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久しぶりにまとまった休みが取れ、クリスマスも新年も、忙しいのを口実に、家の中のことを何もしなかったのを思い出して、春にはまだ少し遠かったけれど、家中をひっくり返すことに決めた。
あまり家にはいないから、いつもほとんど空っぽの冷蔵庫は後回しにして、ストーブを磨き、オーブンの中をきれいにして、それから、バスルームも、すべてがつるつるになるまで磨いた。
とりあえず、整頓はされているリビングから、余計なものを取り除いて、テーブルを磨き、窓を磨き、ソファのすみずみまで、クッションを外して、裏の奥まで、たまっていたほこりに涙を流しながら、掃除機をかけた。
ベッドのシーツをはがし、一番上等の、厚いシーツを敷いて、枕も、ランドリールームで乾燥させるつもりで、たまっている洗濯物と一緒に、わきへ置く。
洗濯物を見て、そう言えば、クリーニングへ出さなければならないスーツやジャケットのことを思い出して、クローゼットを開ける。
よれて、しわの取れないネクタイも、まとめて手に取りながら、シーツを敷き替えたばかりのベッドの上へ、クリーニングへ出した方が良さそうなものを、どんどん乗せてゆく。
クローゼットが半分くらいに空になったところで、思わず後ろを振り向いて、うずたかい衣類の山に、ほんのちょっぴりだけ、財布の中身の心配をする。
仕方がないさと、口の中でひとりごちて、クローゼットの中身をもう一度、点検するように眺めた。
おやと、クローゼットの中に目を凝らし、それから、振り向いて、ベッドの山へ目を凝らす。
ない。
白や水色ばかりのシャツの中で、あれだけがいつも目立っていたから、どこか別のところへしまったとは思えない。
最後に来たのはいつだったろうかと、記憶の引き出しを開け閉めする。
少し明るい、ワインレッドのシャツ。色に魅かれて、つい手に取ってしまって、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。その色に合うようなスーツもジャケットもなく、数回、黒のジーンズに合わせて着たことがあるだけだった。
黒のジーンズと思い出して、それからようやく、その時傍らにいた、背の高い赤毛のことを思い出す。
オレの方が似合いそうな色だな。
肩に手を置いて、意外そうな声で、そう言った。
シャツの赤が、髪の赤に似ていたからなのだと、その時初めて気づいたけれど、そのことは、決して口にはしなかった。
クリスマスから新年にかけてここにいた時、あの時以来、そう言えば、あのシャツを見かけていなかったと思い当たって、そこから導き出した結論に、思わず首を傾げる。
あんな目立つシャツを、見過ごすはずはない。
あれから何度も電話で話をしたけれど、シャツのことが話題になったことはなく、一体、どうしたのだろうかと、答えが返ってくるわけもない宙に向かって、ひとりでつぶやいていた。
ひとり暮らしの小さなアパートメントを、1日かけてきれいにしてから、ぴかぴかのキッチンを、すぐには汚す気にならず、外へ出て、近くの居酒屋で、軽く食事をした。
時差は、もう頭に叩き込んである。何をしていても、あちらは今何時だろうかと、常に考えている証拠なのだけれど、それにはわざと、気づかないふりをする。
世界中に散らばる仲間のせいだと、そう言い訳して、けれど、他の場所は、とっさに時間がわからないのはどういうことだろうかと、自分で問いかけて、苦笑をもらす。
何度言っても、とんでもない時間に電話をしてくるのは、いつもあちらだ。
時差を覚えないわけではなくて、ただ、思い立ったが吉日というだけのことなのだろう。
こちらは、何の気兼ねもないひとり暮らしだから、深夜3時に電話が鳴ろうと、誰の迷惑にもならないけれど、イワンやギルモア博士のいる日本へ電話する時も、あんな時間なのだろうかと、いつも思う。
フランソワーズの怒った顔が浮かんで、またひとりで苦笑した。
何度も何度も、店の時計を見上げて、向こうは今、何時だから、きっとどうしていると、そんなことばかり考える。
いくつもの国と、海と、大陸を隔てていて、けれど、相手の行動が手に取るようにわかるのは、一体良いことなのか、それともあきれるべきなのか。
まあいいさ、そんなことはどうでも。
奇妙に気分がいいのは、久しぶりに、こちらから電話をする口実を見つけたせいなのかもしれない。
もちろんそんなことは、相手にも言わなければ、自分へも、言い訳だと言い張ることにしている。
用があるから電話をするだけで、別に、声が聞きたいわけじゃない。
用件のついでに、近頃どうしているのかと、そんなふうに話が弾んで、つい電話が長引いても、早起きを心配する仕事もない。
