One Step Closer



 ジェットの朝が遅いのはいつものことだったけれど、その朝は、少しばかり様子が変だった。
 アルベルトは、ほとんど口もきかずに朝食をすませ、出不精な彼には珍しく、出掛けてくる、と言い捨てて、そそくさと出て行ってしまった。
 フランソワーズは、食器を片付けながら、けれどそのおかしさについて、ジョーに話しかけることはしなかった。
 ジョーには多分、わからないことだったろうから。
 男の人って、どうしてああ、隠し事がヘタなのかしら。
 濡れた手を眺めて、ひとりごちる。
 ジェットはまだ、部屋から出て来ない。


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 部屋のドアをノックすると、もうとっくに目覚めている声が、すぐに返って来る。
 ジェットは、窓の外を眺めながら、胸の前で組んだ両腕に視線を落とし、常にない、考え込んだ横顔を見せていた。
 「眠れなかったの?」
 ドアをきちんと閉めて、そう訊いた。
 フランソワーズは、尋きもせず、いつもそうしているように、ジェットのベッドに腰かける。ジェットが一瞬、頬の辺りを硬張らせたのを、見逃さない。ベッドは、ひどく寝乱れていた。
 「アルベルトは、出掛けてくるって・・・」
 「知ってるよ。」
 素っ気ないほど、固い声で、ジェットは言った。
 まだ、フランソワーズの方を、一度も見ない。今朝のアルベルトと同じだった。視線を反らして、背中を向けて、後ろめたさを、全身に漂わせて。
 隠し事が下手なのは、どちらも同じことだった。
 フランソワーズは、少しだけ微笑んだ。自分のために。
 「ここに、いらっしゃい。」
 自分のすぐ横を、軽く掌で叩いて見せる。
 ジェットは、フランソワーズの仕草に、口をへの字に曲げた。
 ようやくフランソワーズの方へ顔を振り向け、少しだけ、頬の線をやわらげる。
 「ネコじゃあるまいし。」
 それでも、背中を丸め、ふてくされたような様子は変えずに、フランソワーズの傍へやって来た。
 自分の前に立ったジェットに向かって、フランソワーズは手を伸ばした。
 ほんの一瞬だけ、逡巡の気配を見せて、ジェットはその手を取った。
 それから、ゆっくりと床に坐り込むと、フランソワーズの膝に、顔を埋める。
 握った手を、頬へ添えると、ジェットは目を閉じた。
 フランソワーズは、優しくジェットの頬に触れ、それから、髪をすいてやった。
 昔は、ふたりでいつまでも、よくこうしていた。お互いしか、いなかったから。
 身を寄せ合って、支え合って、必死に生き延びる術を探していた。
 それでも、恋に落ちなかったのは、何故だったのだろう。こんなにも近く触れ合って、あんなにも長くふたりでいて、それでも、ふたりはいつも、姉と弟でしかなかった。
 一緒に過ごした幾つもの夜も、決してふたりを、そんなふうには繋げなかった。
 どうしてだろう。
 ジェットは思う。どうして、フランソワーズではなかったのだろう。
 優しく、きれいで、たいていの男なら、あっと言う間に恋に落ちる。ジョーが、そうだったように。
 恋には、ならなかった。何故なのか、互いに不思議に思いながらも。
 「知ってるんだろう、何があったか。」
 ジェットが、額を膝にすりつける。
 猫のようなその仕草が、スカート越しに、くすぐったくて、フランソワーズは思わず声を上げた。
 ジェットの、耳の後ろを指先で撫でてやりながら、無言でまた、先を促す。
 「何があったの?」
 笑みを含んで、言った。
 「知ってるくせに。」
 おかしそうに、ジェットが言った。
 また、しばらく、黙ったままでそうしていた。
 まるで、生身のそれのように、暖かくてやわらかなフランソワーズの体。もう、記憶すら定かでない、母親の両腕の感触が、脳裏に甦る。
 ひとのからだ。失ったのは、それだけではない。時間も、思い出も、家族も、死ぬという贅沢も、血を流すという特権も、とうに失われてしまった。
 だから、9人の仲間は、寄り添って生きている。家族ではなく、けれど、家族のように。これ以上、失うことのないように。
 もう、充分すぎるほど、失ってしまっているから。
 「アルベルトと、寝た。」
 不意に、ジェットが言った。
 ふと、ジェットの髪を撫でていた手を止め、フランソワーズは、じっとジェットを見つめた。
 ええ、そうね、とだけ言った。
 「アナタが誘ったの?」
 ああ、とジェットが答える。
 「そうでなきゃ、あのカタブツ、100年経ったって、何も言わない。」
 「そうね、アルベルトは、そういう人だから。」
 眠りを覚まされた。もう、真夜中を過ぎていた。
 押し殺した声、ベッドが、常にない重みにきしむ音、長らく、感じることのなかった、他人の気配。静かだったけれど、フランソワーズの耳には届いた。
 見ようとしたわけではなく、まだ完全に覚めきってしない神経が、油断をした。見えたのは、ふたりの姿だった。
 目を閉じ、耳と閉じ、また、眠りに落ちようとした。
 こんなに長く一緒にいて、互いしかいないことを思い知って、恋とは、呼べないのかもしれない。それでも、求め合っているのは事実だった。生身ではないから、そんな形の他人との交わりを、ふたりが避けていた---特に、アルベルトは---のを、フランソワーズは知っている。
 アルベルトは、ないものと、失ってしまったものと、諦めようとしていた。けれどジェットは、諦めなかった。
 長い、長い間。
 




