CURE FOR ITCH



 珍しい、午後だった。誰もいない、ふたりきりの。
 いつもなら、誰かの気配が身近にあるのに、今日は、しんと、怖いほど静まって、他に誰もいない。
 白い壁が、奇妙にいつもより白っぽく、まるでこちらに覆いかぶさってくるような、そんな感じがした。
 いつもよりただっ広いはずの空間で、何故息苦しさを感じるのだろう。閉じ込められているような、そんな感覚。
どうしてなのか、何かに怯えているような、そんな気分になる。




002

 テレビにも飽きて、キッチンで何か飲むものでも探そうと、食器棚に手を伸ばした時だった。
 不意に後ろで気配がして、伸ばした体に腕が回った。
 鋼鉄の腕。アイツとオレだけが、この家に残っていたから、別に考える必要もなかった。
 ただ、人前で、オレに触れることは絶対にしないヤツが、キッチンなんかでオレに手を伸ばして来たのが、奇妙といえば奇妙だった。
 「なんだよ。」
 首をねじって、様子を窺う。ヤツは---004は、いや、ふたりきりだからアルでいいのか、アルは、オレの背中に額を押し当てたまま、ものも言わずに両腕をきつく締めた。
 その腕に、ふといやなものを感じたのは、どうしてだったのだろう。
 喉元に、締め上げるために掌があてがわれる、そんな感じ。自分を傷つけるための、手の動き。オレはふと、そんなものを想像していた。どうしてなのか、わからなかったけれど。
 アルの機械の掌が、するりと下に滑った。
 オレはまだ、キッチンの銀色に光るシンクの縁に押し付けられたまま、身動きも出来ずにいた。
 オレの方が背は高い、ほんの、こころもち。アルの方が、胸は厚い。手足はオレの方が長い。そして力は、アルの方が強い。
 ベッドの中で、オレがせがんで比べた、そんなこと。違うところと同じことを知りたくて、ひとつびとつを比べた。
 そんなことを考えているうちに、アルの指が、もう少し奥まで、伸びてくる。
 「オイ、アンタ、なんのつもりだよ。みんなが帰ってきたらどうすんだよ。」
 別に大声で吹聴はしていないけれど、わざわざそうだと言ってあるわけでもない。濡れ場を見られて言い訳するのも、ただひたすらに面倒くさいだけだ。
 手を押しのけようとして、逆に、手首をつかまれた。きつく。
 ふと、背中に悪寒が走った。違う、と思う。オレが思ってるようなことじゃないと、思い当たる。
 アルはオレの両手首を一緒にして、背中に回した。そのままオレをシンクに押し付けて、身動きを封じる。
 機械でない方の手が、オレの服を脱がしにかかる。
 どうしてなのか、わからなかった。一言言えば、さっさとベッドルームに行って、いくらでも自分で服なら脱げるのに、どうしてこんな、まるで無理強いするような真似をするのか、わからなかった。
 いつもより、アルの無口さが不気味で、呼吸する音だけが耳元に聞こえて、オレは恐怖ではなく、とまどいで、言葉を失っていた。
 本気で抵抗するつもりはなかった。ただ、こんなふうに扱われるのが好きなわけじゃない、と、アルに伝えたかった。
 腕を振り払おうともがくと、アルの手に、いっそう力がこもる。それからヤツは、オレの髪をつかんで体を引き起こして、でもオレの手首はつかんだままで、場所を移動させた。
 キッチンのカウンターは、体を折り曲げて、押し付けられるには、シンクよりも具合が良かった。オレにとっても、アルにとっても。
