Ghost In Your Heart



 月の半ばというのは、いつも少しばかり仕事が減る。
 ちょうど、誰もの懐が、少々淋しくなる頃というのは、すべてが少しだけ、動く速度を落とす。
 そんな頃には、街も少し静かで、誰もが外に出ることもなく、何となく、ぼんやりと、家の中で時間を過ごす。
 給料をもらう頃にはまた、世界は活気を取り戻し、それから2週間ほどは、どこかお祭り騒ぎめいた空気が、どこにも漂う。
 そんな繰り返しで、日常は流れてゆく。
 ジェットから電話が来るのも、ちょうど、そのゆるやかな辺りで、仕事が少し暇になると、ああ、そろそろだなと、ハインリヒはいつも思った。
 話題とは言っても、している仕事の話と、仲間---サイボーグの---の噂話と、もし何か、夢中になることでもあれば、そんな話と、別に、用があるわけでも、何か特に、話さなければならないことが、あるわけでもない。
 それでも、街が動きを、ちょっとだけ止める頃、必ずジェットは、電話をかけてきた。
 「よォ。」
 他の誰も、この電話を取るわけがないと、決め込んでいる、省略したあいさつで、いつもジェットからの電話は始まる。
 「元気か?」
 返す返事も、いつも同じだ。
 「風邪がひどくて、しばらく寝てた。」
 「風邪?」
 寝込むほどの風邪なら、ジェットには珍しいと思いながら、思わず聞いたままを、口移しにする。
 「もう、いいのか?」
 軽く笑う声が、かすかに聞こえた。
 「今は、いい。」
 短く言葉を切って、また、笑う声が聞こえた。
 いつも、そう声や会話が弾むわけではなく、どちらかと言えば、ぼつりぼつりと、ふたりは話す。
 声の調子だけを聞いていれば、気乗りでない相手との、つまらない電話なのかと、おそらく思われるのだろう、そんな感じで、それなのに電話は、いつも1時間以上は続いた。
 一言に、一言しか返さず、それは、言葉の周りの空気を、その短い一言が、充分に伝えてくれるせいだったし、すべてを語る必要がないほど、ふたりは長く一緒にいる。
 沈黙さえ、その濃さと重さと長さで、相手の心のうちを計る術になる。
 ふたりは、それほど長く、互いを知っている。
 そして、長さだけではなく、互いを、深く知ってもいる。
 ジェットが、くつくつと笑うのをとめて、ハインリヒの、仕事のことを尋いてきた。
 先月から、行った先の街の話をする。
 ここから、どれくらい離れているとか、トラックに何を積んだかとか、給油にどこに立ち寄ったとか、どこで仮眠を取ったとか、どのくらい家を離れていたとか、そんなことを、相槌を打つジェットに向かって、ぽつりぽつりと話す。
 相槌だけの反応に、別に腹を立てることもない。
 ジェットが、ベッドの上に、ひざを抱えて坐り、両手で、包み込むように、受話器を抱えているのを、見えなくても、知っているから。
 必死で、ハインリヒと、もっと近く---もちろん、そんなことは不可能だけれど---、繋がろうとしているジェットを、ハインリヒは、知っていた。
 仕事の話が終わると、今度は、今日の夕食の話になる。
 何を買った、何を作った、どんな味だった、どんな皿を何枚使った、そんなことを、いちいち言ってやると、また向こう側で、くつくつと笑う声がする。
 ジェットが、あちらもひとり暮らしのアパートメントで、そこの空気に、こちらにいるハインリヒの気配を、少しでも流し込もうと、ハインリヒが描写する、ひとつびとつを、必死に目の前の幻に移しているのが、どうしてか、わかる。
 最近飲んで、うまかった酒の話をしたところで、こちらからの話は途切れ、続きがまだあるのかと、向こう側でジェットが、うっすらと期待を込めた沈黙を送ってきた。
 「そっちは、変わりはないのか。」
 ふっと、黙り込む音が聞こえる。
 それは、考えるためでも、言いたくないことを思い出したためでもなく、ハインリヒが、自分のことを尋ねてくれたのだと、それをうれしがるジェットの、照れの沈黙だった。
 風邪を引いた話が、微に入り細に入り、始まる。
 風邪を引くことになったいきさつから、気分が悪くなった頃へ、それから、熱があると気づいてから、もちろん病院へ行くわけには行かず、日本の、ギルモア博士のところへ電話をして、フランに、お大事にと言われ、それから、結局寝ているのがいちばんだという、そんな結論に至った辺りへ、話が流れてゆく。
 話を聞きながら、ジェットが、さっき、あちら側でそうしていたように、ハインリヒも、目の前にいるジェットの幻が、現実の、あちら側のジェットが語るすべてを、反射してその通りに動くのを、まるで映画のように、眺めていた。
 ベッドにもぐり込み、毛布を体に巻きつけて、体を丸める。
 汗をかいているせいなのか、あの、はねるような髪は、今はくたりとしていて、頬は、髪の色と同じほど、赤い。
 気を失うように、眠りに落ちながら、それなのに、いやな夢ばかり見る。
 うっすらと目を覚ましながら、静かすぎる部屋の中で、孤りなのだと、思う。
 暖かいスープが飲みたかった。小さなパスタと、小さなミートボールの浮かんだ、チキンのスープ。乾いて、ひび割れそうになっている口の中に、塩とスパイスで味つけした、黄金色の暖かな液体が、あふれることを思うと、痛む喉の奥に、かすかに唾液がわく。