 悪趣味なこった、と、アルベルトは、努めて冷笑を唇にとどめて、それからジェットに手を伸ばした。
 それは、ジェットのことをそう言ったわけではなく、いかに生身らしく機械の体に改造するか、苦心した科学者たちに対する揶揄だった。
 いかに、生身に近く、生身らしく。全身、生身の部分など、どこにも残っていないというのに。
 そんな機能を残しておいたのは、恐らく研究者たちの、意地のようなものだったのだろう。完璧なサイボーグ。ひどい皮肉だと、改造した本人たちは思いもせず。
 生殖能力はない。一体、誰を相手にする? 生身の人間との恋が許されると、彼らは思ったのだろうか? 時間の流れから取り残されてしまったサイボーグたちが、子孫を残すこと、またはそのふりをすることを、厭わないと思ったのだろうか?
 互いしかいない。
 生身の他人を求める可能性を、残しておいたと、彼らは思っているのだろう。自分たちの努力と結果を、誇りもしたろう。それが、どんなにか、サイボーグたちを傷つけるか、考えもせずに。
 生身の体を持つ人間の、傲慢さ。
 それを、アルベルトは、悪趣味だと言った。
 指を絡めて、胸を重ね、それから、唇を触れ合わせた。
 静かに。
 言葉は、それきりなかった。
 久しぶりに触れる、他人のからだ。人工皮膚でも、鋼鉄の胸でも、他人のからだに変わりはない。自分では、ないもの。自分と似た、けれど自分ではないもの。
 ぎこちなく膚をこすり合わせる。もう、遠過ぎる記憶を頼りに、昔そうしたことがあると、必死に思い出しながら、互いに触れる。
 次第に、夢中になる。もう、息も声も殺さず、お互いの奥深くを、戸惑いながら探り合う。
 無理する必要はないと、アルベルトは言った。躯は、言葉を裏切っていたけれど。
 それでもジェットは、そこから先が欲しかった。比喩ではなく、アルベルトと繋がりたかった。心を繋ぎ合わせてきた時間の長さを、どうしても、自分の体で思い知りたかった。
 ためらうアルベルトを、囁きでなだめながら、ゆっくりと導いた。ゆっくりと。
 からだの重み。満たしてゆく形。触れ合う、神経の末端。深く繋がる、ふたつの機械の体。
 アルベルトの髪が、揺れていた。
 うっすらと目を開けて、その動きを追いながら、アンタが好きだよ、とジェットは言った。


 ベッドが狭いせいか、それとも、他の理由からか、アルベルトは眠れないらしかった。
 身じろぎもせず、けれど眠りを呼び寄せられず、アルベルトが闇を見つめているのを、ジェットは感じていた。
 うっすらと、部屋が微かな光に満たされ始めた頃、薄闇の中で身を起こし、アルベルトは部屋を出て行った。
 ジェットを、振り返りもせずに。
 こっそりと、その背を見送りながら、もしかすると、取り返しのつかない失敗をしたのだろうかと、ジェットは思った。
 踏み越えてはいけない線を、越えてしまったのだろうか。この孤独と想いに、ひとりで耐えるべきだったのだろうか。自分のエゴよりも、仲間を大切にするべきだったのだろうか。アルベルトに、軽蔑されたのだろうか。
 そんなことを考えながら、ジェットは、ひとりのベッドで声を殺して泣いた。それから、浅い眠りに落ちた。




