Lay Down



 毛布の端を持ち上げて、するりとベッドにすべり込む。
 慣れた仕草で、もう音もさせなければ、ベッドが揺れることもほとんどない。
 ぴたりと、目の前の背中に頬を寄せて、自分のよりも少しだけ幅の広い腰に、腕を乗せた。
 「また、眠れないのか。」
 振り向きもせず、そう尋いて来る。
 返事の代わりにうなずいて、頬を、背中にすりつけた。
 もぞりと動いて、少しだけベッドの端へ寄り、たった今、もぐり込んで来たばかりのジェットのために、場所を空けてくれる。枕をずらし、ふたり分の頭が乗るように、位置を変える。
 「おまえ、自分の枕、持って来いよ。」
 また、背中越しに声がした。
 それには言葉を反さず、ジェットはいっそう近くに、体をすり寄せた。
 ひとつの枕を分け合うのは、近く体を寄せて眠る、ちょうどいい言い訳だったけれど、それを、ハインリヒに言ったことはない。
 冷たいはずのハインリヒの体は、それでもかすかに暖かかった。
 誰かと分け合う夜をあきらめてから、体が、生身から遠くなればなるほど、心は、よりいっそう人間らしさを求める。意識さえ、しないまま。
 これが恋なのか、それとも、ほんの少し残った人間らしさに対する、悪あがきの現れなのか、いつまで経っても、しかとは見きわめられない。
 好きだとある日気づいてから、ジェットの世界は変わった。
 生身の体を失って、人間らしさを失ったと思った。もう人間ではないから、誰かに魅かれることも、親しくなりたいと思うことも、触れたいと思うことも、もう、自分には起こらないのだと、そう思った。
 傷ついて、黒く汚れた横顔で、ハインリヒは、にっこりとジェットに笑いかけた。あちこちすり切れた防護服の下から、細く煙を吐き出しながら、ひどく人間くさく、きれいに、ハインリヒは笑った。

 アンタが、好きだ。

 心の中で、突然つぶやきがもれた。
 世界が色を失い、白と黒だけに変わる中で、ハインリヒだけが、輝く銀色で、いつもそこにいた。

 アンタが、好きだ。

 もう一度、まるで、確かめるように、自分の中につぶやきかけた。
 その好きを、ジェットは持て余す。
 誰かを好きでいて、ひどく幸せだと思うこともあれば、憂鬱に拍車をかけることもある。
 名前を呼ばれるトーンが違うというだけで、一日が暗い青になる。
 にっこり笑いかけてくれるだけで、世界がいきなり明るくなる。 
 小さな嫉妬は、時折心を締めつけた。
 誰かと話をしている、誰かと何かをしている、誰かとどこかへ出かける。自分以外の誰かと、ハインリヒがするすべてのことが、胸を痛める原因になる。
 友達だという言葉さえ、するりとは口に出来ない。
 友達なんかじゃない。友達になりたいわけじゃない。
 手を伸ばして、下心も他意も、意味も好意さえもないふりをして、触れる。
 肩や髪や頬や、手を振り払われる限界を、こっそりと探す。
 そこから先のことはわからない。どうしたいのか、ジェットにもわからない。
 体を重ねるということも、よくわからない。
 そんなことをしたいのかどうかも、よくわからない。
 ただ、好きだという思いだけが、心の中に積もってゆく。好きだという気持ちだけが、心の中を支えている。

 アンタが、好きだ。

 名前を呼ぶたびに、舌がもつれそうになる。名前を聞くたびに、心臓が止まりそうになる。
 失うのがこわい、だから、口にはできない、想い。
 
 アンタが、好きだ。

 声をかけられれば、微笑みかけられれば、好意のありかを示されれば、それだけでいいのだとも思う。
 それでも、もっと欲しくなることもある。 
 友達だと、確信できない。友達なのかと、尋くのもこわい。
 せめて、友達なら、と思いながら、ただの友達なのだと、そう言われるのもいやだった。
 伸ばされる手を握り、一緒に空を飛ぶ。その、触れる体の重み。ふと、胸の上に感じてみたいと、思う。
 あがきながら、少しずつ、少しずつ、近づいてゆく。許される距離を、手探りで探す。
 眠れない夜と悪夢を口実に、こうして、同じベッドにもぐり込む。
 ハインリヒは、何も言わずに、時々、腰に乗せたジェットの手に、自分の手を重ねることがあった。
 それが、もっと近くへ寄ってもいいというサインなのか、ここまでにしておけという無言の忠告なのか、ジェットにはわかりかねた。

 アンタが、好きだ。

 心の中で何度もすべり落としたつぶやきを、ハインリヒが知っているのかどうか、ジェットは知らない。
 知りたくて、でも、知りたくはない。
 どうか、いつまでも気づかれずに、こうして、互いの体温を感じて眠る夜が、続きますように。
 どうか、いつか気づいてくれて、互いの背中に両腕を回せるように、なりますように。
 違うことを、同時に思う。
 気持ちだけは、いつまでも、変わらないのに。

 アンタが、好きだ。

 触れたい、気持ちを伝えたい。けれど、失うことは、おそろしい。
 同じ想いを、返してくれる日が、いつか来るのだろうか。
 来ないだろうと思いながら、また額をすりつける。
 胸がまた、ちくりと痛んだ。いっそ告げてしまいたい衝動が、突き上げてくる。
 それでも、また今夜も、失うことへの恐怖が、胸の中で、何千回目かの勝利をおさめた。 

 おやすみ。

 その一言に、幾万もの想いを込めて、唇が背中に触れる近くで、ジェットはそっと目を閉じる。


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