悪の行為



 疲れていたのだろうか、普段なら、なんてことのない量で、ハインリヒは、酔っ払い始めていた。
 手元にある酒で、一緒にいて、夜になれば、飲む。ひとりでなら、決してしないことだけれど、ふたりで一緒にいると、食事も終わり、後片付けもすみ、もう、他にすることもなければ、酒に手を伸ばす。
 今夜は、グレートの、昔の恋の物語が、酒の肴だった。
 ませたガキだったんでね。
 そう言い訳しながら、語る話の、どこまでがほんとうで、どこまでが冗談なのか。
 子どもの頃の、友達の母親や姉、学校の教師、学校の友人の、姉や妹やいとこや、それから、転々と変わった仕事先で出会った、さまざまな女たち。
 どれもこれも、どう出会って、どう恋に落ちて、そしてどう振られて、恋が終わったかで、落ちがつく。
 笑いを交えて話しながら、もう、人を楽しませることが、第二の本能になってしまっている男の悲しさが、ちらりと横顔をよぎる。
 芝居を始めて、芽が出て、ほんの少し、足元が危うくなった頃の話を、グレートが始めた。
 「良い役がつき始めて、まあ、もちろん主役じゃないさ。でも、台詞もあって、とりあえず、舞台の最後の挨拶には、真ん中にちょっと寄って立てるくらいの、そんな役だ。」
 照れくさそうに、笑う。
 ハインリヒは、その笑顔を、微笑で促す。
 その女は、グレートに芝居に現を抜かすのをやめて、まともな仕事に就いてほしかったのだと言う。
 どうせ、主役になんかなれない、だったら、きっぱりあきらめろと、ある夜、おなじみの、けれど少しばかり深刻な、喧嘩をした。
 女は、声を上げて、必死に、グレートを説得しようとした。
 ひどい言葉を吐いて---半分は、真実だったけれど、それゆえに、ひどくグレートの胸を刺した---、今までふたりの間で起こった、さまざさまなことを並べ立てて、そのひとつひとつに、グレートが真摯に立ち向かわなかったことを非難して、締めくくりに、彼女は、グレートを、好きな芝居にすら大した能もない、ろくでなしだと、吐き捨てた。
 ふっと、頭の中が、白くなった。怒りが、いきなり爆発して、まるで、胸を、銃弾に貫かれたように、痛みが体を突き抜けて、目の前で、彼女が、視界を覆うほど、大きくなった。
 腕を振り上げ、そのまま、したたかに、彼女を殴った。
 彼女は床に倒れ、打たれた頬に手を添えて、まるで、醜い化け物を見るように、表情の消えてしまったグレートの顔を、呆然と見上げていた。
 翌日までには、彼女はグレートの前から姿を消し、それきり、消息すら、聞かない。
 もう、気の遠くなるほど、昔の話だ。
 「人間ってのは、弱いいきものさ。ほんとのことを言われると、それが、ほんとだから、よけいに腹が立つ。」
 ふっと、気弱に笑う。
 酒が終われば、話も終わる。話が終われば、また、別のことを始めるために、グラスの代わりに、互いの手を握る。
 酔っているせいだと、ハインリヒは思った。
 互いを飲み干すように、唇を重ねながら、グレートの昔話を思い返しながら、ハインリヒは、自分のことを考えていた。
 だからあんたは、俺を抱くのか。
 だからあんたは、俺を欲しがるのか。
 だからあんたは、俺を選んだのか。
 ほんとうのことは、それがほんとうのことだからこそ、口にしてしまえば、陳腐で、身も蓋もなくなる。
 だからふたりは、ほんとうのことは、決して口にはせず、惚れ合っているからだと、勘違いを正しもせず、こうして、抱き合っている。
 姿を変えることのできるグレートなら、たとえば、生身の人間のふりをして、普通の恋をすることも可能だろう。それでも、グレートは、こうして、仲間の中では、いちばん機械らしい---生身からは、ほど遠い---ハインリヒに、優しく腕を伸ばす。
 服を脱いだ姿なんて、誰でもみっともないもんさ。
 そう、照れたように、笑う。
 口数の多さの後ろに、本音を隠すグレートの、膚はそれでも、時折正直に、心の底を語る。