 頬にあたる、ひやりとした感触。両手首をつかんだその上に、ひじに体重を乗せて、背中を完全に押さえつけられる。
 痛みに、思わずうめいた。
 それから、ジーンズを引きずり下ろされて、アルがいきなり入り込んできた。
 自分の痛みに頓着せず、相手の苦しむ表情が好きでない限り、こういうやり方は、互いにつらいだけだ。
 こちらが痛ければ、あちらも痛い。
 包み込まれるためであって、暖かくて湿った粘膜に触れるためであって、侵入そのものは、そこに辿り着く手段に過ぎない。だから、気持ちよくなりたいなら、もう少し優しく、こちらの様子をうかがいながら、入ってくるべきで、いきなり押し込むのは反則だ。
 どうしてヤツが、こんなことをするのか、わからなかった。
 抱き寄せられて、キスでもされれば、オレは自分から何でもするのに。無理強いする必要なんて、ないのに。
 痛みに、オレは声も出なかった。
 向こうも、オレが良くなければ、気持ちいいもヘッタクレもないと気付いたらしかった。
 躯を浮かせて外し、それから、今度はオレを床に押し倒した。
 「アンタ、一体、なんで・・・」
 「黙ってろ。」
 皮膚が、あわ立つような、低く冷たい声。
 まるで舌を切り取られたように、オレは喉の奥を凍りつかせた。
 今度は正面から。両手首は、今は頭上で、ふたつ重ねて床に押し付けられている。
 どうして、と頭の中で繰り返していた。どうしてこんなことをするのか、どうしてこんなことをされるのか、わからなかった。
 腰を浮かせて、繋がりやすいように、足を開く。ヤツのためではなく、自分が痛みを感じないために。
 歯を食いしばった。声を聞かれるのは、いやだった。
 薄く開いた唇。寄せられた眉の間。瞳は閉じられて、今は体温も遠い。重なるほど近くにあるはずの体は、重くて冷たいだけの、機械の塊だった。
 クソッタレ。口の中で呟く。一体、どうしたって言うんだ、アンタ。
 体は開いても、躯が開かないのに、ようやく気付いたらしく、アルはまた、ものも言わずにオレから離れた。
 オレは、身動きもしなかった。できなかったのでは、なく。
 床に坐りこんで、天井を仰いだまま、アルはしばらくそこにいた。
 何か言ってくれるのを、オレは待っていた。悪かったとか、痛かったかとか、なんでもいい、たった一言言ってくれれば、少なくとも、踏みつけにされたような、こんな気分が、少しは救われる。
 アルは、ようやくオレの方を見て、けれど何も言わずに立ち上がった。それ以上、触れようともせず、足早に、キッチンを出て行った。
 床の上に、惨めに横たわって、身づくろいもせずに、まだ考え続けていた。どうして、と。
 ほんとうの強姦もあった。それも1度や2度ではなく。だから、こんなこと、大したことではないと、思おうと思えば、思えた。恋人同士の悪ふざけだと、そう思えば、傷つかなくてすむ。
 けれど、自分を大切に思ってくれている---少なくとも、オレがそう思っている---はずの誰かから踏みつけにされれば、誰だって傷つく。
 優しさのカケラもなく、どうしてアルがオレにこんなことをしたのか、わからなかった。する必要は、なかったのに。
 さまざまに踏みにじられた、昔の思い出が、一度に甦ってきて、涙が、目尻を伝った。
 誰かが、今にも帰ってくるかもとも思わずに、キッチンの床に半裸で伸びたまま、ひとりで泣き続けた。




