Don't Walk
Away
いつも、ひとりだった。
ひとりで生きられるだけ、したたかだったし、それなりに純粋な部分を保ちながら、世の中を斜めに見る方法も、知っていた。
早くに家族を失って、頼れるのは、自分だけだった。
街に黄昏れが降りる頃に、母親に手を引かれた子どもを見て、泣いたこともあった。
あんなふうに、母親にまとわりついて甘えることが、許される自分だったらと、何度も思った。
最期に、母親のひざに乗った時のことを思い出そうとして、それすら、もう遠い思い出なのだと気づく。
胸が、痛んだ。こっそりと。
肩をいからせて、わざとそこから目を反らし、耳をふさぎ、人のあふれる街を歩きながら、どうしようもないほど深く、ひとりを感じる。
夕暮れ時の街の風景は、いつも心を刺した。
ひとりを、淋しいと感じる前に、ひとりにされていたジェットは、ひとりを、特別悲しいことだと思ったことは、なかった。淋しいと感じることは、避けがたかったけれど、ひとりにされてしまったことを、恨んだことは、なかった。
数ある、色とりどりの人生の、ひとつ。
一生、親から離れずに暮らす誰かもいれば、生まれ落ちたその瞬間、ひとりぼっちになる人間もいる。人は誰も、他人の人生をうらやむ。それだけのことだ。
他人の、何気ない一言に、傷つくだけの、柔らかな心を抱えてもいたけれど、それをうまく隠す術も、とっくに身につけていた。
あれは、いつのことだったのだろう。どこかで、知っている女の子たちと話をしていて、その中のひとりが、輝くような笑顔で言った。
だめなの、パパったら、あたしが外国へ行きたいって言ったら、そんなこと、とんでもないって。
愛され、守られている者の、笑顔。ごく自然に、守護を身にまとった---まるで、第二の皮膚のように---人間にとっての、ごく当たり前の振る舞い。
泣かないために、強く強く歯を食いしばったことを、覚えている。
どうして自分は、こんなふうに守られていないのだろうかと、思った。
不満ではなく、疑問ではなく、ただ、ぽっかりと青い空を見上げて、知らずに雲に話しかけたくなるように、そんなふうに、そんなことを思った。
膚が黒いとか、指が短いとか、太っているとか、その程度の、人生における事実。変えようもなく、変えることすら必要ではないはずの、それだけの、こと。
ひとりだと、そこにいた皆に囲まれて、ジェットは痛いほど、思った。
ふらふらとあちこちを歩き回り、どこででも、ジェットは人に好かれた。
おしゃべりで、けれどよけいなことは言わず、口は固い。子どもっぽく見えるし、そう振る舞うくせに、妙に大人びていて、さらりと気の利いたことを言う。人の内には踏み込まず、踏み込ませず、不良がかった仕草で、そのくせ、礼儀をわきまえて、行動する。
少年の見かけの、必要な部分だけを大人にされた、早熟な子ども。
同い年の少年たちは、ジェットを敬遠した。ジェットが無邪気に、年相応に振る舞えば振る舞うほど、その後ろに見え隠れする、大人びた態度に、知らずに威圧されてしまう。
年下の連中には、やたらとなつかれ、頼りにされた。そして、それはまた、同じ年の連中の、反感を買う理由になる。
年の離れた、ほんものの大人たちは、自分たちが失ってしまった、子どもっぽさと伸びやかさと自由な空気を、ジェットの中に見出して、ジェットを通して、それを懐かしく味わおうとする。
たいがいは、人に好かれながら、ジェットはいつもひとりだった。
いつの頃からか、人に囲まれるたび、そこから浮き上がる自分を、感じるようになった。
どこへいても、空気に溶け込めず、自分の周囲にだけ、薄い膜がかかったように、みなが遠い。溶け込もうと、はしゃげばはしゃぐほど、自分が惨めになった。
異質だと、痛いほど、感じた。
どこかで何かが、違ってしまっていた。
まるで、シャツのボタンを、かけ違えてしまったような、そんな感じ。みなが乗って、進んでゆくレールに、自分だけが乗れない、そんな感じ。
息苦しさを感じて、雑踏の中で、吐き気を感じたこともある。
何日も何日も、部屋の閉じこもったきり、冷蔵庫が空っぽになるまで、どこへも出ないこともあった。
どこかで風邪をもらってきて、熱でも出て寝込む羽目になれば、いっそうひとりを痛感する。
