Birthday To Jet



 空から舞い下りて来るジェットを見上げるたび、ハインリヒは、青い空を背景に、真っ赤な防護服に、黄色いマフラーのなびく、その目に痛いほどの彩りを、いつも目を細めて眺めた。
 鮮やかな色の氾濫に負けないほど、ジェットも色鮮やかだけれど。
 緋色の髪、澄んで明るい、淡い緑の瞳、ひょろりとした長身は、薄く細く、けれど裸になれば、鋼のように---文字通りの意味でも---鋭くしなやかだった。
 青年になる一歩手前で、成長を止めてしまった体。伸び切った体に、筋肉が追いつかなかった体。それでも、大人ほどは硬くない筋肉に、薄く覆われた、体。
 鳥のような、蝶のような、炎のような、疾風にも似て、けれどどこかに、儚さをたたえて。
 油断すれば膚を裂く、ナイフの鋭さが、一筋、瞳に宿る。
 その瞳が、ハインリヒを見つめて、ひどく優しくなごんだ。


 誕生日を、ドイツで過ごしたいと言われ、
 「おまえの誕生日なら、俺がそっちに行くのが筋だろう。」
 電話の向こうで、ジェットが照れたように笑ったのが、聞こえた。
 「アンタのところに、行きたいんだ。」
 おまえの誕生日だ、おまえの好きにすればいい。そう、素っ気なく答えても、ジェットは笑うのをやめなかった。
 まっすぐに、声が伝えてくる。
 隠しきれずに、隠す気もなく、言葉と音が、アンタが好きだと、伝えてくる。
 それを何度も受け止め損ねたのは、昔の話だ。
 今も、器用にとは言い難く、それでも、ずいぶんとましなやり方で、ジェットに応えている。
 それでも、俺もだとは、とても口に出来ない。
 もしかすると、一生、無理なのかもしれないと、ふと思うこともある。


 服を着替えて、街に出て、まずソーセージにかぶりついてから、ジェットが言った。
 「コンドーム、買いに行こうぜ。」
 聞き間違えたのかと、目を細め、右側の耳を、ジェットの方へ寄せる。
 「なんだ、なんて言った?」
 思わず、声が高くなる。
 「コンドーム。それともアンタ、オレが来るからって、ちゃんともう準備してんのか?」
 ジェットの英語が、明らかにヨーロッパ人の訛りでないことを、ハインリヒに、心の底から感謝する。
 イギリス英語か、フランス訛りの英語、あるいは北欧系の訛りなら、とてもこんな台詞はしゃれにならない。
 「アンタ、いっつも言ってただろ、アメリカ製なんか使えるかって。アンタのご自慢の、ドイツ製のコンドーム、どこがどう違うか、オレに見せてくれよ。」
 周りの誰も、英語がわからないと思い込んでいるのか、声を低めることさえせずに、ジェットが言葉を継ぐ。
 黙れと言うべきなのだと思いながら、ジェットの物怖じのなさに、逆におかしみがわいた。
 「使うのは俺だ、おまえには、違いなんかわからんだろう。」
 「わかるさ。」
 そう言って、唇についた油を、ぺろりと舐める。
 挑発するつもりだと、明らかにわかる仕草だった。
 「アンタを、中でどんなふうに感じるか、オレだって、ちゃんとわかってる。」
 寒い冬には、外に出るのが億劫になる。長い寒い夜を過ごすのに、テレビも本も映画も音楽も、何となく物足りないことがある。
 2月は、そんな真っ最中だった。
 ニューヨークの冬の夜も、ひとりで過ごすには、長すぎて淋しすぎるのだろうかと、ふと思った。
 ふと思ってから、狭いベッドに、体を寄せ合って眠る夜の、暖かな窮屈さを思い出す。忌々しさが甘く、肩先からわき出るような、そんな気がした。
 自分からは、決して動かないハインリヒのために、こうして、わざわざやって来たのだと、全身で言っている。
 誘われたから、挑発されたからと、言い訳なしでは、決して手を伸ばさないハインリヒのために、ジェットが、あからさまな誘いをかける。
 その誘いに乗るために、うっすらと笑いを刷いて、右手を伸ばす。


