Best Of What I Got



 ジェットの誕生日のケーキが、まだ冷蔵庫に残っていた。
 ジェットの大好きな、生クリームたっぷりのケーキを、フランソワーズが焼いてくれたのだけれど、何しろ大きなそれを、メンバーがそれぞれ食べたのに---ジェットとイワン以外のみんな、胸やけに苦しむ羽目になった---、まだ3分の1ほど、冷蔵庫の中に、手も着けられないまま残っていた。
 冷蔵庫をのぞいて、ハインリヒは、ちょっとだけ、困った顔つきになる。
 ほんの少しの、罪悪感。
 感じる必要のない、罪悪感。
 ジェットのためのケーキが、まだ失くならない---まるで、ジェット自身を、ないがしろにしているような気分になる---こと、ジェットのために焼いてくれたのに、まだ失くならない---フランソワーズに、悪いと思う---こと、ジェットの好きなケーキが、まだ失くならない---保護者として、責任を持つべきだろうか---こと、つまりハインリヒは、残りもののケーキに対して、かすかに責任を感じていた。
 ジェットは、感謝の意を示すべきだし、ジェットに、感謝の意を示すべきだし、フランソワーズと、この甘ったるいケーキに付き合ってくれた仲間すべてに、敬意を示すべきだと、思う。
 主語の抜けた部分に、ジェットではなく、自分を入れて、ハインリヒは、ようやく決心した。
 「ジェット、紅茶いれるぞ。」
 リビングで雑誌を読んでいたジェットが、何事かと、キッチンへ入ってくる。
 「砂糖は抜きにしてやるから、ケーキを片付けるのを、手伝え。」
 焼き上がりに比べれば、それでも嵩の減ったケーキを、掌に乗せて、ジェットの方へ差し出して見せる。
 ジェットが指を伸ばし、表面の、まだふっくらとした生クリームを指ですくって、その指をぺろりと舐めた。
 ジェットの、その行儀の悪さに、少しだけ顔をしかめながら、普通でなら、4切れ分はまだありそうな、元は巨大な四角いケーキだった、その、卵と小麦粉と砂糖と生クリームのなれの果てを、ハインリヒは、ふたり分に切り分けるために、キッチンのカウンターに乗せる。
 肩越しにのぞいてくるジェットに、振り向きもせずに、大きなナイフを振り上げ、半分よりは、ほんの少し、片方が大きくなるように、ケーキを切った。
 小さな方は、もちろん自分自身のために。
 それでも、胸ヤケを、すでに感じるほど甘そうに見える。
 ジェットの指の跡がある方が、ジェットの分け前だった。
 大きな皿を取り出し、切ったケーキを乗せると、大きな方のピースを渡して、あごをしゃくる。
 「紅茶は、ミルクだけでいいな。」
 ジェットが、軽く唇を突き出したけれど、口答えはせずに、何も言わないまま、自分の分の皿を抱えて、リビングへ去った。
 たっぷりと紅茶をいれながら---このケーキを片付けるためには、少なくとも、ポット一杯分は、甘くない紅茶が必要に思えた---、片手でフォークを伸ばし、小さなかけらを口に運ぶ。
 焼き立ての柔らかさはないけれど、甘すぎることをのぞけば、なかなか美味いケーキだった。
 今度は、フランソワーズと一緒に、大人向けの、少し苦めのチョコレートケーキでも焼いてみようかと、ふと思った。
 それなら、紅茶の葉も、どこかで選んでこよう。
 ケーキが甘くないなら、ミルクで煮出す、ロイヤルミルクティーでも、かまわないかもしれない。
 紅茶の葉を、こげる直前まで、小さななべでから煎りして、そこに、じゅっとミルクを注ぐ。鼻先に、紅茶の香りと、ミルクの甘い匂いと、ほんのちょっぴりの、香ばしさと・・・そんなものが甦って、ハインリヒは、思わず笑みをもらした。
 ミルクだけを注いで、いちばん大きなマグに入った紅茶を、リビングに運んだ。
 ジェットはもう、皿を半分空にしかけていて、こんな甘いケーキを、ケーキだけで食べられる、いかにもアメリカ人のその味覚に、アルベルトは、思わず敬意を表したくなる。
 もしかして、舌も改造されているのだろうかと、そんな冗談が浮かんだ。
 口にはせずに、さて、と覚悟を決めて、自分の責任を果たしにかかる。
 さすがに、半分を越すと、少しつらくなって来たのか、ジェットのペースが落ちる。
 とりあえず、夕食は抜きにするつもりで、ハインリヒは、ゆっくりと、ケーキを端から崩しては、休まずに口に運んだ。
 黙々と、ふたりで並んでケーキを食べる。
 ジェットの紅茶が空になると、何も言わずに、キッチンで、まだ暖かな紅茶を注いでやった。