咳込んで、痛む体を縮めながら、ベッドの中で、ひざを抱える。必死で眠りに落ちようとしながら、まるで、胎児の夢を見ようとするかのように、体を丸めて、闇の中に沈む。あたたかな、子宮の中。守護と庇護の満ちた、母親の腹の中。
どうして、生まれてきてしまったのだろう。
誰かが、自分を心の底から必要としているとは、とても思えない。
誰かの役に立っているのだとも、考えられない。
窮屈な世の中で、息苦しさにあえぎながら、それでも、酸素を求めて、必死になっている。
こんなことのために、生まれたのだろうか。
誰かがいつか、自分をひとりから、解放してくれるのだろうか。
冷たくなってゆく手足を縮めて、そんなことは、一生起こらないのだと、知っている。今までも、これからも、ずっとひとりなのだと、知っている。
淋しがる必要はない。悲しむ必要もない。それはただ、ジェットの髪が赤いのと同様、それはそういうことだ、というだけのことに過ぎない。
それだけのこと。
熱が引けば、そんなことを考えたことすら、もう忘れている。
体が風邪を引くように、心も、たまに風邪を引く。ただ、それだけのこと。
ジェットは、ひとりだった。
ひとりの孤独と、ふたりの孤独は、どちらがどれだけ、どんなふうに、深いのだろう。
ひとりで耐える孤独と、ふたりの間に出現する孤独と、どちらがどれだけ、どんなふうに、耐え難いのだろう。
誰も来ないと知っている部屋の中で、ひざを抱えてひとりで泣くのと、すがる誰かの腕を期待しながら、ひとりで泣くのと、どちらがどれだけ、どんなふうに、淋しいのだろう。
ひとりに慣れれば、ふたりが疎く、ふたりに馴れれば、ひとりが怖い。
ひとりの方が、楽だ、とジェットはひとりごちた。
あまりにも長い間、ひとりでい過ぎて、ひとりが当たり前になり過ぎて、誰かと過ごすことなど、とっくにないものと思い定めていたのに、どうして、こんなことになったのだろう。
自分だけの痛みなら、耐えられる。
耐えられるだけ強いのだと、知っている。
けれど、ふたり分の痛みは、少しばかり肩に重い。
だからこうして、今、ひとりで泣いている。
なぜ、ふたりでいて、孤独なのだろう。なぜ、ふたりでいて、ひとりなのだろう。
ひとりの孤独しか、ジェットは知らない。孤独だから、人は誰かを求めるのだと思っていたのに、どうして今、ひとりでないはずなのに、こんなに孤独なのだろう。
世界が、自分の傍らで、終わってゆく気配がする。
何もかもが、崩れてゆく音がする。
ひとりで築き上げ、ふたりでそれを、守ってゆくのだと、思っていた。
それなのに、ここには今、誰もいない。
抱きしめてくれるはずの誰かは、今、ここにはいない。
両腕を伸ばす、届くことを願って。その腕を絡め合わせたくて、ふたりでもがくのに、指先すらかすらない。
届くと、抱き合えると、信じていたのに。ふたりだと、信じていたのに。
自分が消えても、誰も探さないだろうと、ずっと思っていた。
どこかで、何か起こる。死ぬ。家族のいない自分には、それを知らせる誰もなく、死体は、見知らぬ他人の手で、どこかへ埋められる。名もない死体。名もない死。海に落ちた、一粒の雨ほどの波紋もなく、日常は、ジェットがこの世に在る無しに関わらず、ただ流れてゆく。
それだけのこと。それだけの、人生。
悲しむ必要はない。淋しがる必要もない。ひとりを定められた人間の、定められた人生。ただ、それだけのこと。
ハインリヒは、自分を捜すだろうかと、ジェットは思った。
さよなら、と言って消えれば、捜しに来てくれるだろうか。
ひとりで、首を振った。
何も言わず、背中を向ける、ハインリヒの姿が見えた。
行きたいなら、行けばいい。おまえの勝手だ。
行ってほしくなどないくせに、そんな強がりを、無言の背中に見せる。
行かないでくれと、言ってくれれば、素直に、その背中に抱きつけるのにと、ジェットは思う。
ジェットがいなくなっても、ハインリヒは、ジェットを捜さない。
ただ、それだけのこと。
どこかの路地で、名無しの死体にさえなれない自分を、少しだけ疎ましく思った。
ひとりでないというのは、捜してくれる誰かがいると、確信できることなのだろうかと、ふと思う。
捜してほしい、誰か。
ハインリヒ。つぶやいて、また、抱えたひざに顔を埋めた。
闇が、重く濃く、息苦しく肺を押し潰す。
ふたりの孤独に耐えられるほど、強くはない。
ひとりになりたいと、ジェットは思った。
戻る