ってもおかしくはない、むしろ、彼の国の大統領にさえなれるかもしれない資質を持ちながら、世界の片隅で、水中戦闘用サイボーグとして身を潜めているその身の上を、ハインリヒは、時々皮肉に思う。
 ハインリヒ自身は、ドイツ語とオランダ語、ハンガリー語とロシア語が使えた。それから、最低限のフランス語、スペイン語、イタリア語にポルトガル語。残念ながら、中近東やアフリカの言語には、まるで縁がなかった。
 ヨーロッパ人にとっては、そう珍しいことではないけれど、アメリカ人---常に、自分たちが世界の中心だと思っている国民---であるジェットにとっては、英語以外の言語が日常語である世界が、きちんと存在するという事実が、いまだに理解できないらしい。
 元々、言葉に興味のない彼には、誰が何語を話そうと、翻訳機がある今、不便があるはずもなかった。
 それでも時々、彼の言葉使いの趣味の悪さに、ハインリヒは頭を抱えることがある。ジェロニモはそんな時、首を微かに振って、仕方がない、という表情を見せる。
 育ちの悪い、教育のない若いアメリカ人の、典型のような彼だった。もっとも、それ故の無邪気さで、仲間に愛されているのだけれど。
 本から目を離さないまま、左側のサイドテーブルに手を伸ばして、紅茶の入ったマグを持ち上げて、口元に運んでから、すでに空なのに気付く。
 また湯を沸かそうかと考えてから、もう、ミルクが残っていないことに思い当たった。
 軽い失望に唇を少し曲げて、ハインリヒは所在なさげに、マグをテーブルに戻した。
 軽く舌を打ってから、また読書に戻る。けれど紅茶のない読書は、何か物足りなかった。
 その時、ばたばたと騒々しい足音を立てて、ジェットが居間に入って来た。
 「ハインリヒ、起きてたのか。」
 夕べ遅くまでこの本を読んでいて、つい昼まで寝過ごしたことを言っているのだと悟って、
 「ああ、やっと目が覚めた。」
 どさりと、ハインリヒの隣りにある、大きなソファに、飛び込むように腰を下ろすと、堰を切ったように喋り出す。
 「まいったぜ、フランが買い物につきあえってさあ、午前中から、イワンつきで街に出て、まだほかのとこにいくって言うから、オレだけさきに帰って来ちまった。ジョーはよくあんなのに、だまってニコニコつきあってるよ。オレはゴメンだね。」
 大げさに顔をしかめ、肩をすくめて見せる。
 「どうしてああ、おんなってのは、くだらないことに時間をかけたがるかなあ。ぼけーっと突っ立って、あかんぼ抱えて、待ってるオレたちの身にもなれっての。おまけに、どういう組み合わせって、ジロジロみられるし。」
 まあ、確かに、とハインリヒは思った。
 金髪の、明らかにヨーロッパ人のフランソワーズと、辛うじて東洋人に見えるジョーと、そして騒々しく喋る赤毛のアメリカ人が、銀髪の赤ん坊を抱いて一緒にいて、目立たないはずはなかった。
 そこに自分がいなくて良かったと思い、笑いをもらしながら、まだ喋り続けるジェットの口元を見てから、
 「ジェット、悪いが、まだ喋り足りないなら、後で聞いてやる。読書中だ。」
 本を、膝から持ち上げて見せた。
 ジェットはきょとんとしてから、さらに唇をへの字に曲げ、
 「なんだよ、アンタまでオレをジャマ扱いかよ。」
 「邪魔にしてるわけじゃない。ただ、静かにしろと言ってるだけだ。」
 うっとつまってから、ジェットはおとなしく、口を閉じた。また、唇はとがらせたままだったけれど。
 肘をついて、掌に頬を乗せ、ハインリヒに横顔を見せた。
 それをちらりと見やってから、ハインリヒはまた、本に視線を落とした。
 ごそごそと何かを探していた気配があって、それから、ジェットがテレビをつけた。音量は低くしたまま、見るともなしに画面に視線を当てている。
 ふと思って、ハインリヒは尋いた。
 「フランソワーズは、何の買い物だ?」
 ジェットがちらりとハインリヒの方を見て、ぼそりと答えた。
 「服。自分のと、ジョーのと、イワンのと、オレのもって、言ってたけど、オレは自分がえらぶからいいって言った。」
 「じゃあ、ミルクは買って来ないかな。」
 さあ、とジェットは頭を振った。
 「ミルクがどうしたって?」
 「いや、もう、ないんだ。紅茶が飲めない。」
 ああ、とジェットがキッチンの方を振り向いて、それからゆっくりまたテレビに視線を戻した。
 しばらく経ってから、ジェットが、小さな声で言った。
 「買い物、行く?」
 ハインリヒが顔を上げると、いたずらっぽい瞳が、そこにあった。
 「おまえ、今帰って来たばっかりじゃないか。」
 「いいよ、アンタなら、オレを試着室のそとで、服抱えたまま待たせたりしないだろ?」
 ハインリヒにだけわかる、愛しげな笑みを、ジェットは唇に浮かべていた。
 一分考えて、ハインリヒは答えた。
 「そうだな、この章を読み終わったら、少し外に出るか。」
 ジェットはそれきり黙ったまま、もう、何も言わず、テレビに顔を向けた。
 ハインリヒは、急ぎもせずにまた本に戻ると、ふと思いついて、隣りのソファに、右手を伸ばした。
 ジェットの、そこにある肘を軽くつつくと、ジェットが、その手を見て、訝しげな表情をする。それから、やっと、右手を胸の前に伸ばして、ハインリヒの掌を握った。
 誰にも、この贅沢な時間を邪魔されたくはないけれど、こうして、こんなふうにこの空間を共有できるのは、もっと贅沢かもしれなかった。
 喋らない代わりに、すべてが感情豊かなジェットの指先が、ジェットの想いを伝えに来る。
 ジェットの指先を握り返しながら、ハインリヒは、章の終わりに向かって、静かにページをめくった。


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