 別に、そうと決めたわけでもなく、大きなベッドに寝るのは、ただ、性に合わない。
 おそらく、よけいな空間が、ひとりを強調するだけだと、気づいているからなのだろう。部屋が狭くなると、それを言い訳にして、第一、誰も、このベッドを分け合って眠ることなど、しないのだから。
 ジェットのベッドは、ひとりのくせに、サイズの大きな、床に直接置いたマットレスだった。そのベッドに、長い体を丸めてジェットは眠る。いかにも仮の寝床というふうで、残念ながら、そこに1週間寝続けようとは、ハインリヒニはとても思えない。
 そこに他の誰かが、毛布を分け合って眠る夜もあるのだろうかと、思うこともある。
 口には決して、しないけれど。
 こうして、誕生日を口実にすれば、ハインリヒの照れが減るのだと、ジェットらしい、気遣いではあった。
 そうしなければ、電話もないまま、平気で半年過ぎてしまう。
 動くのは、いつもジェットだった。
 来いと言われれば、仕事の算段をつけて、会いにゆく。けれど、こちらへ来いとは、ハインリヒは言わない。
 まるで、自分の世界に、ジェットが入り込んでくるのを拒むように、ジェットの誘いに乗るだけの自分に、とどまったままでいる。
 ジェットの、あからさまな誘いがなければ、手を伸ばすことすらためらわれてしまうのは、何故だろう。
 自分の体を恥じている。それはひとつの理由だ。
 機械の体で、人間の営みの真似事をする醜悪さに耐えられない。それは言い訳だ。
 ジェットに、誘われるままに、自分が望むままに、踏み込んで、拒絶されることが怖い。失うことを怖れることが、怖い。それが本音だ。
 本音の部分は、いつも隠したまま、ジェットに手を伸ばす。求められたから、誘われたから、挑発されたから、自分に言い訳しながら、ジェットの長い体を、自分の下に引き込んで、これは、ジェットが欲しいものなのだと、自分に言い聞かせる。
 オレは、アンタが好きだ。
 アンタは、なにがほしいんだ?
 時折、ジェットが下から、じっと見つめて来る。真っ直ぐに、痛々しいほど真摯に、滑稽なほど真剣に、その緑の、人工とはとても信じられないほど、澄んだ瞳で、問いかけてくる。
 答えられずに、見つめ返せずに、するりと視線を反らして、ジェットの躯の中に、溺れ込む。
 熱と皮膚を交わすことで、唇が語る言葉を、語らせずにすむように、体の交わすおしゃべりを、すり替えて、ごまかしている。
 ごまかしているのだと、気づかれていることに、気づかないふりをする。
 滑稽なのは、自分だと、苦い思いを飲み下す。


