Price Of Love



 ジョーが、夕食の後で、みんなの目の前で、フランソワーズに、小さな箱を手渡した。
 ジェロニモなら、指先ほどの大きさしかない小さな包みは、つるつると光る紙に包まれ、上品なピンクのリボンがかかっていた。
 一目で、何か特別なプレゼントだとわかる。
 ハインリヒの頭の中に最初に浮かんだのは、ジョーが何か、フランソワーズを怒らせたのだろうかということだった。
 仲直りのしるしの、小さなプレゼント。陳腐な手ではあるけれど、あの、誰の心も溶かさずにはいられない、ジョーの笑顔つきで渡されれば、どんなに頑なな気持ちも、一瞬で溶けてしまうだろうと、そう思った。
 グレートが、夕食の後片付けを終わらせた張大人に、何事かひそひそとささやき、ピュンマは、うっすらと微笑んで、隣りにいるジェットの肩を、軽くつついている。
 ジェロニモは、いつも通り、特には表情もなく、中国茶の入った小さな茶碗を、指先でつまんで、音も立てずに、その香りのいい茶を飲んでいた。
 ギルモア博士は、とっくに書斎に引っ込んでいて、この、小さな出来事に、当てられずにすんでいた。
 ピュンマの隣で、ジェットがどうしてか、唇をへの字に曲げて、ジョーとフランソワーズの、事の成り行きを凝視している。
 フランソワーズは、薄く頬を染めて、その、細いきれいな指先でリボンをとき、かさかさと、丁寧に箱の包みを取って、ようやく、箱の中身にたどりついた。
 部屋にいる全員が、視線だけで、フランソワーズの手元を見つめ、何が出てくるのだろうかと、少しだけ、息を止める。
 能力を使えば、箱の中身など、すぐにわかってしまうのに、それをしないのか、しないふりか、フランソワーズは、その間中、何かしら、という表情を、一瞬たりとも崩さなかった。
 女ってえのは、すごいもんだ。
 グレートがいれてくれた紅茶を、音を立ててすすって、ハインリヒは、心の中で苦笑いする。
 包みの下から現れた箱の中には、宝石が入っている、あの、ぱたんと上に開く、びろうどの箱が入っていて、それを見て、フランソワーズが息を飲んでから、ジョー以外の全員が、一瞬、静かにどよめいた。
 思ったことは、全員同じだったのだろうけれど、いや、それなら、それを尋ねる言葉があってしかるべきだと、全員が思い当たって、緊張は、少しだけ和らいだ。
 ジョーは、そんな雰囲気に、気づいているのかいないのか、ただ、にっこりと笑って、自分の恋人が、贈ったプレゼントを開けてくれるのを、今か今かと待っている。
 フランソワーズが、ついに、箱を開けた。
 「ジョー・・・」
 名前を呟いて、手の中と、照れたように笑うジョーを交互に見て、フランソワーズは、溶けるように微笑んだ。
 プレゼントは、フランソワーズのおめがねにかなったらしい。
 もっとも、そのくらいのふりが出来てこそ、一人前の女なのだろうけれどと、ハインリヒは、少しばかりの揶揄を含んで、思った。
 フランソワーズは、箱の中から、その笑顔の元を取り出した。
 小さな、イヤリング。目を凝らさなければ、よくは見えないほどの、優しげなつくりの、イヤリングだった。
 耳につければ、そこで揺れる、淡いピンクの石がついている。金色の台は、フランソワーズの髪の色によく映えた。
 かわいらしくて、上品で、フランソワーズは、みんなの目の前で、まるでショーのように、そのイヤリングをつけて、どうかしらと言いたげに、耳に指を添えて見せる。
 「きれいだ・・・」
 ため息交じりに、うっとりと、ジョーが言った。
 こんなことには、みんな慣れてしまっている。もう、他の誰も目に入らずに、ふたりがうっとりと見つめ合ったところで、全員が、それが当然の大人の態度として、ふたりを放置することに決めた時、その空気に逆らうように、ジェットが、つぶやきにしては、少し大きな声で、ふたりに向かって言った。
 「見せつけるんなら、他でやれよ。」
 全員が---フランソワーズとジョーも---、ぎょっとなってジェットを見た。
 ジェットは、その視線をはじき返すように、ことさら唇を突き出して見せると、いきなり部屋を横切って、リビングを出て行こうとした。
 「ジェット!」
 フランソワーズが、普段は使わない、強い声を出す。
 それに振り返って、ジェットが、フランソワーズを見た。
 頬を赤らめて、フランソワーズが、ジェットをにらんだけれど、ジェットは、肩をすくめただけで何も言わず、そのまま、リビングを出て行った。
 足音が消えるまで、フランソワーズは、ジェットの消えた方向をにらんでいたけれど、くるりとジョーを振り返って、
