弱きもの



 ゆるりと、首を伸ばしてくる。ついばむような接吻を、受け止めて、押し返す腕がなければ、もっと深い口づけが、また重なってくる。
 唇ひとつで、躯の奥から、溶けてゆく。拒むことはしない。その気になるのに、数瞬とかからず、まるでそれは、魔法のようで、ハインリヒは、グレートの掌に、体を沿わせながら、もう、思考さえ、投げ出してゆく。
 ハインリヒに向かって、軽く爪先立ちしているのに疲れたのか、グレートは、唇を外して、あごから、喉に向かって、触れて行った。
 シャツのボタンを外しながら、鎖骨に軽く噛みついて、上目にハインリヒを見る。
 どこか淋しげな、いいのかと、尋ねるような視線に、ハインリヒは、目を閉じて、グレートの、つるりとした頭を、胸に抱き寄せる。
 グレートがそうしたい時が、自分のしたい時なのだと、思い込んでいるだけなのか、グレートが、あの、人の心の奥底を見透かす視線で、機械の殻に包まれたハインリヒのエゴを、しっかりと見極めているからなのか、抱き合うタイミングを、外したことも、外されたこともない。
 それとも、ハインリヒは、そうと気づかないだけで、常にグレートに発情しているのだろうか。
 多分そうなのだろうと、胸を開きながら、思った。
 いつだって、グレートの誘いを待っている。誘う視線を、知らずに送っているのか、そんな気になれば、すぐに、なだめるようなグレートの口づけがやってくる。
 あやされているのだと、そう思うことがある。
 今はもう、昼間の明るい日の中で、機械の剥き出しになった全裸を晒すことさえ、ためらいがない。
 求められるままに、生身と機械の、不様に溶け交ざった体を、見せるために、晒す。うっとりと、グレートが注いでくれる賞賛の視線に、皓い膚と鉛色の装甲を、静かに佇ませて、人の形をした、破壊のための、機械の体を、隠すところもなく、あらわにする。
 ほんとうに、人形のように、グレートの言うまま、促すまま、求めるまま、受け入れて、注がれるために、躯を開き、剥き出しにする。
 グレートがそうしたがっていることと、ハインリヒが欲しがることと、その境界線は、ひどくあいまいで、ほんとうのところは、何もかも、ハインリヒの求める先を見越して、グレートが手を差し伸べているだけなのかもしれないと、時折、抱きしめられながら、思う。
 欲しがっているのは、すべて自分だけで、実のところ、グレートは、深すぎる想いゆえに、ハインリヒに、心も躯も添わせようと、してくれているのかもしれない。
 甘やかされているのだと、思うことがある。
 心を鎧って、今は体も、機械の殻に包まれ、頑なに、人である本性を失くしたと思い込むハインリヒの、柔らかな傷つきやすさを、グレートは、そっと両手に包み込んで、そうして、あの、ふわりとした、どこか淋しげな微笑で、暖かくくるんでくれる。
 ハインリヒは、そこで胸を開き、手足を伸ばして、無邪気に、グレートの手の引くまま、体をたわめ、揺らし、満たして、満たされてゆく。
 喉を反らして、声を上げて、ひどく子どもっぽく、グレートの胸に、額をすりつけた。
 胸を重ねて、背中を重ねて、シーツの上で、何度も体の位置を変えながら、貪るように、唇を交わす。噛み切っても、今は血の流れることのない、舌先を、絡めて、時折咬み合って、波打つシーツの上で、膚をこすり合わせる。
 足を絡め、腕を回し、掌を重ねて、指を滑らせる。全身をたわめて、歪めて、まるで苦しむように、溶け合えないことを悲しむように、すべてに触れて、そうしながら、もっと深く、もっと長く、触れてゆく。
 熱い、躯の内側は、受け入れれば、分け合うために、奥深くへ誘い込む。
 声を上げて、グレートと、そして自分自身を煽った。
 関節がきしむほど、脚を大きく開いて、グレートに添うために、腰を持ち上げる。もっと近く、密着して、触れている部分を、もっと大きくする。
 抱き合っていると、そう思いながら、グレートの、皮膚の暖かさに、うっとりと目を閉じる。
 躯を外して、胸と胸の間に、冷えた空気が入り込んできた。