 咳をして、すり切れたゴムのような舌が、口の中で硬張っているのを、むりやりに動かす。
 夢の中で、スープを味わっている。暖かなスープは、喉にひりひりするけれど、縮んでしまっている胃を、優しく満たしてくれる。
 そのスープを、もし、誰かがスプーンにすくって、差し出してくれたら、もっといいのに。
 ハインリヒは、薄く、苦笑した。
 眠ってしまえば、熱はいずれ引く。熱が引けば、体の中は潤いを取り戻し、ひび割れていた口の中も、痛みもなく、暖かなスープを飲めるようになる。
 まだ少し咳をしながら、ようやく起き上がって、キッチンへ行く。
 かんづめの入っている戸棚を開けて、腕を伸ばして、夢に見たチキンスープの、小さな缶を探そうとするけれど、それだけが、そこに見当たらない。
 トマトスープでがまんする気に、どうしてもなれなかった。
 服を着て、いつもより一枚多く、シャツを羽織って、外へ出る。通りを3本行けば、小さな店がある。空気は、冷たかったけれど、潤いの戻り始めた皮膚の上に、清々しく、心地よかった。
 まだ、少し赤みの残る頬を、外気が洗ってゆく。
 店に入り、スープの缶を見つけ、小銭を払って、店を出る。
 足取りは、今はいっそう軽い。
 視線をさまよわせることもなく、行く先だけを見つめて、飛ぶように、歩く。頭の中にあるのは、小さな鍋の中で、湯気を立てる、スープだけだった。
 アパートメントの手前の路地の入り口で、ぴたりと足を止めた。
 振り向くと、猫がいた。
 小さな、やせた、貧相な猫だった。ぼさぼさの毛並みは、それでも、銀色で、その色に目を引かれ、ジェットは、思わず足を止めた。
 猫の瞳は、陽の光のせいで、細くなり、ほとんど水色に近い、ごく薄い緑色しか見えず、立ち止まったジェットを、じっと見上げていた。
 体をそちらに向け、視線を合わせてやると、まるで跳ねるような足取り---さっきまで、ジェットがそうしていたように---で、ジェットの足元へやってきた。
 尻尾を高く上げ、それから、体を上に向かって丸め、ジェットの足に、体をこすりつけ始める。
 何度か、そんなことを繰り返してから、また、猫は動きを止め、はるか頭上のジェットを、じっと見上げた。
 その距離を縮めてくれと、その視線が言っているようで、ジェットは、ひょろ長い足を折り曲げて、地面に向かって膝を折った。
 視界に、いきなり猫が、大きくなる。
 一瞬、体を引いて、逃げる気配を見せてから、それでも、そっと手を伸ばしたジェットから、結局逃げることもせず、猫は、その手に、また体をこすりつけ始めた。
 掌が触れるたび、目を細め、首を伸ばし、猫の体は、暖かかった。
 そうするうち、ジェットを、危険のない人間だと認めたのか、猫はついに、ごろりと地面に寝転がり、ジェットの前に、腹を見せた。
 腹の毛並みは、背中に比べれば、若干柔らかく細く、指を開いて、そこにそっと、ジェットは大きな掌を当てた。
 体をよじり、足を伸ばし、ジェットの掌の動きに合わせて、猫が伸び縮みする。
 銀色の毛が、陽の光を浴びて、きらきらと光って見えた。
 「スープは、うまかったか。」
 ジェットが、こくりとうなずいたのがわかった。
 「全部飲んだのか。」
 また、同じ気配があった。
 そんなシンプルなスープなら、いくらでも作ってやれるのにと、思った。
 もし、一緒にいられるなら。
 ジェットがそうしてほしいように、ベッドまで皿を運んで、スプーンにすくって、少し冷まして、口元に運んでやる。
 うっすらと浮いた、チキンの脂が、ジェットの唇を濡らす。スープが少しこぼれて、あごにたれる。それを、まるで猫のように、舐め取ってやる自分を、想像する。
 ひとりで風邪を引く必要なんか、ないのにと、思った。
 もし、一緒にいるなら。
 話し終えて、また訪れた沈黙を、かすかに楽しんでいたら、不意に、ジェットがつぶやいた。
 「アンタに、会いたい。」
 細い、声だった。
 「アンタと寝たい。」
 一緒に眠る、とも取れる言い方で、ジェットが言った。おそらくその意味もあるのだろうと、ハインリヒは、軽く目を閉じて、思った。
 「アンタが恋しい。」
 言葉を受け取って、目の、ずっと奥の方で、響きと重みと意味合いを、深く味わった。
 自分の中が、透明になったような気がして、ふっと一瞬、意識を異次元に飛ばしたような、そんな気がした。
 唇を開く前に、数拍息を止めて、それから、言った。
 「ああ、そうだな。」
 ジェットが、ふっと息を吐く。
 飛びたいのだと、沈黙が言った。
 先に風邪を治せと、沈黙で返した。
 それから、短く、さよならという意味合いのことを言って、電話は切れた。
 受話器を戻して、ソファの上で、首を伸ばした。目を閉じて、目を開けて、目の前のジェットの幻に、にっこりと微笑みかけた。
 「おやすみ。」
 声に出して、そう言って、ジェットの幻が、溶けるように、空気の中に消えて行ったのを見届けて、ハインリヒは、ゆっくりとソファから立ち上がった。


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