You're The One For Me



 ノックをすると、中から声が返って来た。
 ドアを開けると、聞きなれない音が、耳に飛び込んで来る。
 ドアを閉めながら、ハインリヒは、少し顔をしかめた。
 「何だ、この音。」
 グレートが、壁際のユニットに積み上げた、ステレオから、にこやかに振り向いた。
 「あんたらしくもない、音だな。」
 グレートの立っている、すぐ傍のスピーカーから流れ出ている音は、どちらかと言えば、ジェットが好みそうな、いわゆるロックと呼ばれるだろう音で、ドラムの入ったバンドの音なら、せいぜいがビッグバンドか、難解なジャズまでが範疇のグレートの趣味には、少し合わないように、ハインリヒには思えた。
 ハインリヒの趣味でも、もちろんない。
 「らしかろうと、らしくなかろうと、いいものはいいのさ。」
 そう言われて、耳を傾けると、曲調はともかく、演奏しているミュージシャンたちは、確かに腕だけは、最上の部類に入るように思えた。
 少し、ジャズ的なフレーズで始まった曲が、面白いリズムを刻んで、それから、声が入った。
 いきなりハイトーンで、打ち下ろすように、2オクターブは上の辺りの音を、声が叩く。その音に撃たれて、ハインリヒは、思わず口元を引きしめた。
 高い部分になれば、少し細くはなるけれど、底の部分が太い、力強い声。声圧で、部屋の壁が震えそうな気がした。真っ直ぐに、こちらを貫いてくる。その強さに、圧倒されて、ハインリヒは、あごを少し落として、スピーカーから流れてくる音を、まるで目に見えるように、天井へ追いながら、ふっと目を閉じた。
 キーボードのソロが入って、ギターソロの後、また声が戻ってくる。
 声が、ノートを追って駆け上がるのに合わせて、ハインリヒは、頭の中で、ピアノの鍵盤を叩いていた。
 グレートが、そんなハインリヒを見ながら、ステレオの、CDプレイヤーのパネルのどこかを押した。
 「どうかな?」
 いたずらっぽく微笑んで、グレートが、片目を、ぱちんとつぶって見せる。
 「すごい声だな。」
 ああ、とうれしそうに、グレートが、ステレオを撫でた。
 「ジャズでもやると、似合いそうな連中だな。ロックなのは、少しもったいない。」
 「人の好みは、それぞれさ。」
 「・・・ジェットの方が、いいんじゃないのか、聞かせるなら。」
 少し皮肉を込めてそう言うと、グレートが、プレイヤーからCDを取り出して、ケースに収めながら、ぼそりと言った。
 「・・・ロックに聞こえても、子どもにわかる音じゃない。」
 そういうことかと、皮肉笑いを、引っ込めた。
 確かに、子ども向きの音ではないなと、素直に思ってから、耳を撃った声を、思い出していた。
 「イギリス人か?」
 グレートが、首を振る。
 「たった今、おまえさんが聞いたやつは、ベースはイギリス人だがね。」
 音の繊細さと、洗練された曲調は、ドイツ的ではない。北欧の音にしては、少し音が太すぎるような気がする。
 比較的洗練されたロックの育つ土壌のある、ヨーロッパの国を思い浮かべながら、そのどのステレオタイプにも当てはまらず、どこだろうかと、思いあぐねる。
 そんなハインリヒを、からかうように眺めて、グレートが、おかしそうに、唇の端をつり上げた。
 イギリス人のベーシストがいるなら、まさか、アメリカのバンドではないだろうと思いながら、それを口にする。
 「アメリカのバンドじゃないだろう?」
 「ハズレ。」
 もっとおかしそうに、おどけて、グレートが答えた。
 「だろうな、アメリカの音なら、もっと乾いた感じで、多分アレンジがもっと大仰になる。」
 「ああ、まさに資本主義、商業主義の音だな。」
 淡々と、グレートが言った。
 「もっとも、我が英国も、嘆かわしく、そんな風潮に、流されつつあるがね。」
 「商業主義が、必ずしも、悪とは言えないだろう。」
 そんなことは、もちろん信じてなどいない口調で、ただ、議論を吹っかけるためだけに、ハインリヒは、胸の前で腕を組んだ。
 「もちろんだ。ただ、金ってヤツには、偽物すら、本物と言いくるめることが出来るだけの、力がある。そして悲しいことに、それを本物と信じてしまう連中がいるってことさ。常に金に触れていれば、どれが本物の金で、どれがただの金メッキか、すぐに見分けがつくもんさ。もちろん、金メッキには、金メッキの良さがあるがね。」
 少し悲しそうに言ってから、
 「そしてもっと悲しいことに、本物の芸術にもまた、途方もない金がかかる。」
 苦笑いを一緒に、付け加えた。
 「それでも、我々は、本物を求めることを、やめられない。」
 声が、芝居がかったそれに変わる。ハインリヒは、もう、口を挟むことをやめて、グレートの、朗々とした声の響きを楽しむことにした。
 「本物は、我々を、いつも、天上へ、導いてくれる。生きて、呼吸するなら、決してたどり着けるはずのない、天上へ、導いてくれる。生きていて、見ることのかなう、天国だ。美しい、ある種の、官能的な死だ。我々に許される、唯一の死だ。肉体を離れて、飛んでゆける。本物とはまるで、神が気まぐれに、我々穢れた人間に与えてくれる、真っ白い羽根のようだ。」
 言葉を切り、息を継いで、グレートが、大きく振り上げた腕を、また、ゆっくりと、体の横に垂らした。
 「そういう見解においては、おまえさんは、ある意味では、芸術の具現化とも、言える。」