004

 静か過ぎた。白い壁は、まるで今にもぐにゃりと歪んで、こちらに襲いかかって来そうで、気がつくと、機械でない方の掌に、汗が滲んでいた。
 何かが、後ろから迫って来るような、そんな感覚。ひどく凶暴な衝動が、あった。敵に追われている時と、似た感覚。
 逃げ出したかった。何かからは、わからなかったけれど。
 キッチンに入った時、ジェットが上に向かって、腕と、そのひょろ長い体を伸ばしているのが目に入った。
 どうして、そんな気になったのか、わからない。
 誰かの体を、身近に感じたかったのかもしれない。追われている感覚を、消したかったのかもしれない。まといつく、微かな恐怖を、忘れたかったのかもしれない。
 ------いや、どれも嘘だ。
 俺は、ただ、攻撃したいという衝動を、解放したかっただけだ。
 誰を、でも、何を、でも構わなかった。敵と見なせる対象を、攻撃できればよかった。
 フラッシュバック。戦っている時の感覚に、突然引き戻される。一種の、一瞬の、狂気。
 気がつくと、ジェットを押さえつけて、服を脱がせようとしていた。
 いつもなら、愛しさを込めて抱き寄せるはずの体を、侵入するために押し開いていた。
 凶暴さを押し隠して、静かに、恐ろしいほど静かに、ジェットを踏みにじる。自分と同じ、感覚のある存在だということを、便利に忘れて、壊れた椅子か何かのように、扱う。
 それが、強烈に心地良かった。
 侵せ、と頭の中で何かが言う。踏みにじって、押し潰し、苦痛の声を上げても無視しろと、何かが言う。自分でないなら、自分以外の何者かなら、敵だと、声が言った。
 シンプルな、攻撃。襲い、拘束し、相手の敵意と戦意を叩き潰す。屈服させ、這いつくばらせて、征服する。必要なら、破壊が、最後の手段として残っている。
 行為自体に、快感はなかった。いつもなら、暖かく包み込まれるはずなのに、こちらに優しさがなければ、向こうも優しさを返しては来ない。狭く、拒絶される。けれど構わず、躯を進めて、入り込もうとした。
 ジェットが痛みにうめくのを、聞いた。重い俺の体の下で、ジェットの背骨は折れてしまうかもしれないと、ふと、思う。そんなわけは、ないのに。
 硬張ったままの、ジェットの躯。音もなく、拒否を全身で顕わしながら、たまに、抗うように体が動くけれど、重みをかければ簡単に封じることが出来る。
 純粋に、攻撃のために造られたからだ。破壊のための機械のからだ。
 それに感情を求めるおまえが間違ってる。そう思わないか? こうして、今、おまえを侵して、傷つけようとしている。俺たちが、優しさを込めて互いを求める行為を、俺は今、おまえを傷つけるために使っている。
 いや、似て非なる行為。似ているだけだ、同じじゃない。これはただの暴力だ。おまえを求めて、おまえを抱きたいわけじゃない。今は、違う。
 ジェットを引き倒し、今度は床に移動する。冷たい、床の上。
 正面に見据えると、焦点の合わない瞳がそこにあった。
 「アンタ、一体、なんで・・・」
 黙れ、とぴしりと言った。命令の口調。絶望が、その目の色に浮かんだ。
 胸の奥のどこかが痛んで、それから、けれどまた、征服のための行為に没頭する。
 さっきよりは幾分協力的に、ジェットの躯が添って来る。快感のためでは、もちろんないと、知っている。自分が傷つかないためだ。いくら慣れたこととは言え、無理強いされて、すんなり行くわけもない。
 自分の下に組み敷いた体。押し開かれ、入り込まれ、侵されている躯。暴力に晒されて、けれど、抵抗もできずに、それを受け入れている体。
 できるわけがない。見てくれだけは、俺たちが何度もしてきたことだ。ただ少しばかり、場所の選択が普通でないのと、俺のやり方が、尋常でないだけだ。
 本気で抗わないのを知っていて、始めたことだから。
 ジェットが本気で抵抗すれば、まさか俺でもこんなことは出来ない。けれど、俺は知っていた。戸惑って、不審を顕わにして、けれどジェットは逆らわないだろうと。知っていたから、俺は今、こんな卑怯なことをしている。攻撃する対象が、不意に必要になったから。たまたまジェットがそこにいたから、俺は今、こんな卑劣なやり方で、ジェットを侵している。
 互いに、これは違う、いつも俺たちがすることとは違うと、知っているのに。
 止められない。自分を、止めることが出来ない。愛しいはずの存在を、踏みにじるのを、止められない。ジェットを傷つけている。いちばん、卑怯な方法で。
 ジェットの躯は、一向に馴染んでくる様子を見せなかった。冷たく閉じたまま、拒否の様子も変わらずに、こちらを押し返してくる。
 当然だろう。耳の奥の辺りで、自分自身を嘲笑する。無理強いされて感じるようなヤツじゃない。誰も、こんなやり方で躯を開かれて、歓ぶわけがない。
 おまえだって、感じてるわけじゃないだろう。俺は、自分自身にそう言った。
 不意に、どこかが醒めた。ぷつりと切れるように、我に返った。
 体を離し、床に坐り込んで、まだ身じろぎもしないジェットを、眺めやる。
 乱れた服を体にまといつかせて、静かに、まるで死体のように、そこに横たわっている。
 視線を合わせるのが怖くて、天井を見上げた。
 何が起こった? 何をした? これは誰だ? あれは誰だ? ここは、どこだ?
 頭の中に、様々な思いが渦巻く。混乱と混沌に襲われ、吐き気がした。
 背骨が冷えてゆく。言うべき言葉も思いつかなかった。一体、何が言える?
 立ち上がり、ここから消えることを選んだ。何も言わないまま。ジェットに触れることが怖かった。その首に、両手を添えて、押し潰してしまいそうで。