 それを聞き取って、時々、ハインヒリは、不安になる。
 酔うと、心の扉が、少し開いて、弱さがそこから流れ出す。
 ハインリヒは、女ではないから。ハインリヒは、生身ではないから。ハインリヒは、永遠を誓う相手ではないから。
 ハインリヒは、女ではない。あの、沈む込む柔らかさと湿ったぬくもりを、思い出さずにすむ。
 ハインリヒは、生身ではない。自分が生身ではないことに、引け目を感じずにすむ。
 ハインリヒは、永遠を誓う相手ではない。結婚だとか家族だとか、そんなことを考えずにすむ。
 記憶は、昔話として、封印されている。
 昔を思い出すのはかまわない。昔を懐かしがるのはかまわない。けれど、昔の方が良かったと、そう思うことだけは、しないようにしようと、すれば、惨めになるから、だから、決して、昔は良かったと、口にはせずに。
 昔と、あまりにもかけ離れてしまえば、比べることさえできなくなる。
 抱いているのは、女ではなく、生身ですらなく、もう、遠い昔の記憶を、たぐり寄せる助けにすらならない。
 ただ、確かに受け止めている、他人の体の、形と重さ。それだけは、変わらないのだと、思い込もうとする。
 いたわり合っている、それだけは、確かに、確実なことだった。
 それでも、普通の恋ではないから、そこに、理由を見つけようとする。
 素直に、愛されているのだと思えないから---そう思えたら、どんなにか楽だろう---、なぜこんな醜い自分を抱き寄せるのかと、思わず問いつめてみたくなる。
 自分で導き出した結論は、あまりにも惨めで、けれど、だからこそ、真実に近いような気がして、どうしても、そこから心を払えない。
 抱いて、抱きしめられて、目を閉じて、唇と胸を重ねて、これ以上ないほど親密に、躯の奥深くを与え合うのに、どこかに、薄い紙の厚さほどの隙間を、感じる。
 女ではなく、生身でもなく、その機械の腕を、グレートに振り上げることはなく、グレートがあの腕を、振り上げることもない。
 喧嘩は、喧嘩ではなく、ほんとうに、傷つけ合うことになってしまうから。
 機械にされてしまったから、もう、互いに、腹を立てても、殴り合うことさえ許されない。
 だから、腹を立てることも、しない。
 昔とは、似ても似つかない、今。だからこそ、耐えられる。現実を、受け入れることが、かろうじてできる。
 比べることさえ出来ないほど、かけ離れてしまっているから、昔は昔、今は今なのだと、皮肉交じりに、うっすらと笑う。
 昔と今を隔てるために、あれはあれ、それはそれと、きれいに分けてしまうために、そこに、ハインリヒを置く。
 昔と今の、境界線。
 そこに立つ、機械の体をした、サイボーグの仲間。死神と呼ばれる、男。
 だからなのかと、ハインリヒは、思う。
 だから、俺なのか。
 グレートが、動きを止めて、切なそうに、ハインリヒを見下ろした。
 闇でも見える目には、隠し事など、すべて晒されてしまう。
 それを忌々しく思いながら、ハインリヒは、作り笑いを浮かべた。
 これは、片恋なのだろうか。想っているのは、ハインリヒだけなのだろうか。
 聞き質すこともできず、ただ、伸ばされる腕を、信じるしかなかった。
 「わが、うるわしの、死神どの。」
 今と昔を隔てるのは、半機械の死神。壊れ、朽ちることはあり得ても、老いて腐ることはない、そのからだ。
 冷たく重たいからだを、グレートの、肉薄い腕が、抱きしめる。男と女ではない、交わりのために。
 何も結ばず、約束はなく、ここから続く永遠の恐ろしさから、目を反らすために。
 ほんとうのことは、人を傷つける。だから、口をつぐんで、沈黙を守る。自分を、守るために。
 人を殴ることなど、もう、決して許されない右手を、ハインリヒは、グレートの背中の上で、そっと握りしめた。


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