 芸術論が、いきなり自分に話が飛び、ハインリヒは、少しばかり面食らう。
 「そうだろう? おまえさんは、そうやって、立ってるだけで、ワガハイを、天上へ連れて行ってくれる。死神の翼は、白ではなく、黒であっても、たどり着く先が、天国の扉の、1歩前であることには、変わりはない。おまえさんが連れて行ってくれるのは、地獄じゃない、天国の、ほんの少し手前だ。」
 ひとり語りが、ほんの一瞬途切れ、顔中の筋肉が柔らかく崩れるように、グレートが、ハインリヒに向かって、大きく破顔した。
 「そういうわけだ、我が、うるわしの死神どの、ドイツに、スピーカーを買いに行く時には、ぜひ付き合ってくれ。」
 「一体、あんたは、何の話をしてるんだ。」
 会話---と呼べるなら---から、完全に取り残されて、ハインリヒは、無様な問いを口にした。
 「いや、ステレオを、そろえようと画策中なんだが、他は全部日本でそろえるのに異論はないとして、スピーカーだけは、どうしても好みに合わない。低い音が足りないくせに、高い音が耳障りに尖る。」
 「このステレオのセットじゃ、駄目なのか。」
 ちろりと、グレートが、ハインリヒに、やや軽蔑を含んだ視線を、斜めに投げる。
 「嘆かわしい。ワガハイに、このスピーカーで、ジェシー・ノーマンを聞くような冒涜を犯せと?」
 そう言われて、言葉に詰まる。
 確かに、安物のスピーカーで、聞くべきでない音を聞くのは、人生の無駄遣いだった。たとえ、決して普通に死ぬことのない、サイボーグだとしても。
 言い分はわかると、口をきっちり閉じて、ハインリヒは、同意を示すために、軽くうつむいて見せた。
 ところで、とハインリヒは、ゆっくりとまた、口を開いた。
 「あのバンドは、どこの連中なんだ。」
 まだ答えを聞いていなかったと、グレートを見る。
 ああ、という表情をして、グレートが、またステレオの方を見やった。
 「日本だ。」
 「日本?」
 「ああ、日本だ。」
 うそだろう、歌う声に、日本語のアクセントなんかないじゃないかと、そう言いそうになってから、耳が良ければ、歌うだけなら、外国語くらい、完璧に口移しにできるのだということを思い出す。そして、そのくらい耳が良くなければ、グレートの言うところの、本物になど、なれない。
 ああ、そういうことかと、ようやく、グレートの選択に合点が行って、思わずひとりでうなずいていた。
 相変わらず、ものを見分ける目は、そして聞き分ける耳は、おそろしいほど確かだ。そして、ハインリヒなどよりもよほど、趣味は柔軟だ。ジェットと同じ車に、ふたりきりでいることなど、ハインリヒにはとても出来ないけれど、グレートは、ジェットの趣味にも、絶対に口を挟まない。趣味人であり、同時に大人でもあれば、いくら悪趣味と思っても、人の好みにあれこれけちはつけるべきでないという、ハンンリヒには、まだたどりつけない姿勢だった。
 新しいものの中にも、本物は必ずあるんだ。それを見つけるには、好き嫌いなく、数を聞くしかないさ。
 もっとも、ジェットが、グレートの趣味を理解するには、もっと時間がかかるのだろうけれど。
 また、さっき聞いた曲が、聞きたくなった。
 「もう一回、かけてくれよ。」
 グレートが、ステレオの上に乗せたCDのケースに、手を伸ばしながら、言った。
 「・・・それは少し、難しい。」
 焦らすように、グレートが、真面目くさった顔つきで言葉を返す。
 「何が難しいんだ? CD放り込んで、ボタン押すだけだろう。」
 「いや、問題が、ひとつある。」
 ハインリヒが、今にも取り上げそうなケースの上に、しっかりと手を置いて、グレートは、重々しく、声を低めた。
 「この声は、ひどく官能的だ。官能的すぎて、性的興奮をすら、もたらしてくれる。」
 どこまでが冗談か、どこまでが本気か、もう、ハインリヒには、見分けもつかなかった。
 半ば呆れながら、それでも、おそらく、グレートの言っていることはほんとうなのだろうと思いながら、グレートの掌の下から、ケースをするりと抜き取った。
 「・・・あんたがその気になったら、いくらでも付き合うさ。何なら、ずっとリピートで、流しててもいい。」
 今度は、グレートが、面食らった表情を見せた。
 「ずいぶんと、これはまた、大胆な誘いだな、死神どの。」
 ケースを開けながら、ちらりとグレートを見て、にやりと笑う。
 「どの曲だ?」
 CDを、プレイヤーのトレイに乗せながら、訊いた。
 「"You're The One For Me"」
 タイトルを、グレートが、歌うように、言った。
 「ドイツで、気に入ったスピーカーが見つかったら、スピーカーと一緒に、イギリスに行ってやる。一緒に取り付けて、それから、最初の音を聞くのは、俺と一緒だって、約束してくれ。」
 グレートのシャツを、引っ張りながら、ゆっくりと目を閉じた。
 「悪くない取引だ。」
 しゃべる息がかかって、それから、唇が触れた。
 胸を合わせて、抱き合う傍で、あの声が流れていた。
 ほんとうに、天に届くかと思うほど、伸びる声。濡れた声は、どこか、繋げた躯の奥底からもれる、きわみの瞬間に上げる声のようにも思える。
 確かに、官能的な天の声だと、そう思って、そして、グレートの腰を抱き寄せた。
 自分の後ろで、黒い翼のはためいた音が、したような気がした。


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