Pushing Me Away



 ドアを開けて、そこに見つけた顔に、少しばかりの驚きを見せる。
 リンゴだと思ってかじったら、オレンジだった、そんな感じの驚きだ。
 ジェットは体をずらして、突然の訪問者を、中に招き入れた。
 訪問者は---ハインリヒは、どこか怒ったような表情のまま、まだ何も言わず、電話も入れずに悪かったとか、いてくれて良かったとか、そんなことは、すべてその仏頂面の上に、うっすらと表現してある。
 「今、着いたのか?」
 まったく、と頭を振りながら訊くと、ああ、と短く返事が返って来た。
 弾む会話には、まったく興味がないと、ハインリヒは言わずにジェットに伝え、ジェットも、ドアを開けた瞬間から、もうハインリヒの突然の訪れの目的をわかっている。
 色気もムードも、へったくれもないのな、アンタ。相変わらず。
 両腕を伸ばして、こちらから誘ったのだということにするために、ジェットは会話をあきらめて、ハインリヒの唇を塞いだ。
 冷たい薄い唇に触れるのは、一体いつ振りだろう。
 目さえ閉じずに、ジェットの、揺れる睫毛を、じっと見下ろしているのだと、知っていた。
 ハインリヒの両腕が、ようやくジェットの背中に伸びた。


 手荷物さえ、ろくにない、いつも突然の訪れ。
 真一文字に結ばれた唇は、物言いたげに震えながら、けれど決してそのためには開かない。
 開けば、際限もなくこぼれ落ちる言葉に、ハインリヒ自身が驚いてしまうから。
 言いたいことは山ほどあるけれど、それを語らないのが自分だと、長く生きる間に、そう決めてしまったらしい。
 言いたいことが、そうあるとも思えないのに、口先だけが達者なジェットとは、そんなところが正反対だ。
 躯を繋げると、その、語らない言葉が、聞こえてくる。
 息を弾ませ、まだ明るい部屋の中で、言葉も交わさずに、膚を交わす。
 言葉の絡まりは、躯の交わりよりも陳腐で、その程度に親密なふたりは、躯でおしゃべりをする。言葉で語るよりも雄弁に、躯は心を語る。もっと深く、もっと無意識の部分まで。
 語りたくはない言葉を、躯に語らせ、ハインリヒは、いつもジェットに伝えてくる。
 たいていは、少しばかりの怒りと、少しばかりの失望と、少しばかりの悲しみと、大きな後悔が、躯のうねりを通して伝わってくる。
 自分に対する怒り、自分に対する失望、自分に対する憐れみ、自分がしたことへの後悔、誰かに対する、かすかな怒り、誰かに対する、かすかな悲しみ、誰かに対する、かすかな希望、誰かに対する、深い架空の後悔。
 バカやろう。
 ハインリヒが動く下で、薄目に様子をうかがいながら、ジェットは心の中でつぶやいた。
 make loveという表現の、的確さと、それゆえの浅薄さと意味深長さを、ジェットは自分の躯の中で感じている。
 入り込んでくるハインリヒの形に添う、柔らかな、生身ならもっと傷つきやすいだろう粘膜。
 互いに、傷つきやすさを、さまざまな形で示して、もっとも傷つきやすい状態で、傷つきやすい部分を、重ねてこすり合わせる。
 確かにこれは、愛なのかもしれない。
 愛をつくろうとする行為なのかもしれない。
 愛に何かをさせようとしているのかもしれない。
 裸身を晒すことのできる相手が、この世に10人しかいないのなら、裸身を晒して抱き合える相手は、もっと少なくなる。
 こんなふうに、陽の差し込む部屋で、合わせる素肌は、本物ですらなかったから。
 剥き出しになった機械の部分や、ジェットの噴射口や、隠すべきものは、数えれば、両手の指など足りない。
 そしてこれは、愛などではない。
 選択のない選択は、選択ではありえない。
 a little or nothing(ほんのちょっぴりか、ゼロか)。
 ジェットは、ハインリヒの首を引き寄せながら、わざとそう、耳元でつぶやいてみた。
 自分の呼吸の音を聞いているハインリヒに、そのつぶやきは、届かなかったけれど。
 ほんのちょっぴりだって、ないよりはマシさ。
 誤解だって、無関心よりは、ずっとましだ。そう、自分に言い聞かせてみる。それが虚しい言い訳なのだと知っていて、それでもジェットは、そう繰り返さずにいられない。
 ハインリヒには、ジェットの躯の奥深くが語る言葉が、聞こえているのだろうか。
 それとも、自分勝手な理由でジェットを使っているとわかっていて、恐ろしくて、ジェットの真意など、知りたくもないのだろうか。
 それとも、単に関心がないのか。
 抱き人形に過ぎないジェットの心のうちなど、どうでもいいのだろうか。ジェットを抱くのに、邪魔なだけなのだろうか。
 愛の形をなぞりながら、ハインリヒが表すのは、愛などではなく、ただの、感情の発露に過ぎない。
 吐き出すのは、にせものの体液と、嘘と、他の誰かに向かうべき欲情。
 それを黙って受け止めながら、抱きしめた体の暖かさと、分け合った躯の奥深くの感触だけは現実だと、それだけに満足しようと、ジェットはいつも必死になる。
 誤解と無関心なら、誤解を選んで、相手の嘘と欺瞞を許した方がいい。
 それが、いずれ自分を深く傷つけるのだと、たとえ知っていたとしても。
 自分の上で重くなったハインリヒの背中を抱いて、ジェットは、裸の胸をこすり合わせた。