 
 フラソワーズは、まだジェットの髪を撫で続けていた。
 人を恋しく思うのを、止めることはできない。
 体は機械に変わっても、心までは変えられない。恋は、からだではなく、心でするものだから。
 長い間耐えてきた孤独の深さを、フランソワーズは知っている。
 みんな、知っている。9人はいつも、それに耐えてきた。それぞれが、それぞれのやり方で。
 ぽっかりと開いた、時間の狭間の穴の底で、いつも上を見上げ、決して抜け出ることのないその底で、9人はそうとは語らずに、そこでは互いしかいないことを、思い知っていた。
 だから、互いに魅かれ合うことは、偶然ではなく、必然なのだと、フランソワーズは知っていた。
 いつかは起こってしまうことだった。今でないなら、未来のいつかに。必ず。
 「大丈夫?」
 フランソワーズは、優しく訊いた。
 アルベルトが、二度と戻って来ないことを、ジェットは恐怖している。触れ合えないなら、それはいい。けれど、仲間を失う恐怖に、ジェットはひとりで耐えられなかった。
 答えずに、また、フランソワーズの膝に、額をすりつける。
 「くすぐったいわ、ジェット。」
 からかうように、またいっそう強く、頬をこすりつける。フランソワーズが、声を上げて笑った。
 「ねえ、ジェット、少し眠った方がいいわ。」
 囁くように、言う。まるで、子守歌のように。
 柔らかく耳に響くフランソワーズの声を、音楽のように聞きながら、気持ちがほんの少しだけ、なごめられてゆく。ほんの、少しだけ。
 「フランが、一緒に寝てくれたら。」
 子どもが駄々をこねるのにそっくりな口調で、ジェットが言った。
 ふふ、っと笑いをこぼして、フランソワーズはジェットの背中に覆いかぶさると、シャツの上に浮き出ている、真っ直ぐで硬い背骨に、軽く唇を滑らせた。
 「ダメよ。」
 「どうして? ジョーがいるから?」
 「違うわ。」
 ジェットが初めて顔を上げ、フランソワーズを真っ直ぐに見た。
 捨て猫が、最後の希望にすがりつくような、瞳。
 「だって、アルベルトが帰ってくるもの。もう、ドアの前に、着きそうよ。」
 フランソワーズにだけ聞こえる、足音。今日はいつもより、重く、引きずるように聞こえる。
 ジェットが思わず、後ろを振り返った。
 「多分、戻って来たら、真っ先にここに来るわよ。アナタに会いに。」
 「どうして、そんなことがわかる? もう、オレの顔なんか、見たくもないと思ってるかもしれないのに。」
 「だって、アルベルトも、アナタを好きだもの。」
 ふと、空気が動きを止めた。
 ジェットは、今にも涙がこぼれそうなほど、大きく瞳を見開いて、フランソワーズを見上げていた。
 アルベルトがそれを口にするのは、恐らくずっと後のことだろう。傷を舐め合うのを、何より嫌うあの男は、冷淡なふりをして、ジェットに何も言わないかもしれない。それでも、気持ちもない相手と、座興で繋がれるほど、器用でもなければ自分勝手でもない---彼自身が、そう自分を見せたがっているにせよ---あの男が、ほんの気まぐれでジェットの誘いに乗ったのではないことに、確信があった。
 気まぐれだったらどんなにいいか。そう思っているのは、恐らくアルベルト自身に違いなかった。
 自分の気持ちに戸惑って、だから、逃げ出した。それでも、ジェットを想って、もう、恋に落ちていることを自覚してもいいのだと気づいて、還ってくる。ここに。ジェットの元へ。
 ジェットの頬に両手を添え、これ以上ないほど優しい瞳で見つめてから、フランソワーズは、ジェットの額に口づけた。
 「大丈夫よ。心配しないで。時間だけが、アタシたちに残されたものだから。」
 離れてゆくフランソワーズの指先に、ジェットの唇が触れた。
 ベッドから立ち上がり、まるで踊るような足取りで、ドアへ向かう。
 その背に、ジェットが、最後に言った。
 「Thanx、Sis (ありがとう、姉さん)。」
 ドアに手をかけて、顔だけで振り返って、フランソワーズはもう一度微笑んだ。
 ドアをそっと閉め、また、耳を澄ませると、アルベルトの足音が、もっと近くに聞こえる。
 耳と目を閉じ、何も聞こえないことを確かめてから、フランソワーズはまた、踊るように歩き出した。


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