Let It Be



 何というあてもなく、街を歩いていた。
 いつもなら、ひとりか、でなければもっと大勢と一緒なのに、今日は珍しく、ふたりきり、ジェットとハインリヒ。
 街は静かで、決してまばらではない人通りは、それでもその空気を尊重するように、足音だけさせながら、穏やかに流れていた。
 ハインリヒは、黒のトレンチコートの下はいつもの黒のタートルネックに、それよりは幾分明るめの黒の、コーデュロイのズボン、そして、よく磨かれてはいるけれど、光らない、黒の革靴。
 一方ジェットは、黒の、光る素材のジャンパーの背中に、派手なドラゴンの刺繍を背負って、その下は、胸や脇の大きく開いた、真っ赤なタンクトップを着ていた。足の線を、ほとんど隠さない細いジーンズに、足元は、歩くよりは飛ぶ方に適していそうな、バスケットシューズ。
 一体どういう組み合わせなのだろうかと、すれ違う人が、ちらりと視線を投げるのを、ジェットはこっそりと楽しんでいた。
 雑踏に紛れて流れてくる音に耳を引かれ、立ち止まったのは、ハインリヒの方だった。
 音の方へ、くるりと振り向いたのを、ジェットも追った。ふたりで、視線をさまよわせて、音の方向を探る。
 「あの店だ。」
 ぼそりと、ハインリヒが言った。
 ガラス張りの、落ち着いたこの街に、いかにもふさわしいたたずまいの、そこは楽器屋だった。
 ジェットの方を振り返りもせず、ハインリヒは、そちらへ足を急がせていた。
 ジェットが慌ててそれを追い、ふたり並んで、ショーウインドウをのぞき込む。
 バイオリンが2台、サキソフォンが1台、優雅に並べられ、それはまるで、音を奏でるためのものというよりも、それ自体が芸術品であるかのように、少しばかり鼻を高くして、こちらを眺めているようだった。
 店の奥へ、さらに視線を走らせて、ようやくハインリヒは、音の所在を見極めた。
 店の真ん中に置いてある、アップライトのピアノを、どうやら店主らしい中年の男が、肩や首をゆらゆらと揺らしながら弾いている。
 客もいない静かな午後の、暇つぶしらしかった。
 ふと、隣りで、楽器に視線を当てているジェットを、じっと見る。言葉ではなく、視線にものを言わせるように。
 それに気づいてジェットは、なんだとも聞かずに、入り口らしいドアに向かって、あごをしゃくって見せた。
 その途端、ハインリヒの、いつもは険しく寄せられている眉間が、ふっと柔らかく開く。
 無言のまま、ハインリヒは、入り口へ向かって、肩を回した。その背をまた無言で、ジェットが追う。
 入り口の、ガラスのドアを押すと、ドアの上の部分につけられたベルが、からんと音を立てて、ふたりの来訪を、店の中に告げた。
 ピアノを弾いていた男は、指を止め、やや決まり悪げな表情で、ふたりを眺め、やはり、どういう組み合わせかと、少しばかり訝しげな色を、あごの辺りに刷く。
 ずらりと並んだ本棚には、大量の楽譜集らしいものや、教則本のようなものが並べられ、天井近くには、小さな楽器が、すき間を開けて、並んでいる。
 奇妙に明るい、それでもどこか沈んだ空気の匂いのする、店の中だった。
 「May I help you?(何か、お探しですか)」
 男は、椅子から立ち上がり、ピアノのふたを閉めようとしながら、ふたりに向かって言った。
 この、奇妙な闖入者---やれやれ、せっかくヒマな午後に、いい気分で弾いてたってのに---を、咎める口調はないけれど、邪魔をされた、というのはきちんと伝わる、そんな声の響きだった。
 「いや、ピアノの音が、聞こえたので。」
 戸惑ったように、ハインリヒが言う。歯切れの悪さは、いつもの彼らしくもなかった。
 ジェットは、そんなふたりのやり取りに、まったく興味はない、という態度で、ハインリヒの後ろに立ったまま、天井近くの珍しい楽器たちを、見るともなしに眺めている。
 ハインリヒは、まるで、はにかむように、ゆっくりと、男がさっきまで弾いていたピアノを、指差した。
 弾いてもかまわないかな、と訊くと、男は、少しばかりあごを引いて、あんたに弾けるのかね、というような顔つきで、すと、ハインリヒの両手に視線を滑らせた。
 人工皮膚の手袋を着けてきて良かったと、表情を変えずに思いながら、値踏みされていることには、少しばかりの不快感を覚えながら、それでも、ピアノが弾けるという期待に、ハインリヒは、うっすらと微笑みを、男に向ける。
 男は、突然のハインリヒの笑顔に、驚いて肩を後ろに引きながら、どうぞ、と短く言った。
 驚いているのは、男ばかりではなく、言葉もかけてもらえずに、ただ、脱いだトレンチコートを黙って手渡されたジェットも、何事かと、大きく目を見開いた。
 「アンタが、弾くのか?」
 「おまえが弾くのか?」
 椅子に坐り、指の位置を確かめながら、いつもの無表情で、まぜっ返すように、ハインリヒが言う。
 「オレに弾けるわけないだろ。」
 「じゃあ、黙ってろ。」
 ジェットが次の言葉を口にする前に、ハインリヒが、優しく鍵盤を叩いた。
 瞬間、空気の色が、変わる。
 ジェットは、まるで、何かに打たれでもしたかのように、そこに、立ち尽くした。
 流れる、指、滑る、音。ふわりと、その中に包まれて、ジェットは、ふと、呼吸を忘れたように思った。
 よく耳にする曲だ。題名も、作曲者も知らない。耳でだけ、覚えているメロディー。