 すっかり薄暗くなった部屋の中で、ジェットは、ひざを抱えてベッドに坐り、ベッドのふちに腰かけ、裸の背中を見せているハインリヒを、じっと見ていた。
 「まだ、だめなのか、アンタ。」
 「俺だけで、決められることじゃないだろう。」
 いつも、別れの時間が近づくと、交わされる会話。まるで、喉の奥に録音されているように、飽きもせずに同じ問いを、同じ言葉で繰り返す。
 「訊いたのか?」
 「尋けるか、そんなこと。」
 ハインリヒが、右のこめかみを押さえながら、苛立たしげに言う。
 「素直に言やあいいだけだろう。」
 「素直さが、いつも最上だとは限らない。アメリカ人のおまえと、一緒にするな。」
 「ああ、ヨーロッパ人ほど、偏屈じゃなくて、良かったよ。」
 ドイツ人ではなく、ヨーロッパ人とジェットが言った理由がわかっていて、ハインリヒは、うつむいていた顔を上げ、すっと首を曲げた。
 横顔だけでジェットをにらみ、水色の瞳が、氷の色に変わる。
 「"グレート、俺はあんたを抱きたいんだ。あんたに抱かれるばっかりじゃなく"。」
 へたくそなドイツ訛りで、ジェットがハインリヒの口調を真似る。
 ハインリヒは、もう一度、はっきりとジェットをにらんで、また顔の位置を元に戻した。
 「そんなことしてみろ、壊れちまう。おまえと違って、ずいぶんとやわな体だからな。」
 「うそつけよ・・・・・・嫌われるのが、怖いだけのくせして。」
 初めてそう言った時、ハインリヒは、いきなりジェットの首に手をかけた。
 今はもう、ぴくりとも動かず、ジェットの言葉を聞き流している。
 「ここに来て、黙ってオレのこと押し倒すみたいに、やっちまえばいいだけだろう。」
 「おまえと、一緒にするな。」
 おまえと、一緒にするな。ジェットは、耳の中で、言われたことを繰り返して、黙り込んだ。
 おまえとグレートは違う。グレートは、大事な存在だ。おまえは違う。グレートは大事な友人だ。おまえは違う。俺はグレートを失いたくない。おまえは違う。グレートを、多分、愛してる。おまえは違う。
 言わない言葉が、耳の中に流れ込んでくる。
 泣き出してしまえればいいのに、と思う。
 こんなにも近く、躯を重ねて、ジェットが聞くハインリヒの言葉は、グレートのことばかりだった。ハインリヒが聞くジェットの言葉は、彼についてのことばかりに違いないのに。
 目の奥の痛みをやり過ごして、ジェットは、ハインリヒに見えないように、自嘲と侮蔑の笑みを、一瞬だけ唇の端に刷いた。
 恋する相手を、はっきりと軽蔑するのは、自分自身を傷つける。
 こんな人でなし---文字通りの意味でも、ハインリヒは人ではない---に、心を奪われてしまったのは、なぜなのだろう。
 体だけを、ここに運んでくるのだと知っていて、手の届かない心を、それでも恋う。
 ハインリヒを受け止めながら、いつか、注ぎ込まれただけ、心を傾けてくれるだろうかと、そんな虚しい夢を見る。
 それでも、アンタは、ここに、オレに逢いにやって来る。
 心はすべて、他の誰かに捧げてしまっているくせに。
 ジェットは、ハインリヒの、丸まった背中に手を伸ばした。
 背骨に触れながら、金属と人工皮膚の境目に、そっと頬をすり寄せる。
 「アンタ、かわいそうな奴だな。」
 ふっと顔を上げ、ハインリヒが首をねじった。
 「黙れ。」
 残酷になりきれないこの男は、ジェットを傷つけ、それによって自分を傷つけ、いずれはグレートを傷つけることを恐れている。
 聡明さの裏にあるのは、信じ難い愚劣さだった。
 その愚劣さに、踏みつけられながら、それでも、この人でなしを想うことを止められない。
 機械の方の肩に触れ、ジェットは、無言で両腕を、ハインリヒの胸に回した。
 人工心臓の上に右手を重ね、もう、その鼓動以外は何も聞きたくなくて、ジェットはそっと目を閉じた。


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