 買って来たコンドームの箱をさっそく開けて、中から出したパッケージを唇に挟み、おどけた仕草で、ハインリヒの腕を引く。
 「それが、誕生日のプレゼントか?」
 口元にあごをしゃくると、ジェットがにっと笑う。
 小さな、四角いパッケージを今度は指に挟んで、
 「アンタでいいよ、プレゼントは。」
 「だったら、リボンを買って来るべきだったな。」
 引き寄せられ、唇が重なる。まだ、そこでくすくすと笑いながら、互いの腰に両腕を回して、足元に気をつけながら、ハインリヒの、狭いベッドに倒れ込む。
 ふたり分の重みに、ベッドが大きくきしんだ。
 言葉の足らない部分を、こすり合わせる皮膚の熱さで、補う。
 躯を重ねると、まるで、何百もの言葉を交わしたような、そんな錯覚に陥ることができる。
 相手を深く理解したと、たやすく誤解することができる。
 躯だけの繋がりなのだと、そこで足を止めようとするハインリヒを、ジェットはもっと先へ導こうとしている。もう、長い長い間。
 それ以上は踏み込もうとしない、踏み込ませないハインリヒを、辛抱強く、自分の方へ引き寄せようとする。躯だけではなく、心も。
 躯の奥深くを重ねることが、心を重ねることにはならないと、知っていながら、自覚することを拒むハインリヒに、ジェットは、辛抱強く言葉を注ぐ。
 アンタが、好きだ。
 下から、真っ直ぐにジェットが見つめてくる。
 視線も言葉も返せないまま、体の動きで、先をごまかす。
 狭いベッドで、手足を時折、はみ出させながら、届くすべてに触れる。
 そっと指を差し入れれば、狭く応えてくる熱がある。
 大きく広げた、細く長い両脚の間に、体の重さを気にしながら、腰を落とす。
 ジェットが、声を上げた。
 甘く、耳に響くそれを、もっと聞きたくて、少し強く、躯を押す。
 躯を繋げ、体を離して、ジェットを下に見下ろす。
 シーツの上で、自分に合わせて揺れる体を、どこか遠くに、虚ろに見つめる。
 長い足が、腰に絡まって、ジェットが、長い両腕を、ハインリヒに向かって伸ばした。
 すべてを重ねたくて、繋がるだけではなく、抱き合って、重なり合いたくて、ジェットが、腕を伸ばしてくる。
 金属が剥き出しの、自分の体の冷たさを、一瞬疎ましく思う。ジェットの膚---人工の---を、傷つけてしまうことを、ふと恐れなければならない、自分の機械の体を、まるで化け物のそれのようだと、思う。
 こんなふうに触れ合うために、造られた体ではないから。
 生み出さない、営みの真似事をするために、改造された体ではないから。
 効率の良い、破壊のための体。殺戮と流血を約束する、機械のからだ。
 その体を抱きしめたくて、ジェットが、腕を伸ばしてくる。
 見つめられて、視線を反らすタイミングを、不様に逃した。その不様さが、笑い出したくなるほど滑稽で、その滑稽さゆえに、自分をふと、許す気になった。
 今だけ。
 いとしいのだと、口に出来ない唇の代わりに、緑の瞳を見つめ返した。
 見つめながら、胸を落とした。
 両腕が、固く背中に回る。もう、離さないとでも言うように、抱きしめて、抱きついてくる。
 胸と肩を重ね、躯の奥深くを繋げたまま、体全部で、交わる。内側からも、外側からも、すべて隔てるものを拒んで、溶け合うように、一緒に揺れる。
 肩に、ジェットの、小さく漏れる声が触れる。
 その声よりも大きく、小さなベッドがきしんでいた。


 長々と、体を伸ばす空間すらなく、ぴったりと体を寄せ合って、抱き合っていた。
 波打つシーツの上で、まだ、部屋の温度に冷え切らない皮膚を、晒したまま、ジェットの指が、頬や唇や、首や肩に触れていた。
 「アンタがもし、プレゼントなら、オレが持って帰ってもいいか・・・?」
 「手荷物扱いにはならんぞ。」
 ジェットの手が、右の掌に重なった。
 「・・・アンタ、オレと一緒にいるべきだよ。アンタ、オレのもんだから。」
 右手を取って、自分の頬に添えた。
 暖かな頬だった。鉛色の掌は、冷たいままだったけれど。
 「・・・どこ製のコンドームが、アンタのいちばん好みか、一緒に調べようぜ。」
 ジェットらしい誘い方だ、と思ってから、その頬を撫でた。
 冗談の砂糖をまぶした、本気と本音。
 とらわれてしまうことの弱さごと、受け止めてやると、ジェットの内側が、何度も何度も言っていた。
 それを信じてみたいと、初めて思った。
 「・・・・・・だったら、もう少し大きくて、丈夫なベッドがいるな。」
 ふっと、ジェットの口元が、微笑む。
 首を伸ばしたジェットに、唇を軽く噛まれた。
 「明日の朝は、アンタが朝メシ作ってくれるんだろ?」
 「何がいい?」
 あごに額をすりつけて、猫のように喉を鳴らした。
 「かりかりに焼いたベーコンに、卵が3つのスクランブルエッグ、ミルクとオレンジジュース。アンタに合わせて、ミルク入りの紅茶に付き合ってやるよ。」
 ふたりで、声を合わせて笑った。
 長く大きな体をふたつ、添わせて、寄せ合って、安らかな窮屈さを分け合って、ふたりは眠るために目を閉じる。


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