 弛緩した体の上に、ふわりと、グレートの体の重みの一部が、また乗ってくる。
 心づけの接吻が、顔に当たる。
 頬とまぶたに、唇が、優しく触れた。
 そうして、頬に落ちてくる、暖かな湿りに気づく。
 「どうしたんだ・・・?」
 うっすらと目を開けると、頬を濡らしたグレートの顔が、目の前にあった。
 悲しそうではなく、苦しそうでもなく、ただ、涙が、はしばみ色の瞳から、あふれ落ちていた。
 「どうしたんだ?」
 もう一度言って、グレートは、いやがらないだろうと思いながら、冷たくて硬い右手を、グレートの頬に伸ばす。
 指の腹で、濡れた頬を撫でると、グレートの目から、また涙があふれた。
 拭いきれなかった涙が、頬を伝い、あごに落ちて、そこから、ハインリヒの胸に流れる。ひやりとした、小さな水滴が、そこから、シーツに落ちて行った。
 「ハインリヒ・・・。」
 いつもの声が、唇からもれた。
 ハインリヒは、グレートを真っ直ぐに見つめたまま、頬から手は離さず、流れてくる涙を、指の腹に受け止めていた。
 涙の理由が、グレートにもわからなくて、戸惑っているのだと、ハインリヒにはわかっていた。
 だから、ただ黙って、その涙の暖かさを、指先で受け止めていた。
 「アルベルト。」
 少しかすれてしまった声で、グレートが、ハインリヒの、名前を呼んだ。
 滅多と呼ばれないそちらの名前を、グレートの、そんな声で聞くことも珍しく、ハインリヒは、思わず、眉をぴくりと上げる。驚きと照れで、知らずに、頬が薄く染まった。
 「・・・年を取ると、涙腺が弱くなるのさ。」
 ハインリヒの、赤い頬に、勇気づけられたように、グレートが、いきなり茶化した口調で言った。
 泣いている道化を演じているような、そんな感じがした。
 「サイボーグが、年なんか取るもんか。」
 唇を突き出して、冗談の声音でなく、そう返す。
 グレートが、また突然に、うっすらと、悲しそうな表情を見せた。
 変わらないのは、グレートだけではない。年を取ることがないのは、グレートだけではない。
 こうして泣いているように見える、その涙さえ、今は、ほんものではない。
 グレートに向ける言葉は、そのまま、ハインリヒにはね返る。
 生身から、より遠いハインリヒに、その言葉は、もっと深く突き刺さる。
 視線を交わして、ふたりは、同じ思いを分け合っていた。
 サイボーグだから。生身ではないから。半分機械の体を抱えて、戦わなければならないから。
 そう、望んだわけでもないのに。
 それでも、そうならなければ、出会えなかった、ふたりだから。
 ハインリヒは、胸に、グレートを抱き寄せた。
 この想いも、改造された体同様、ほんものではないのかもしれない。ただ、人間らしさの残骸に、しがみついているだけなのかもしれない。
 グレートの濡れた頬が、胸に当たる。
 そこでまた、グレートは、声も立てずに泣き続けた。
 かすかに波打つ背中を撫でながら、ハインリヒは、ようやく、薄い唇を、グレートのために開いた。
 「・・・少なくとも、あんたが、俺より先に逝くって、そう決まってるわけじゃない。」
 グレートの背中の揺れが、止まった。
 「・・・俺が、守る。」
 戦うことを強いられた、永い永い命。目の前に横たわる、孤独の深さに、時折、ひっそりと怯える。
 孤独なひとりと、孤独なふたりと、孤独な仲間たちと、互いを支え合って、互いを守り合って、それしか、生きてゆく術はない。
 それでも、力のあることに、ハインリヒは感謝する。
 大事なものを守る力のあることを、今、この瞬間だけ、ありがたいと思う。たとえ、サイボーグであるとしても。闘う機械として、生きなければならないとしても。
 ひとりではないから、守るべきものが、あるから。
 泣くのをやめたグレートが、また、首を伸ばして、ハインリヒの唇に、涙に濡れた接吻をした。
 ハインリヒの唇を濡らした涙には、味がなかった。


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