 「ごめんなさい。」
と、消え入りそうな声で言った。
 「いいよ、キミが謝る必要はないんだ。」
 「ジェットには、アタシから、ちゃんと話をするから。」
 「大丈夫だよ、フランソワーズ、ボクは気にしてないから。」
 思わず、その場にいる全員が、ジェットの言ったことに、ふと同意したい思いに駆られたことは、ふたりには知らせないまま、みんな、気まずい雰囲気をそれぞれにやり過ごして、また、ふたりに向かって、うっすらと微笑んだ。


 深夜を過ぎて、ハインリヒは、まだ本を読んでいた。
 ことこととドアを叩いて、返事を返したドアの向うから、ジェットが姿を現した時、ハインリヒは、ちっとも驚かなかった。
 ジェットは、ドアを閉めてから、まっすぐにベッドにやってくると、はずむように、どさりと、ベッドに腰を下ろした。
 「・・・フランソワーズとジョーに、謝る準備はできたのか。」
 ぶ、と、ジェットが唇を鳴らす。
 そんなわけないだろうという仕草だったけれど、横顔は、ハインリヒの言ったことを肯定していた。
 まだ、膝に乗せた本からは視線を外さず、ハインリヒは、ジェットを無視するわけではなく、けれどかまいもしない。
 そんなハインリヒの膝に上に、本に、顔を隠すようにして、ジェットが頭を乗せてきた。
 「姉を取られて、悔しがる弟だな。」
 うるせえ、と、本の向うから声が聞こえた。
 手が伸びて、本の上に、指がかかる。何かと思っていると、ジェットが、そこから本を取り上げた。
 ハインリヒが、右手の近くに置いていたしおりを、体を伸ばして取ると、開いていたページにきちんと挟んでから、ジェットはぱたんと本を閉じた。
 それから、体を起こして、ハインリヒに少し近づくと、そっと胸に、頭を乗せてきた。
 いきなり視界に広がった、赤い髪を、あごを引いて下目に見ながら、ハインリヒは、その髪を、右手で撫でてやる。
 「・・・あんなふうに、誰も目も気にせずに、いちゃつきやがって・・・」
 まだ少し悔しそうに、ジェットが言った。
 「オレは、いちいち、気にしなきゃならないのに。」
 そんなことに腹を立てていたのかと、ハインリヒは、ようやく合点が行ったように、ジェットの髪に、あごを乗せるように、軽くうなずいた。
 「あんなふうに、あんなもの、みんなの前で贈って、あんなうれしそうに、ありがとうって・・・」
 結局、何もかもが、気に入らなかったらしい。
 ふたりが、公然と、恋人同士として認められているからこそできるすべてが、ジェットには、とりあえず否定されている。それが気に入らなくて、悔しくて、あんな態度を取ったのだと、ぽつりぽつりと、ジェットが話す。
 それにいちいちうなずいてやりながら、ハインリヒは、髪を撫でる手を止めなかった。
 俺が相手じゃな。
 仲間の前で、つい、そう振舞うなら、それはかまわない。けれど、外の世界で、ジョーとフランソワーズのように振舞うわけには行かなかった。
 たとえ、ジョーとフランソワーズのような立場だったとしても、おそらくハインリヒは、あまり人前で、恋人然としては、誰とも振舞わないだろうとしても。
 それでも、ジェットはたまに、そんな関係に焦れているのだと知っているから、ハインリヒは、ジェットの繰り言を、黙って聞いてやった。
 「アンタに、イヤリングなんか贈ったって、アンタ、絶対あんなふうに喜ばないし。」
 「・・・あんなふうじゃなくても、喜ばないな。」
 「どうせ、オレは、センス悪いよ。」
 「それ以前の問題だな。俺にイヤリングを贈るっていう、そんなことを思いつく頭から、まず治してもらえ。」
 「・・・・・・素直に笑えよ、冗談なんだから。」
 だから冗談で返したつもりだがと、そう思いながら、もちろんこんな言い方で、ジェットに伝わるわけもないと、思い直す。
 ジェットが、ハインリヒの左手を取った。
 そちらは人工皮膚に覆われているその手を、頬に当てて、それから、指のつけ根に、そっと口づける。
 「オレが女だったら、アンタ、オレに、あんなもの、くれたか?」
 「なんだ、イヤリングが欲しいのか?」
 「違う!」
 冗談で返したつもりだったのに、また、ジェットには通じなかったらしい。
 緑の目が大きく見開かれて、左手を握ったまま、ハインリヒを、上目ににらんだ。
 「そうじゃなくて・・・・・・わかるだろ、オレが言いたいことくらい。」
 ジェットの瞳を見返してから、その真摯な色に、少しだけ気圧されて、それでも視線を反らさないまま、ハインリヒは、やっと唇を開いた。