自分が、ひどく上機嫌なのに気がついて、驚いて、軽く頭を振った。
らしくもないと、またひとりでつぶやいて、もう一度時計を見上げて、席を立った。
アパートメントに戻って、すぐに電話をするのも癪で、ゆっくりと紅茶をいれ、煙草を1本吸って、それから、いかにも、今思いついたという振りをして---誰も見ていないのに---、ようやく電話に手を掛ける。
あっさりと、向こうの声が聞こえて来て、少しばかり拍子抜けしながら、最初に何を言うか、決めていなかったのでうろたえた。
「なんだ、アンタかよ。」
うれしそうに、弾んで言われ、止められずに、口元がほころんだ。
元気かと訊けば、元気だと答え、複雑なことも、重要なこともない日常を、互いに伝え合って、それから、
「アンタから電話なんて、珍しいな。どうかしたのか。」
思っていた通りのことを言われ、さてと、行方不明の赤いシャツのことを切り出した。
「ああ、あれか・・・。」
思い出すのに、1秒もかからなかったように、何となく歯切れの悪い声が返ってくる。
うそのつけない男なのだということを思い出して、最後の一服を、胸深く吸い込んでから、煙草を灰皿にもみ消した。
「おまえには、小さすぎるだろう。」
何の前置きもなくそう言ってやると、あちらから、息を飲んだ気配が伝わって来る。
間の悪い沈黙越しに、何か考え込んでいるらしい気配があった。
何か言い出すのを、黙って待っていると、ようやく、言いにくそうに言葉がこぼれてくる。
「・・・アンタ、知ってたのか。」
「今日、クローゼットの整理をしてて気づいたんだ。」
「別に・・・アンタから盗もうとか、そういうつもりじゃなかったんだ。」
「そんなことはわかってる。」
背の高いジェットがあれを着れば、袖もすそも短いに決まっている。シャツそのものを気に入って、持って帰ってしまったわけでもなければ、うっかり荷物に紛れ込んでしまったわけでもない。間違いなら、必ずそう言うはずのジェットだった。
責めるつもりではなくて、ただ確かめたくて、訊いている。
そうしながら、あのシャツを手に入れた自分の、心の内側も覗いている。
ジェットの髪に、似ていたから。自分よりもむしろ、ジェットに似合いそうな色だったから。ジェットを思い出したから、思わず手が伸びたのだ。
ジェットはそれに、気づいたのだろうか。
「まだ、洗う前だったからな。今度はせめて、きれいなやつにしてくれ。」
「・・・洗ってあるヤツじゃあ、意味がないだろう。」
まるで、今目の前に、あのシャツがあるように、ジェットがそんな、少し遠い声で、早口に言う。
そこまであからさまに言われて、ようやく、あのシャツの、ジェットにとっての意味を悟り、思わずあごを胸元に引き寄せて、頬が赤らむのを隠せない。
「アンタの、煙草の匂いがするんだ。」
想う相手に身代わりに、想う相手の身に着けたものをと思うのは、誰も同じことなのだろうか。
煙草を吸いたいと思って、けれど、手の届かないところにあると気づいて、小さく唇を突き出す。
遠いなと、不意に思った。
唇を、指先で軽く叩きながら、何かに耐えるように、その指を噛む。
「今日は、家の中をきれいにしたんだ。」
「また掃除かよ。」
「どうせ、そっちは足の踏み場もないんだろう。」
散らかりたい放題の、ジェットの小さなアパートメントを思い出して、聞こえないように苦笑をもらした。
今、言う必要のないことだったけれど、シャツのことで、ジェットにばつの悪い思いをさせたから、喜ばせてやりたいと、そう思う。
一呼吸飲んで、精一杯さり気なく、言った。
「春になる前に、掃除に行ってやる。捨てられて困るものは、全部片付けておけよ。」
今度の沈黙は、口ごもったせいではなく、驚きのためだった。
一瞬にして、表情が変わるのを、見えるはずもないのに、目の前に見たような気がした。
顔中に笑みを浮かべ、もううきうきと、カレンダーを振り返っているのがわかる。
ふっと笑って、会いたいのは、自分も同じだと、口にはせずに思った。
「じゃあ、掃除のお礼に、今度はアンタがオレのシャツを持って帰ればいいだろ。」
素晴らしい思いつきだと、弾んだ声が言っている。
少しだけ眉を寄せて、見えるはずもないのに、受話器に向かって、呆れた顔をして見せる。
「サイズも趣味も合わないな。遠慮しとこう。」
あっさりと却下してやると、言い返す声が返ってきて、それから、ふたりは、じゃれ合うような会話を続けた。
春はまだ、少し遠かったけれど、ふたりの傍には、もう暖かな風が吹いているような、そんな気がしていた。
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