 生クリームを、皿にたっぷりと残して、それでもケーキの本体は、きれいに食べてしまった。
 フォークを置いて、隣りで、ジェットが大きく息を吐く。
 ハインリヒも、生クリームの部分を残して、ようやくケーキ本体を、すべて食べ終えた。
 紅茶のポットは、もうすっかり空で、もう少し落ち着いたら、また新しい紅茶をいれようと思いながら、空になった皿を、ジェットのそれに並べて置いた。
 これで、ジェットの誕生日が完全に終わったと、妙なところに安堵する。
 せっかく焼いたケーキが、片付かなかったと、フランソワーズをがっかりさせることもない。他の仲間が、まだ残っているケーキを見て、罪悪感を感じさせる必要もない。
 ジェットの誕生日が、ようやく終わったと、ハインリヒは、思わず口元を少しゆるめた。
 ジェットが、ケーキのおさまった胃の辺りを撫でながら、いきなり、空の皿に手を伸ばした。
 ケーキを、冷蔵庫から取り出した時のように、指先に残った生クリームをすくい、それを口元に運ぶ。
 舌を差し出し、指を、口の中に入れた。
 唇の内側が、動く。
 抜いた指を、また生クリームに伸ばし、またすくったそれを、今度は、ハインリヒの方へ差し出した。
 なめろ、と言われているのだとわかって、ハインリヒは、憮然とした表情を浮かべたけれど、にらむように、まだ指を突き出して、こちらを見ているジェットに根負けし、その指先に向かって、舌を伸ばした。
 ウインナー・コーヒーという手もあったなと、ジェットの指先から、生クリームを舐め取りながら思う。
 苦いコーヒーに、生クリームをたっぷりと落とす。
 舌を焼く、コーヒーの苦さを、恋しく思った。
 指から生クリームを舐め取ってしまうと、またジェットが生クリームをすくう。
 完全に皿を空にする気かと、少しうんざりしていると、指を抜いた口元に、舐めきれなかった生クリームが、白く残った。
 ガキじゃあるまいし。
 唇をへの字に結んで、それを拭ってやるために、指を伸ばす。
 伸ばしかけて、止めた。
 代わりに、唇ではなく、あごに指を触れ、それから、ジェットの口元に向かって、舌先を伸ばした。
 ぺろりと、まるで、動物が仲間にそうするように、ジェットの唇を舐める。舐めて、そこに残った生クリームを、きれいにしてやった。
 ジェットが、不意のハインリヒの振る舞いに、ぎょっとしたように体を引いて、あごを軽く振った。
 あごに触れた手が外れ、ジェットの、一瞬だけ赤く染まった頬が残る。
 普段は、自分から、こんな悪戯をしょっちゅう仕掛けて、ハインリヒを怒らせるくせに、仕掛けられるのには、案外慣れてないらしい。
 惑うように、視線を漂わせたジェットを、ほんの一瞬だけ、いつもよりもっと、いとしいと思った。
 ハインリヒの、口元に浮いた薄い笑みを、ばかにされたとでも思ったのか、ジェットがまた、乱暴な仕草で生クリームをすくい取り、それを、まるで口紅か何かのように、ハインリヒの唇に、ぺったりと塗りつけた。
 甘い香りが、強く立った。
 あごを引いて、眉をしかめた瞬間、お返しのつもりか、ジェットの唇が重なってくる。
 重ねた唇を開いて、ぺろりと、ジェットの舌が触れた。
 甘い、接吻。
 さっき食べ終わったケーキよりも、甘ったるい、接吻。
 互いの舌に、生クリームを溶かして、奪い合うように、互いを舐めた。
 頬を赤くして、ジェットが、ハインリヒのシャツを引き寄せる。
 「・・・部屋に行こう。」
 切羽詰まった声が、奇妙にかわいらしい。
 「皿が、汚れたままだ。」
 「オレが後で片付ける、約束する。」
 一刻も早く、ここから去って、閉めたドアの向こうで、ふたりきりになりたいと、ジェットの全身が訴えている。
 紅茶が、飲みたかったんだがな。
 砂糖の入らない紅茶で、ジェットの誕生日を、完全に終わらせるのも、悪くはない。
 その前にけれど、プレゼントを、もうひとつ。もう一度。そんなつもりでは、なかったけれど。
 しがみつくジェットを、抱え起こしながら、また、甘い接吻を交わす。
 フランソワーズは、汚れた皿のことを怒るだろうか、それとも、ケーキが片付いたことを喜ぶだろうか、どちらが先だろうかと思いながら、ジェットに引きずられるように、リビングを出る。
 指先には、こっそり、生クリームがひとすくい。
 背中に隠して、ジェットには、内緒だった。


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