Forget Me Not



 誰かが、ドアを叩いた。
 ひそやかな、それでいて、中にいる人間にはきちんと伝わる叩き方で、誰かがドアをノックした。
 もう、たとえば5分遅ければ、ふたりとも、躯を繋げた後の、自分の中が真空になったような疲れの中に、眠りとともに、引きずり込まれている頃だった。
 「誰だよ。」
 ちょっとだけ不機嫌そうに、ジェットが体を起こして、ドアの方へ振り向いた。
 ハインリヒが、ジェットを見上げて、ドアの方へあごをしゃくる。
 かまわないから、ドアへ行けと、視線に言わせると、緑色の瞳が細められ、ちぇっと、軽い舌打ちが、突き出した唇からもれた。
 ベッドの回りに散らばった服を、下着だけ手早く拾って身に着け、ジェットは、足音を忍ばせてドアへ行った。
 開けたドアの向こうに、胸の前で、祈るように掌を合わせたフランソワーズがいた。
 「フランソワーズ?」
 ベッドを、ドアから見えない位置に立って、それから、驚いた声を出す。
 ベッドにいるハインリヒも、驚いて、体を少し起こした気配があった。
 「ごめんなさい。」
 うつむいて、小さな細い声で言う。
 おそらく、自分の部屋からふたりを"見ていて"、静かになったのを見計らって、やって来たに違いなかった。
 「いいけど・・・どうしたんだよ。」
 はるか下を見下ろしながら、ジェットは、怪訝そうに尋いた。
 こっそりと後ろを振り返り、どうせばれているにせよ、あからさまに見せるよりは、このままリビングへでも行こうと、部屋を出た方がいいだろうかと、ジェットは迷う。
 華奢な肩を、薄いネグリジェに包み、白い素足の爪先を、もじもじと動かしているフランソワーズは、ことのほか可愛らしかった。
 剥き出しの腕が寒そうで、ドアの外に立たせたままは、少しかわいそうだなと思い始めた頃、フランソワーズが、やっと顔を上げ、意を決したように、言った。
 「中に、入っても、かまわないかしら。」
 うっと、声をつまらせて、ジェットが思わずあごを引く。
 「もし、アナタと、ハインリヒが、いやじゃ、なかったら。」
 小声で、けれど、部屋の中には聞こえる声で、フランソワーズが言葉を重ねた。
 「ちょっと待ってくれ。」
 ハインリヒが、ベッドから、起き上がりながら声を飛ばした。
 服を着るから、という部分は、言わなくても、気配と衣ずれの音でわかる。
 ジェットは、無駄と知りながら、それを、自分の背中で、フランソワーズの視界から隠した。
 振り返って、ハインリヒが、すっかり身支度を整えたのを確認すると、ようやくジェットは、一歩後ろへ下がって、フランソワーズを中に招き入れた。
 「明かりは、つけないで。」
 ドアを閉めたジェットに、また小声で言って、ベッドの傍へ寄りながら、部屋の真ん中に立ち尽くす。
 どうせ、明かりの必要のないサイボーグには、何もかも、くっきりと見えているのだけれど。
 乱れたベッドに、顔色ひとつ変えず---そんなことはどうせ、はなから見えていただろうし---、フランソワーズは、ベッドの端に、そっと腰を下ろした。
 ジェットが、頭をかきながら、事の次第を見極めようと、そのために、どうフランソワーズを促そうかと、慣れない言葉探しをしてみる。
 「ごめんなさい。」
 うつむいたまま、また、フランソワーズが言った。
 こういう時にどうすべきが、体が動くのは、やはりハインリヒよりはジェットの方で、フランソワーズの傍に、並んで腰を下ろすと、ジェットはその肩に、そっと腕を回した。
 「・・・ジョーと、ケンカでもしたのか。」
 そのふたりを、真正面見下ろして、静かにハインリヒが訊く。
 フランソワーズは、ううん、と、かわいらしく首を振った。
 「なんだよ、いやな夢でも見たのか?」
 少し茶化すようにジェットが言うと、ようやくフランソワーズが、少し笑った。
 「そういうことじゃなくて・・・何となく、ここに来てみたかったの。」
 ふっと、空気が静かになる。
 ハインリヒが、そっと、胸の前で腕を組んだ。
 「・・・アタシたち、ずっと一緒だったから。イワンも入れて、4人で。」
 うつむいたまま、小さな声でそうつぶやいたフランソワーズを、ジェットが、下からのぞき込んだ。
 「オレたち、今だって、一緒にいるぜ。」
 視線が、ジェットに流れる。澄んだ、深い青の瞳が、文字通り、人の心を射抜く瞳が、じっとジェットに注がれた。
 フランソワーズが言っているのは、そういう意味ではないのだと、その、少し淋しそうな視線の色で、ジェットもようやく合点が行き、思わず、ああ、と声に出した。
 ハインリヒがやって来るまでの間、ふたりはよく、一緒に眠った。
 フランソワーズを胸に抱いて、その手を握りしめて、姉と弟のように、静かに眠った。
 不安で眠れない夜を、ふたりで、必死に眠ろうとしながら、そうやって、過ごした。