 「・・・ああ、わかる。」
 納得の行かない表情で、ジェットが、それでも目を伏せ、また、ハインリヒの胸に、頭を傾けた。
 「目に見える形で、アンタと繋がってるって、そう思いたい時だって、ある。」
 生身の人間で、男と女、なら。
 人前で手を繋ぐこと、肩を触れ合わせること。恋人だとして、振舞うこと。結婚すること、子どもを生むこと。家族を、つくること。
 許されていないことが、あまりにも多すぎて、ふと、息苦しくなる。悪いことをしているのだろうかと、ふと、思う。
 だから、そうでないと思いたくて、形が欲しくなる。
 まるで、普通の、生身の人間のように。
 普通の、男と、女のように。
 できるはずは、ないのに。
 ジェットの思いが、痛いほどわかるけれど、わかったところで、現実は変わらない。
 ハインリヒは、ただ、慰めるためだけに、ジェットの髪を撫で続けていた。
 ジェットが、ハインリヒの左手を、じっと眺めていた。そこにまるで、求めている答えが、書いてあるとでも言うように、ジェットは、じっと、ハインリヒの左手に、目を凝らしていた。
 なあ、とジェットが言った。
 「ペン、あるか?」
 「ペン?」
 聞き返すと、ジェットがうなずいて、
 「できたら、水で消えないヤツ。」
 あごをしゃくって、ベッドサイドの引き出しを示すと、ジェットが、急に勢いよく、そこに腕を伸ばして、がたがたと中を探り始めた。
 「あった!」
 弾んだ声とともに、黒の油性のペンを取り出すと、ジェットは、またハインリヒの左手を拾い上げ、目の線まで持ち上げると、薬指の根元に、ぐるりと、そのペンの先を滑らせた。
 「おい、何してる。」
 青みがかった白い膚の上に、冷たく濡れた感触が、じわりとにじむ。
 真っ黒い線が、少しねじれて歪んで、くるりと1周した。
 妙に楽しげな様子で、ハインリヒの左手を放り出すと、今度は、ペンを右手に持ち替えて、自分の左手の薬指に取り掛かった。
 ペンの先を、人工皮膚の上に当てたところで、ふと、ジェットが動きを止める。
 すくうように、斜めにハインリヒを見上げて、ジェットには珍しい逡巡の後、そっと、そのペンを、ハインリヒに差し出した。
 「・・・アンタが、描いてくれよ。」
 体のわきに、両手を投げ出したまま、すぐには、ペンに、手を伸ばさなかった。
 うっすらと、自分の頬が、赤くなっているのがわかる。ジェットが、ぐるりと線を描いた左の薬指が、そこだけ、うずいているような気がしていた。
 「・・・水では消えなくても、いずれ、こすれて消える。」
 ジェットが、ふっと頬の線を硬くして、きゅっと唇を結んだ。
 いつもの、気の強い視線が、ハインリヒをにらむ。
 「消えたら、また、描けばいいだろ。」
 とんと、額を、指先で弾かれたような、そんな気がした。
 そうか、と、パズルの、最後のピースをはめ終わった時のような、清々しい気分が、頭の後ろを駆けて行った。
 ゆっくりと、ジェットの手からペンを取り上げ、奇妙に真剣に、ジェットの左手を取った。
 視線を落とし、その、長い形のいい指の線を、視線でなぞって、それから、丁寧に、ペンの先を、薬指のつけ根に滑らせた。
 なるべくきれいな線を引きながら、知らずに、唇を、引き結んでいた。
 終わって、ペンを、何事もなかったように引き出しに戻し、何度も掌を裏返し、拳をつくって、その真っ黒い線を、照れたように満足気に見下ろすジェットを、ハインリヒは、どこかほほえましく見つめた。
 自分の左手を見下ろして、掌を返して、初めて、照れくささが、表面に立つ。
 らしくもなく頬を染めて、ハインリヒは、ジェットの引いた、その少しねじれた線に目を凝らす。
 消えたら、また、描けばいい。
 そう、それだけのことだ。
 そしていずれ、描かなくても、すむ日がくる。必要なくなる日が、くるかもしれない。
 「・・・明日、ちゃんとフランソワーズに、謝れよ。」
 手を見下ろしたまま、ジェットに言った。
 「・・・ジョーにも、ちゃんと謝るよ。」
 素直にそう言って、ジェットがまた、胸の中に、体を傾けてきた。
 肩に腕を回してやると、ジェットの左手が、ハインリヒの左手をつかんだ。
 「・・・今度は、青か赤のペンにしようぜ。」
 指に視線を当てて、くつくつと、ジェットが笑う。
 「おまえの好きにしろ。」
 そう言って、赤い髪に口づけて、力いっぱい、ジェットを抱きしめた。


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