 鍵盤を見ているわけではないけれど、うつむいて、他に視線を反らさない、ハインリヒの、銀の髪に隠れた横顔。薄く目を閉じ、音の流れに、没頭している。
 カウンターから、胡散くさげにふたり---特にハインリヒ---を見ていた男の目の色が、最初の音を聴いた途端に、がらりと変わった。
 驚きと、ある種の敬意と、それから、愛しさにも似た、何か。そんなものが、今は男の目の中に、浮かんでいる。
 ハインリヒから視線を移して、ジェットは少しばかり、誇らしい気分になる。
 それと同時に、今はピアノしか見ていないハインリヒが、何故か遠くに見えることに気づいて、軽い嫉妬も味わってみる。
 曲が、終わったのか、静かに途切れた。
 ハインリヒが、ようやくジェットを見て、それから、大きく破顔した。
 恋に落ちる、瞬間。
 この、非日常的な笑顔を見て、ジェットはまた、改めて恋に落ちる。
 最初に恋に落ちてから、一体何度、恋に落ち直したろう。何度も何度も。こんな、ハインリヒの笑顔を見るたびに、ジェットはまた恋に落ちる。
 ハインリヒ・・・唇だけで、愛しさを込めて、名を呼んだ。
 それが、まるで聞こえでもしたかのように、ハインリヒが、次の曲を弾き始める。
 「When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom, let it be」
 恐らく、誰でも知っているだろう、Beatlesの、"Let It Be"、今度は、弾くだけではなく、彼の声も、それに揃う。
 もう、隠す気もなく、ジェットは遠慮なく、目の前で歌うハインリヒに見惚れた。
 話す声は平たくて、あまり表情もないのに、歌う声は、優しくて、深かった。耳に流れ込むと、胸の奥のどこかにしまってある、ひどく感じやすい部分に、まるで微風のように触れてゆく。
 ジェットは、思わず、ハインリヒのトレンチコートを、胸の前で抱きしめた。
 「Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom, let it be」
 あまりにも有名な、リフレイン。ジェットも思わず、声は出さずに、一緒に歌っていた。
 最後の音を弾き終わって、少しばかり上気した頬を上げ、ハインリヒは、照れた笑顔を、うっすらとジェットに向ける。
 思わず、拍手をしそうになって、ジェットは慌ててその手を止めた。
 「Thanks。」
 短く、肩越しに、男に声を掛け、ハインリヒはジェットの目の前をすり抜け、その腕からトレンチコートを取り上げて、店を出て行った。慌てて、ジェットがそれを追う。
 早足に歩きながら、コートに腕を通しているハインリヒの背に、ようやく追いつき、ジェットは素直に感嘆の声を上げた。
 「アンタ、あんな特技があったんだな。」
 「特技なんてもんじゃないさ。ピアノなんか、もう何年も弾いてない。」
 「でもアンタ、ちゃんと弾いてたじゃないか。あのおっさん、アンタが弾き始めた途端、顔色変えたぜ。」
 「・・・こんなになっても、体が覚えてるってのも、やり切れんな。」
 ハインリヒが、いつもの皮肉な笑いを唇に浮かべて、自分の掌を眺めた。
 「アンタ、歌うと、英語に訛りがないのな。」
 話す英語には、あまり明らかではなくても、隠しきれないドイツ語のアクセントが混じるのに、ハインリヒの歌った英語は、見事なほど、完璧な発音だった。声だけ聞けば、誰も、外国人の歌う英語だとは思わないだろう。
 「言葉で歌うわけじゃなくて、音を拾って歌えば、そうなるさ。」
 「なんだ、それ?」
 ハインリヒの言う意味がわからず、ジェットは少しだけ、鼻先にしわを寄せる。
 「ある有名なドイツ人の歌手がいて、英語のエの字も知らないのに、英語で歌わせると、誰もドイツ人とわからないくらい、完璧に歌ったらしい。耳がいいんだ。でなきゃ、一流の音楽家になんか、なれない。」
 「じゃあ、アンタも、一流なんだ。」
 揶揄するつもりではなく、ほんとうにそう思って、ジェットは言った。
 ふん、とハインリヒは、鼻先で笑った。
 「なり損ねただけじゃなくて、今は、音楽に、縁すらない。」
 冷笑と自嘲。ほどよく混じり合った、歪んだ笑い。
 人工皮膚の下の、金属の指先。今は、ピアノに触れるためではなく、破壊のために手入れをする。
 「アンタが歌ってくれるんなら、オレはいつだって、喜んで聴くぜ。」
 ジェットは、ハインリヒの口元に、気づかないふりをして、明るく、大きく笑って見せた。
 「アンタが子守歌でも唄ってくれたら、オレ、いやな夢なんか、見ずにすむ。」
 ふと、冷笑が、ハインリヒの口元から消えた。
 それから、そこに、薄い、優しい笑みが浮かんだ。
 ハインリヒの手が伸びて、ジェットの髪を撫でた。
 街は相変わらず静かで、人の流れの中に沈みながら、ふたりは、ひとりではないことを、無言のままに確認し合っている。
 ハインリヒの肩に、頬をすりつけて眠る夜のことを思いながら、彼の指先は、いつもジェットの膚に、歌う声と同じほど優しいのだと、いつか言おうと心に決めた。
 人目を気にすることも忘れ、ジェットはハインリヒの左腕を、歩きながら自分の胸に抱え込んだ。


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