 抱き合って、ふたりで、そこから先へ進もうとしなかったと言えば、うそになるけれど、どうしてか、そうすべきではないと、ふたりは、言葉にせずに知っていた。
 そうなるには、互いがあまりに近すぎて、フランソワーズにとっては、ジェットは弟でしかなく、ジェットにとってフランソワーズは、優しい姉であり、肌を触れ合わせるには、何かが、ふたりの間に欠けていた。
 それから、ハインリヒが現れて、ふたりが、3人になった。
 ジェットとハインリヒの間に、埋もれるようにしながら、フランソワーズは眠るようになった。
 ジェットと違って、ハインリヒは、決してフランソワーズに触れることのないよう、きちんと間を開けて、肩に腕を回すことすら、しなかったけれど。
 そうやって、不安な夜を、必死で安らかに過ごそうとした。
 すすり泣いていたフランソワーズを、ジェットが一晩中、慰め続けたこともある。
 不意に震えて、泣き出したジェットを、ふたりの間に移して、背中と胸から、抱きしめて眠った夜もあった。
 そんな夜のひとつびとつを、3人は、それぞれが思い出していた。
 ジョーと出会い、BGを脱走し、不安な夜の減った後で、フランソワーズは、3人で眠る夜を、もう必要としなくなった。残されたふたりは、自分たちの間に、ぽっかりと空いた、フランソワーズ分の空間を、長い時間をかけて、一緒に埋めた。
 「ちょっとだけ、淋しくなったの。それだけ。」
 語尾を投げ捨てるように言うと、フランソワーズは、顔を上げ、それから、真っ直ぐにハインリヒを見た。
 ジェットが、肩を引き寄せ、フランソワーズの額に、小さなキスをした。
 「ここで、寝ても、いい?」
 そっと、フランソワーズが尋いた。
 ジェットが、答える一瞬前に、ハインリヒに視線を投げる。
 ハインリヒは、組んだ腕を解きながら、ジェットに向かって、そっとうなずいた。
 「・・・俺は、じゃあ、部屋に戻るから。」
 立ち去る前に、おやすみを言うために、差し出した手を、フランソワーズが強く握った。
 「・・・アナタも、ここにいて。」
 すがるように見上げられて、ハインリヒは、一瞬、戸惑った。
 さっきまで、ジェットと一緒にいた、まだ乱れたままのベッドに、フランソワーズを挟んで眠るのは、少しばかり気が引ける。照れくささや気恥ずかしさよりも、フランソワーズに、悪い気がした。
 「3人で、眠りたいの。」
 つぶやくように、けれど、説得するように、フランソワーズが言った。
 ジェットは、両腕を、フランソワーズの肩に回して、濃い金色の髪に、鼻先を埋めた。
 「昔みたいに、3人で・・・」
 そう言うと、フランソワーズの肩を押し、自分もベッドに上がりながら、あごをしゃくって、ハインリヒを促した。
 ふたつの枕を寄せて、3つの頭が乗るように位置を変えると、ジェットは最初にベッドに入り、それから、自分の傍を叩いて、フランソワーズの腕を引いた。
 細い、柔らかい体が、ジェットの胸に添ってくる。
 女の子の匂いだと、ふと、思った。
 ジェットの胸に顔を埋めて、胸の間に両腕を縮めて、フランソワーズは、爪先を、ジェットの足に触れさせる。
 フランソワーズの頭越しに、まだ、ベッドの傍に立ったままでいるハインリヒを、ジェットは視線で促した。
 ハインリヒは、そのままで数瞬考え込む表情を浮かべた後、ようやく、さっき着たばかりのシャツを脱ぎ、上だけ裸になると、毛布をそっと持ち上げて、静かにフランソワーズの背中の傍に滑り込んだ。
 ジェットは、自分の胸の中で目を閉じたフランソワーズの背中に、腕を回して、あやすように撫でてやりながら、また、ハインリヒをそっと見た。
 軽くあごを振って見せ、もっと近づけと、目顔で言う。
 人の体温が、訳もなく恋しい、こんな夜もある。ぬくもりだけが欲しいのだと、言わずにわかる、そんな誰かと過ごしたい夜もある。
 ハインリヒが、少しだけ頬を赤らめて、戸惑うように、何度も肩を動かしながら、ようやく、フランソワーズの背中に、そっと胸を添わせた。
 それから、右腕を、フランソワーズの上に伸ばして、ジェットの腰を抱き寄せた。
 「おやすみなさい。」
 フランソワーズが、小さな声で言った。
 「おやすみ、Sis(ねえさん)。」
 ジェットはまた、フランソワーズの額に、小さなキスをこぼした。
 「おやすみ、フランソワーズ。」
 フランソワーズの髪の上に、唇を触れさせて、ハインヒリもそう言った。
 それきり、3人は、静かに目を閉じて、もう、動かなかった。
 触れる3つのからだのぬくもりを、それぞれに受け取り、与えながら、昔そうしたように、3人で、同じ眠りに落ちてゆく。


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