 何が起こったのか、よくわからない。たったひとつ確かなのは、アンタがオレを傷つけたってことだけだ。
 理由はどうあれ、アンタはオレを傷つけた。アンタが、それをわかってるかどうか、オレにはよくわからないけど。


 俺はロクでなしだ。人でなしでもある、文字通りの意味でも、だ。それでもおまえはいいのか?


 ロクでもないことに、それでもオレはアンタを嫌いになれない。
 アンタがしたことは好きじゃないけど、アンタのことは好きだ。


 俺には、人間らしさのかけらも残ってないのかもしれない。
 俺はただの、機械なのかもしれない。インプットされた情報だけを元に動く、機械。


 オレを欲しいなら、そう言えばいい。ゴーカンごっこが試してみたいなら、付き合ってもいい。
 でも、あんなふうに冷たい目で見下ろされるのはゴメンだ。

 
 おまえを、殺すかもしれない。


 オレを、ボロくずみたいに扱うのはやめてくれよ。
 そんな目にはもう散々遭ってきたから、アンタくらい、オレに優しくしてくれたっていいだろ?


 そんな目で見るな。そんな声で話しかけるな。俺は、おまえが思ってるような人間じゃない。人間ですら、ない。


 どうしてアンタは、オレが好きだって言うのを、素直に聞けないんだろう。
 オレが欲しいのは、優しさだけで、他には何もいらないのに。


 俺の手は冷たい。暖かくはならない。俺は機械だ。人間じゃない。
 機械に優しさなんか求めるのは、滑稽を通り越して、もしかすると悲惨ですらあるかもしれない。


 オレたちは人間じゃないかもしれないけど、機械でもない。
 機械はこんなふうに、互いを求め合ったりはしない。そうだろ?


 俺を、抱きしめてくれ。頼むから。気が狂っちまう前に。




 ハインリヒは、自分の部屋にいた。ベッドの端に腰掛けて、頭を抱え込んで、ジェットが部屋に入って来たのに、振り返りもしなかった。
 シャワーを浴びたのか、さっきとは違うシャツを、ジェットは着ていた。
 互いに無言で、ジェットはハインリヒの前に立つと、その銀色の髪を撫でた。優しく、静かに。
 それから、彼の頭を抱き寄せて、髪を撫で続けた。
 ハインリヒの両腕が、背中に回る。
 涙が、その水色の瞳からあふれ始め、ジェットのシャツを濡らした。
 機械は泣かない。涙は、ハインリヒが持つ、数少ない人間らしさの残骸のひとつなのだと、ジェットはその涙の冷たさを、微かな喜びとともに感じていた。
 なあ、とようやくハインリヒが言った。
 「殺してくれるか、いつか、俺が狂う前に。俺が、完全に機械になっちまう前に。おまえが、殺してくれるか?」
 ああ、とジェットは言った。髪を撫で続ける手を、止めずに。
 「オレが殺してやるよ、アンタの望み通りに。オレがアンタを殺してやる。心配しなくていい、オレがやる。」
 ハインリヒが、強くジェットのシャツを握りしめた。
 機械の部分に、心まで支配される日が、いつか来るのかもしれない。人間の心を失って、いつかほんとうに、機械になってしまうのかもしれない。
 怯えるハインリヒの心が、透けて見えるような気さえする。
 壊れる前に、オレが殺してやる。機械として壊れる前に、オレが、アンタを人間として、殺してやる。
 そうすれば、人間らしさを保てるとでも言うように、ジェットはもう一度、ハインリヒを強く抱きしめた。
 まだ涙は、流れ続けていた。


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